見出し画像

体の匂い

病を得てから夫が匂うようになった。たまたま時期が重なったのかもしれないが、おそらく加齢臭である。仕事から帰って脱いだ靴下も嗅げるほど、夫は体臭の薄い人だった。出張続きや二日酔いでよほど疲れているときを除くと、彼は常時無臭であった。

インナーの上からかぶるパーカーなどは、一週間身につけても洗い立てのようだったのに、いまでは一日着るともう匂う。私に匂うということは出先でも匂っているはずなので、彼の衣類はまめに洗うようになった。

以前勤めていた会社に長く患っている人がいて、彼からはいつも独特の匂いがしていた。服用している薬の影響なのか、おそらく長い時間をかけて体内に吸収された、ほかの人は誰もまとっていないような、彼特有の匂いだった。

次に入った会社で、隣の課の男性が突然倒れて入院した。一年あまりで復職したのだが、階段ですれ違ったときにやはり独特の匂いを感じた。階段を上るのに疲れたのか、彼は私の真横でふうと深い息を吐いた。前の会社で患っていた人と、とてもよく似た匂いだった。彼はその五日後に急逝した。

夫は去年、12時間に及ぶ外科手術と2時間の内視鏡手術をして、病巣はすべて取り除かれている。服用する薬の数がずいぶん減り、いまは毎日1種類の胃薬を飲むだけになった。ゴルフができるほどの体力を回復したが、体重は7キロ落ち、白い毛髪は細くなった。食後は長く横になる。確かに彼は老いた。この一年で急激に老いた。

かくいう私は半年前から左の肩が上がらない。1年ほどでまた上がるようになると医者に言われた言葉を信じて、日々リハビリに励んでいる。鏡を見るまでもない。私も老いた。

出会った20年前、二人の体はしなやかで、抱き合えば溶けて一つになれそうなほどやわらかな皮膚をしていた。いまは艶も張りも失われ、髪がはらはら抜けていく。肩に落ちた髪を互いにつまみ上げ、痛いところはさすり合いながら、刻々とさらに老いていくのだろう。夫の衣服に沁みた匂いを、私は存外好きである。

最後まで読んでくださってありがとうございます。あなたにいいことありますように。