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ryo(supercell) feat. 初音ミク/ODDS&ENDS 〔一人相撲と夢の中〕

※ 本投稿は歌詞解釈ではなく、一般市民の一人がどのようにこの曲を聴き入るかを書いたものです。


前口上

 筆者はボカロの熱心なリスナーとは言い難い。大御所の有名曲は知っている程度。また、ボカロの歴史にも通じていない。
 ただ、一楽曲として感じ入るところがあったため、筆をとる(いつでも、そういう身勝手な発露が僕の原稿なわけだが)。本稿で扱う楽曲から得た個人的発見を書き連ねるばかりの私的な文章です。(とはいえ、何か界隈常識からして間違いがあれば、それは全て筆者の責任です。)

疎外される者、疎外されて照らすもの

いつだって君は嗤われ者だ(中略)
いつもどおり君は嫌われ者だ なんにもせずとも遠ざけられて
努力をしてみるけど その理由なんて「なんとなく?」で
君は途方に暮れて悲しんでた
ならあたしの声を使えばいいよ 人によっては理解不能で
なんて耳障りなひどい声だって 言われるけど

 ここでハッとさせられたのが、(主語が大きいことを容赦願いたいが)オタクと初音ミクは共に疎外された者であるということである。オタクと疎外の組み合わせは、実感が伴う人と伴わない人がいるだろう。「鬼滅の刃」等、毎年のようにアニメのヒット作が生まれ、小学生もアニメやボカロに親しんでいる現在、オタクは一般的な単語となった。しかし、一昔前の「オタク」といえば、日陰者であった。知っての通り、宮崎勤の事件でオタクのイメージは地に落ちたからだ。当該事件は1988-9年、本楽曲発表は2012年のため、その間は20年以上あるがオタクの地位回復にはだいぶんの時間がかかったと言っても、誤りではないだろう。(アニメオタクとボカロファンを同列で語っていいかは分からないが、肌感覚としてこの二者は重なる場合も多い。)一方、初音ミクという存在もまた、音楽のメジャーシーンから暫く疎外された存在と言える。歌われているが、機械に歌わせること自体が先進的で受け入れられなかった人も多かっただろう。筆者が中学生の時ですら、「機械の声かぁ」という拒否反応があったのを覚えている。

(参考:2017年知恵袋)

 日陰に立たされた者同士の共鳴。ここで重要なのは「なんとなく」という嫌悪の理由のように思う。日陰に立たされるにあたって、正当な理由などはほとんど存在しない。そこにあるのはマジョリティ性や時代の趨勢が生む、思い込みだ。それを示すように、今では「オタク」は市民権を得た属性であるし、初音ミクをはじめとしたVOCALOIDが歌う楽曲群は子供たちにも歌われている。ただ、未だオタクが全く白い目で見られないかといえば、嘘であると思う。オタバレを全く気にしないオタクがいるだろうか。何かを自信を持って愛することは存外に難しい。「なんとなく」日陰に回ってしまった者を救えるのは、同じく日陰(アンダーグラウンド)からスタートした歌姫なのだろうし、彼女が今や大きな舞台で歌うDIVAになった現実は、多くのオタクを照らす。その時、少なくとも日陰者だったオタクは、完全に日陰者ではなくなる。事実、歌詞で初音ミクは(辛い言葉をかけられてもなお)主人公の傍に寄り添う。明らかにその挙動は理解者のそれであり、救済者のそれだ。オタクが市民権を得た今であっても、日陰を一瞬でも感じたり日陰の過去を知るオタクがいる限り、彼女の歌は救済として機能しうる、などと、サビで立った鳥肌を撫でながら思った。


人間と機械の狭間で

あたしの声を使えばいいよ
あたしを歌わせてみて
あたしがその思想(言葉)を叫ぶから
その思いは誰にも触れさせない

 (彼女をVOCALOIDとして描く楽曲群は皆そうなのかもしれないが、)本楽曲は初音ミクを、とにかく丁寧に人間と機械の狭間に置いているように思う。この手の楽曲をあまり聞いてこなかった筆者としては、そのバランスが絶妙で興味深かったので記したい。例えば、上記の引用は一番の歌詞からとったものだが、「使えば」「歌わせて」は使役のニュアンスを含み、機械(非人間)を思わせる。「歌わせて」は人間でもありうるが、人間が「私の声を使えばいいよ」とはなかなか言わない(アニメを見ていると言いそうな気もしてきてしまうが)。他方、「叫ぶから」「触れさせない」というところには初音ミクの能動性を感じることができる。さらに、「あたし」という一人称を与えながら、彼女のことを決して歌手などの人間に与えられる名前では呼ばず、「ガラクタ」と物質として呼ぶ。
 この意識はMVの映像にも表れているように思う。MVは楽曲を演奏する人間が4人、ロボットが1つ(おそらく歌詞の主人公的立ち位置)、画面に投影される初音ミク*が登場する。キャラクターとしてVOCALOIDをアニメ調に描いて動かすMVも多い中で、このMVは明らかに、人間との対比の中で初音ミクを機械、もしくは架空のキャラクターとして表現しようとする。(なんなら途中まで初音ミクは口元しか映らない。これを初音ミクの最も動かないアイデンティティである「声」のindex*と見ることもできよう。)一方で、不思議なことに、人間が演奏している場面では、まるで人間の歌手のように初音ミクが存在するように感じられる。人間の歌手のMVと同様の風景を見ることで、そこに歌手としての実態を感じることができる。これが映像面での「狭間」だろう。

*ガラクタが集まってできた初音ミク像は一旦カウントしない。
*icon, index, symbol.


