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掃溜めの備忘録 #1

2024/05/14(火)

 「ロマンチシズムと怒り」(朝ドラ『虎に翼』における穂高教授の桂場評)をなくすのが大人なら、子どものままでいたいではなくあるべきではとまで思う。


2024/06/17(月)

 想えば、彼の人は『ヴィヨンの妻』が好きだと言っていた。読んだが、私は理解できたような、理解できなかったような気がする。妻という表象が苦手だったのかもしれない。


2024/06/21(金)

 今即座に助走をつければ死ねるだろう、という瞬間が日常には時折ある。ほんの一瞬であるがゆえに実行されることはない。(人には誰にでも人を殺せる瞬間がある、といったことは京極夏彦が『魍魎の匣』で語らせていたような曖昧な記憶がある。)
 その瞬間にあるのは絶望ではなく尊大な憤怒のようにも思う。絶望して死ぬときも瞬間の衝動なのだろうか。何にせよ死が憤怒の復讐であるうちは死なないものだ。憤怒の解消に死は何も与えないからだ。
 このような夜は底抜けに治安も秩序もない曲が聴きたいが、記憶にないから探せない。日常には治安も秩序も必要だから、探しておけないのである。


2024/06/22(土)

 私は独白体の読み物が好きだ。それは他ならない自分が独白と生涯を共にしているからだった。しかし、職業作家の独白は独白ではない。独白は本来自己完結するもので、他人を引き込めるようなものではない。
 独白は往々にして暗いが、そもそも行為自体とても自己愛に溢れたものである。他者と理解し合うための言語ではない。私による私のための言語だ。この文章だってヤマもオチもない。論理展開も伝達も放棄し、自涜しているだけだ、醜い醜い醜い。

 書き物が面白くなるには他の人とは異なる経験・知識、若しくは異なる観察眼が必要だ。しかし、そもそも人は皆異なる時点でそれは達成されているのではないか。さすれば独白が他人を引き込めないというのは偽となる。引き込めるかは、本人が平々凡々ではないか否か。

 人は正気のうちには死ねない。だからこそ『文豪ストレイドッグス』のゴーゴリは真の自由意志の存在を自ら証明しようとした際、正気のうちに自殺をすることを選んだ。

僕は完全に正気だ。殺人の邪悪を理解し人並みの罪悪感も感じている。”ならば何故殺す”と聞きたいかい?そうだな、君は鳥が好きか?僕は好きだ。重力に囚われず飛翔する完全なる自由。僕はそれを求める。だから天人五衰に入った。

貴方が羨ましい。鳥籠で生まれた鳥は己が囚人だと気付かない。己が不自由だとすら知らず檻の中で幸福に死ぬ。檻はここ”頭蓋骨”だよ。僕達は出られない…この温かく湿った地獄から

君達探偵社は正義の化身だ。正直その輝きに惹かれるよ。一方天人五衰の計画は邪悪そのものだ。だが、だからこそ荷担する価値がある

これは脱獄だ。道徳という生得的洗脳からの。僕は幸福より魂の自由を選ぶ。聞け、我が自由意志の絶叫を
ーーー
実際僕は死ぬ気でいた。真の自由意志の存在を証明するために

「文豪ストレイドッグス」

 基本的に狂気のうちでしか人は死ねない。ゴーゴリはだからこそ正気で、生きながらに上半身と下半身を真っ二つに(しかも時間をかけて)切り裂かれることを選んだ。(結局は異なるのだが。)
 しかし、あのように死んだ(ーー正確には異なるがーー)時点で一般的には狂気の沙汰だ。結局誰が正気かなんて誰にもわからない。ゴーゴリが天人五衰の道化師であることは、意味深い。道化師は正気と狂気の定義を決める者に見える。

 子育て支援策をみると、生政治だ、と思ってしまう。無論生まれた子は健やかに生きる環境を与えられるべきだし、それは産む側世代の責務だ。この2つの感情がまずは全くもって並立しうることを認識してほしい。虐待を受ける児童がいると聞けば怒りを覚えるだろう。しかし、その怒りと同じ程度に国家が産めよ増やせよと唆すことへの嫌悪感は拭えないのだ。(フーコーが生政治を良しとしていたのか、悪しとしていたのか、価値判断をしていなかったのかは記憶の彼方のため、読み直さないといけない。)
 そんなことを会社および大学同期に言ったらどちらからも随分と引いた反応を頂いた。
 先日学費関連の騒動で東大構内に警察が入ったそうだ。かなりの衝撃を受ける(大学の自治の揺らぎだ)。でも、世間一般は賛成なのだろう。デモがあるなら警察を呼べ。
 そんなもんだ。そんなもんだと言って生きていく必要がある。

 書いているときが一番幸せだ。そこは自由意志の帝国だからだ。裏を返せば、自由なぞそこにしかない。

 ポテトフライってポテトを食べているのか、ケチャップを食べているのか、わかんないな。 


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