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死という未知に就て

こんにちは、猫ねっこです。
今回は超自然的な分野に少し踏み込んでみます。

死という事は誰しもが逃れられないものであり身を以て直面するとやはり掴みどころのない恐怖を感ずるのでしょうか。仮に眼前の現世が酷く苦しければ希死念慮という様にそれを望んでしまうことは現代こそ往々にあるようですね。

抑、何人たりとも科学的にその死後に就いては確証を持って知り得ません。そこにあるのが希望なのか絶望なのか、はたまた全くの無意識なのか、何もわかりません。経験則的な試み、即ち臨死体験を集めその規則性等を追ってみたりする事は近年こそ国内外に数多く見られますがそれこそ個々人の主観とそのイドラ(執着による謬見)の総和であってマクロな世界の探究にはとても力不足です。

少し視点を変えます。
超自然的な試みとしては古くは神話に於ける死後の世界への言及、中世では錬金術などでの真理の探究、近代ではそれこそ神智学や人智学というようにその探究は古代から現代に至るまで世界の至る所で続けられています。
尤も宗教は総てその人生を全うする為の手引きであり死やその後についての記述こそ多く見られる事でしょう。

死に対し興味や希望を感ずる人間、それこそ希死念慮を持つ人間こそ宗教や超自然的な試みを求めるべきだと私は考えます。手に取る文献を正しく選ぶ必要こそありますが。

死に対しての根拠なき希望や願望は南米から“アメリカンドリーム”を抱き米国本土を目指す移民が抱くそれと同じようなものです。即ち死やその後の実態を正しく知らず目の前の現世から逃げるように死を望む事はとても危険です。

まずは古代から続く死やその後への探究の軌跡を深める事が肝要と思います。科学以上に長く、少なくとも千年以上の歴史ある試みである事は確実です。

現世が苦しく自死したとしてあの世が現世より楽な状況であるかどうか、その選択に絶対の確信を持てるまではやはり自ら探究することです。

死とは五感とその肉体が見た目に枯れるように魂が変化してゆく事、即ちより高い次元(形而上)への状態変化の様なものでしょうか。それには正しい老いの過程が必要です。あなたの主なる部分が形而上の世界を中心に、それを重んじてゆくという様な、その様な変化であってほしいと私は思います。
その為にも命続く限り、魂を物理的な執われから離れた状態にする事を目指して“修養”を続けていくつもりです。

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