夢を見させて

「もう機械の声なんてたくさんだ 僕は僕自身なんだよ」

 なぜ、「僕」は機械の声を拒絶するのか。この点が引っかかるところだった。機械の声を拒否する後に続くのは、「僕は僕自身なんだ」という言葉である。その後の歌詞、「虎の威を借る狐のくせに!」を参照するに、これは自分で歌わないのに評価される者の苦しみと捉えられる。しかし、例えばDECO*27さんなどは自身で歌うことはないが、彼が虎の威を借る狐と言われることは、まずない(多分)。おそらく、これは本楽曲の時代性に拠るのだろう。声(歌)が人間に占有されていた時代に、機械に歌わせることの価値は自身で歌うことに比べ圧倒的に低かったのか。
 だが、芯ある創作者であるならば、初音ミクに自身の曲を歌わせる「僕」は、その歌声を通して「僕自身」を表現できていたはずである。にもかかわらず、「僕は僕自身なんだよ」と初音ミクとその歌を、自身と分離してしまうのは、外部評価を内面化してしまう「僕」自身のミスである。僕は外部の声を取り込んで、自ら自分を見失ってしまっている。

 さて、ここからさらにメタ的に書いていくのでお腹いっぱいの人は戻ってほしい。

 この楽曲にはさまざまな声が登場する。①「僕」が初音ミクに語る声、②初音ミクが「僕」のことばを誰かに歌う声、③初音ミクが「僕」に歌う声、④誰かが「僕」を誹謗する声。それぞれの声が誰によって生まれているかを考えると、①は当然「僕」、②③が初音ミク、④が誰か、と見える。しかし、こうも考えられる。①も②も③も④も「僕」だと。初音ミクを歌わ「せる」のは「僕」であり、「僕」に歌って「くれる」と考えるのも「僕」次第であるし、誰かの声を雑音ではなく一つの声として拾うかどうかも「僕」にかかっている。
 ここで、疎外された者「同士」というのは、実は幻想ではないかという問題が立ち上がる。「僕」が歌わせなければ、初音ミクはその疎外された声を響かせることもない。救済してくれるその声を響かせるのは自分であり、「ガラクタ1つだって救えやしない」というのは、そもそも自分すら救えないということに換言される。なんなら、疎外を作り出したのすら、④を内面化した自分のせいということになる。

 こう解釈すると、折角始まったと思われた2人の世界は、実は1人の世界だということになってしまう。もっといえば、自己責任論の局地のような状況が出来する。笑われるかもしれないが、でも、社会の一部は実際、こういうことを主張し、僕らに強いているのではないかと思う瞬間はある。自分の機嫌くらい自分で取れないの?それはあなたの意見ですよね?そう考えるのが悪いんじゃない?

「そうか、きっとこれは夢だ。永遠に醒めない、君と会えた、そんな夢」

 その中で永遠に続く夢を信じられることは、とても必要なことなのではないか。とてもではないけれど、一人相撲の世界で生きていくことはできない。人間と機械の狭間に位置付けられた初音ミクを、どう解釈するかは確かに「僕」ら自身である。だが、その使役関係から目を逸らさず(使われる機械として表現しつつ)、その上で彼女との関係を救済し合う者同士としてーー夢であれーー信じることに、否、信じられることに、僕はなんらかの可能性を感じる。そもそもそれが、自己の救済の真っ当な仕方なのではないか。遠くの地で人が合掌し始めた時から。
 初めて聴いた時、僕はこういう感想を持った。「ままならない世界において、どんなに酷い言葉をかけようと理解し、寄り添い、そして思う通りに歌ってくれる少女というのは、人間が望んで作り出す妄想ではないか」と。同時に、そういう考えがふと生まれてしまった自分に心の底から絶望した。オタクとは、距離を失うことだと誰かが書いていたが、僕はもうそれができないのか、と。僕はオタクが大好きだ。その熱量を敬愛している。その輪にもう入れないのか、と。
 二度三度聴くうちに、ふと、この夢のくだりのが耳に響いた。この作り手がどのようにこの歌詞を生み出したか分からない。し、僕は考察班にはなれない。ただ、夢でもいいのだという一粒の思いを勝手に受け取ってオタクに戻れるなら、この曲を聴いたと言ってもいいだろうと、そう思った。


後記

 結局僕にとって、曲を聴くということは連続的な体験ではなく、断片的な体験なのだと感じた。いろいろ書いているが、ふと夢のくだりを聴いたときの感情をいかに論理的に説明するかに腐心している駄文がこれである。



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