「貧しい途上国の人を救わなきゃ!」と「推しはかわいそうなので報われるべき!」が本質的に同じなのではという問い

大学で、文学作品を読んで、正義と法の視点から分析してみよう、みたいな授業と、途上国のフェミニズムの授業をとっていて、タイトルにあるようなことを思い浮かびました。

スーザングラスペルというアメリカの女性作家が書いた、Trifles(邦題:些細なこと)。簡単に言えば、ある女性の旦那が、家の中で、死体となっているのが見つかります。駆けつけたご近所さんや警官らは、彼女が殺したと決めつける。一方、彼女は多くを語らず、誰が殺したのかわからない、という。
当初は、彼女が殺すなんてありえない、と思っていた近所の女性たちが家を捜索した結果、DVの証拠ともとれるようなものが多々見つかり、やはりこの人がやったのでは、、と確信を持つところでこの作品は終わります。

教授は、この作品は、poetic justiceが作用している、と言いました。警察らは、容疑をかけられた女性は何かを隠して居ると決めつける。女性らは、彼女はかわいそうに、DVを受けていたのだ、だから夫を殺すという反撃に出たのだ、と決めつける。読者も、夫はDVをするし、男は女性を信じないし、そんな女に厳しい世界にいるかわいそうな彼女は、夫を殺して当然だ、と思い込む。
でも、待てよ、彼女本人の話には、誰も耳を傾けてない。

途上国のフェミニズムにも、少し似たような現象が出てきます。
先進国のリベラルな価値観から、途上国の女性は、保守的な社会で抑圧され、教育を受けられず、自由を制限されているはずだ、だから、彼らを救ってあげないといけない。9.11同時多発テロからアルカイダへの反撃を始めたアメリカのブッシュ大統領は、テロリストに抑圧されている中東の女性を救わないと、を一番の理由としていたそうな。
彼女らは本当に抑圧されているの?本当に救ってもらいたいの?あなたたちの価値基準をそのまま当てはめることが、彼女らを救うの?

両者に共通することは、ぼんやりとした正義感・使命感が先行し、「彼らを救ってあげないと!!」と強者が介入する、でも、弱者とされる当事者の直面する現実や、望んでいることには、正義感の強い強者たちは、ちゃんと向き合っていないのです。

アイドル好きな私にとって、ああ、これはアイドルオタクの文化にも当てはまることだな、と思いました。

特に最近はジャニーズJr.をよく見ているのですが、ファンのツイートや動画のコメントなどで、よく見られるのは、「何年も頑張ってきた誰々は報われてほしい」などというコメント。

これを因数分解してみると、ファンの中には、アイドルはこういう活動をできるようになると売れている客観的な証明、という条件がいくつかあるのです。例えば、グループに入る、デビューする、ドラマにでる、などなど。

その、「アイドルはこうあるべき」の正解を、個人に当てはめて、それに満たない人は、かわいそう、報われてない、のです。

本人たちは、本当にそう思っているのでしょうか。メディアの前での発言や行動は、彼らの本心の、ごくごく数パーセントしか現れてないかもしれない。もっと、嫌なことや変えたいことがどこか違うところにあるかもしれない。実は、今の状態の方が好きで、別に向上心とかは特にないかもしれない。

誰かのことを、かわいそう、と思うとき、人は自分の価値観を押し付けているだけなのかもしれない。逆に言えば、かわいそうに見えない瞬間でも、彼らはとても苦しんでいるかもしれない。

アイドルを好きでいる上で、そんなことを心の片隅に置いておきたいと、日々思います。アイドルだろうが、誰だろうが、やりたいことをやりたいと叫んで、やりたくないことをやりたくないと意思表明する、嫌なことは嫌だという、それをサポートできる人でありたいと思います。芸能人の自殺が多い背景には、それができてこなかった社会の責任も、あるのかもしれない、と思いながら。

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