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端書 猫又堂にて

 鬱蒼とした木立が行く手を黄泉の如く思わせる急な石段を降っていくと、そこが猫又堂である。否、この忘却に蝕まれ今にも朽ちそうな社の名前はもう誰も知らないだろう。ただそこに僕が懇意にする猫又が一匹、今日も居るのである。 

猫「やぁ、また来たのか、物好きだなぁ」
僕「そろそろ歓待してくれてもいいんじゃないかい。猫又なんていう珍奇な存在を告げ口して儲けようなんてこともせず、怖がって無視することもなくこうして猫缶を通して友情を結ぼうとしているいたいけな僕じゃないか。ほら猫缶」
猫「何度も伝えているが私は人間の食べ物を食べられるし好むと言っておるのに。猫とは違うのだ。なぜ頑なに猫用の食事しか供さないのか、君の七不思議の一つだよ。あとだいたい人間ごときには捕まらないよ」
僕「君の言う不思議を数えるとと僕には百不思議くらいあるんじゃないか。つべこべ言わずに召し上がりやがれ、美味しいよ」

 この友人の猫又は人間に化けることができる。と言っても僕は見たことがないのだが。見せてくれと頼んだって禁忌だの一点張りである。しかし頻繁に人間になって人間界をほっつき歩いているのである。なんなら上手く小学校や大学に潜り込んだこともあるそうだ。そもそもこのことを考えていると僕はこの友人の本体が猫又なのか、人間なのか分からなくなるのである。要は人間に化けられる猫又なのか、猫又に化けられる人間なのか、判定できないのである。猫又に化けられる人間は奇妙だが人間に化けられる猫又だって同程度に奇妙である。同等に奇妙であるなら同様にありえそうなものだと幼ながらに思っている。今が夢か現か判別がつかないようなものだ。
 しかし、いやだからこそ僕は猫用の食事しか持ち寄らないのである。僕はこいつを猫だと信じていたい。もしこいつの本体が人間に化けられる猫又ではなく猫又に化けられる禿頭(とくとう)のおやじであったら、僕は連日禿頭のおやじと仲睦まじげに話していることになってしまう。地獄絵図である。別に禿頭のおやじに偏見は持っていないが(禿げというのは程度の差はあれ老若男女見境なく襲ってくる分別のない奴である)、やはり禿頭のおやじは禿頭のおやじとして——例えば居酒屋などで——訓戒垂れてくれるから良いのであって、可愛らしい真っ白ふわふわの猫又に変身して語らってくれる必要はないのである。むしろその変換は何やら不気味な味わいを付け足してしまう。こういうのを蛇足と言うのだ。

猫「お前、今こいつを猫として扱いたいから猫のおまんまを持ってきているのだと考えていたろう。」
僕「いえいえ。」

 この友人は勘が鋭いが心が読めるわけではないらしい。この前聞いたら「そんな阿呆なことを考えている暇があったら皇居の周りでも走ってその貧弱な体をどうにかしたらどうだい」と鼻を鳴らされた。人間に言われたら至極真っ当である。しかし目の前にいるのは人間に化ける猫又なのである。至極不条理である。
 友人は一見真っ白ふわふわの猫である。しかし目を凝らせばその尻尾が二股に割れているのが見てとれる(友人曰く、勿論人目につく場所を歩く時は尻尾を1本のように見せるか人間になっているらしい)。つまり猫又なのである。

 猫又とは妖怪である。『徒然草』で僧を驚かしたあいつである(僧は飼い犬を勘違いしただけだったのだが)。山中にいて人を食うとも言われるが、一般的には長生きした猫が猫又になるという。

猫「おい、おい、大丈夫か、あまり夢想していると彼岸と此岸がくっついてあの世に逝ってしまうかもしれない」
僕「彼岸と此岸がくっつくなら僕だけじゃなくて君もあの世行きだとは思うけどなぁ」
猫「なんだ聞いていたのか。ほら、茶が出たぞ」

 僕は猫缶を提供するが、友人は茶を出してくれる。どこからくすねてきたのか知らぬが、友人は無類の茶好きで日本茶・中国茶・紅茶を大切に猫又堂の中に蓄えているのである。これではどちらがに人間か分からぬ。

僕「相変わらず器用だねぇ、美味しいよ」
猫「当たり前だね、茶は割と嗜みやすいものだと思うよ。勿論本気になったら道具やらなんやら揃える必要が出てしまうが、淹れて楽しむだけなら数分だ。その数分すらとれないと思ってしまう時は、心境ではなく状況の方がおかしいのだ」
僕「そういうもんなのかなぁ」
 僕は大量に時間を腐らせているのである。

猫「さて、君がまた現実と空想の狭間に墜落してしまう前に話を聞こうかね」

 こうやって僕らの交流は始まる。



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