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音楽は教養なのか?

われわれにとって、音楽に向きあうことは、自分に向き合うことであります。

生き物全ては自然の中のほんの小さな一瞬であり、なかでも微々たる存在猫目石一族は音楽というゆりかごに乗り、さまざまな環境音とともに心地よい日々を過ごしております。


毎朝窓を開けると鳥の歌が聞こえてまいります。すると一人の年寄りがおもむろに、自作の曲で、空白があるもの(曲の途中で長めの休符が入る)を鳴らして、鳥の歌に重ね合わせることが、日課となっております。

この醍醐味は創った本人にしかわからないと、年寄りはよくつぶやいております。このような心地よさを楽しめる仕事がどこからか与えられることもありまして、最近は幸せそのものであると感じられるようになりました。

人族猫族世間一般では仕事=労働であり、苦痛なもの。できればやりたくない。しかも生涯仕事を続けるなど、考えることもいやだと思っておられる方がほとんどではないでしょうか?

今のわれわれは、「もしかしたらこの仕事を(音楽のなかでも創作を)零細ではありながらも一生続けていくのではないか?」との予感を感じる毎日でございます。

思い起こせば幼少の折、全くの自然体で、創ることに入っていった覚えがあります。創ることは、どこかの幼児教室に入って強要されたものではなく、創りたいから作る。

猫目石のばぁさんは過疎地におりましたので、その地に幼稚園は存在せず、幼児教育なるものを受けておらないと、金平に話してくれました。幼稚園は義務教育ではありませんので、行く必要はありませんね。その辺はクリアしておるのですが・・・義理父が「音楽をやるなら幼稚園には行くな」と申したことも理由の一つであったようです。

小学校の教師には「いまどき幼稚園にもいっておらない人族はいない」と義理両親が怒られたようです。で、義理母は「この子は音楽をやるので(幼稚園に通わなくても)いいんです」と宣言したとか?教師には変わり者で非常識な親だと思われたらしく、その後も「この文章は子どもが書けるわけがない。親が教えたに違いない」と難癖をつけられたりしたようですね。

要するに子どもらしくない。素直に思ったまま書くのではなく、どこかに創作したような箇所がある。それが悪いことであると指摘されたようです。他でもいろいろあったようでして、その都度義理母は心を痛めることが多かったと、申しておりました。

義理母は「先生はすぐに子どもの心を傷つけるようなことをおっしゃる。子どもに正直に伝えたら傷つくから言わなかった。」と後々われわれに訴えるように申しておりましたね・・

わからない人族猫族に何を申し上げても無駄骨折りのバカモノとなって、徒労に終わります。

そういう気持ちがあったせいか?猫目石一族は世間一般からはずれた道を歩き始めることにしたのですね。

幼少の頃から軌道に乗り、上手に世間を渡り、バリバリと仕事をこなしておられる方々のお話を伺えば、趣味もセンスも何もかもが大きく違うと感心することしきりでございます。

われわれは、非現実の世界。こちらの方向に向かっていく環境にあったのでしょうか。聞くところによれば6歳までの環境が人生を決めてしまうとか?われわれは、その通りの生き方になってきておりますので、全くの間違いではないと思います。

幼少の頃から、音楽をたしなみ(教養)として、アクセサリー的な位置付けとして扱う環境にいなかったため、今でもその名残を受け継いで生きております。

ストレスで身体が痛んだとき、自律神経の働きが悪い日、音楽に向かっておりますと、時間が経つうちに元気になっていること、多々あり。

マインドフルネスを実践するときには、座って呼吸を整えますが、そんなことをせずとも、同じような効果があることに気づきました。(音楽にはフレーズと呼ばれる息づかいがあり、こちらが作用しているのかもしれませんね。最初に作曲の先生についたとき、息のことをずいぶん言われました。息の短い曲を書くな、息を長くとれと、ことあるごとに注意を受けた・・今はその真意を悟りました。)

ご利益的な話をすれば、息づかいが長い=自律神経の働きが正常に近づける手段ででもあるのです。かといって、誰にも彼にも通じることではなく、人や猫を選ぶのでしょう。

隠遁生活を送っておる、偏った猫族人族の記事。あまりお役には立たないでしょうが、また書きます。





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