掃溜めの備忘録 #4
2024/06/30(日)
社会学徒の基礎的な動作の一つに、個人が自由意志で選択したと思い込んでいるものが、実際は社会がそうさせたものではないかという疑いを持つことがあると思う。勿論、極端な社会決定論に陥ってはならないが、多くの病理は実際は社会による苦しみなのに、自己の選択として、自己責任論の中で個人が悩むことによって生じる。適切に社会の、多数派の責任を問うていく。社会学が好きな学生がいるのはそういう側面に惹かれてではないか。
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Work hard, play harder.とボランティア同期が言ってた。全くその通りだ。
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この台詞、最初聞いた時は只の巫山戯た台詞(自殺希望者なのに、苦しみも痛みも避けたいという、本気で死ぬ気がなさそうな発言としての台詞)だと思っていたが、2回目に聞いてから考えが変わった。とても本質的だと思っている。
現代人の死にたみは、結構これだ。現世は苦しい、痛い、でも物理的な苦しみ、痛さを超えてまで自殺を敢行できない。怖い。死ねない。嗚呼死にたい。斯ういう訳だ。昔は結核の苦しみから逃げたい、貧しさ故の空腹が耐え難い、等もう少し肉体に基づいた死にたみがあっただろう。然し、この飽食の時代にあるのは多くが精神的病理由来の死にたみで、それはーー身体的苦しみより辛くないということもないのだがーー身体的苦しみを超える必要条件にはならず、「メンヘラ」とかいう安易な言葉に一括りにされ、今日も生きている。
2024/07/01(月)
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2024/07/02(火)
うわーバレてるのかこの文章、みたいな恥ずかしさと一生一緒。
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衒学的趣味
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死、とかがすぐでてくるこの文章に、何故だろうと思う。1つには文学部出身ということがあろうか。文学部にはしょっちゅう「死」が、モチーフとしても主題としても現れる。
2つ目には大森靖子氏の現場だろうか。彼女の現場は死と生が蠢いている。前の人がペンラを振り上げれば無数のリストカット跡があることがあれば、何時もいたあの人が自殺未遂をした話を耳にしたり、実際に死んでしまったり。でも、どうにか生きに来ている。夜の街の地底深く、ライブ会場で。
均質な集団で生きてきた自分にとって、最も多様性があるのが彼女の現場で、いつも見ている社会が皮相のように感じる。それぞれの人生が蠢いている。「いろんな都合や言えない事情」を各々に抱えて生きている。交わらない。交わるのは舞台上の大森靖子氏においてのみ。然し、それで十分。社会で人は普通交わらない。只、人生と人生と人生と人生が隣り合って同じ空間で同じ交点を見つめている、それだけで世界の懐を感じられる。
2024/07/03(水)
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2024/07/04(木)
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怠惰と墮胎は似ている。
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先輩、ねぇ先輩。
なんで笑ったの?
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先輩とか、先生とか、そういう概念、ホラーが生まれるよな。年下のほうが通常狂気をまだ持っているから。
2024/07/05(木)
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2024/07/06(金)
どんなに陳腐でも、書くことがある人生は素敵だ。他人の人生ではなく自分の人生を生きているから。
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