孤独の服用方法。

 やあどうも、常磐楓です。
品位のお話からちょっと離れて自分語りしてみようかななんて思います。

一応目次。

 


まあ正直目次は機能してないと思うけど、置いときます。

実は友人から面白い技法を教えてもらったのでそれを参照しながら書いてみようかななんて。ロットを使ったやつなんですけどね。

ではほんへ、どうぞ。


「皆」という言葉が分からない。


 ありきたりな疑問。そのはずなんだけど誰もが納得するような答えを導き出すのは難しい。そんな問い。

 「皆」という言葉の具体的な定義を出すことはとても難しい。
あぶれたくなくて、その「皆」について考え続けた小学生時代があります。

しかし、この手の問いは考えれば考えるほど「皆」からは遠ざかっていくような、そんな感覚に襲われます。逆に自分の輪郭がはっきりしていくのだから、集団の中に入ろうとしてもなんだか此処じゃないような。

 でも、なじめないわけじゃないんです。だからこそ、自我だけが先行してはっきりしていく。

当時の私は、それが分からなくて仕様がなかった。
自分は友人たちから見て「友達」と言えるような存在なんだろうか。
そればかりが気がかりで、恐怖だった。

 占星術的に言うなら、12ハウス土星でJOY持ってる(ホールサイン1ハウスでハウスルーラー)なので境界線は強く発揮されそうですね。

 小学生の低学年時にいじめにあってたっていう事もあったんでしょう。人間という存在に対しての猜疑心が芽生えていた私がその疑問に行き着くのはなんら不思議ではない。

結局、当時行き着いたのは「人と繋がることを諦めよう」というある種のニヒリズム的な価値観だった。そこに意味なんか無いと断じた私は、加速度的に人から離れていこうとした。

私は私が孤独であること、一人で居ることを厭わなくなった。
始めの頃は虚しさはあったが、徐々に薄れていく。
虚無感が薄れていくにしたがって、「テストの点数が良かった事」「コミュニケーションを取る事」「部活に打ち込む事」に意味を感じなくなった。

有り体に言うなら、人生に楽しさを見出せなくなってしまった。
虚無主義的な価値観の弊害だ。
今後悔しているのは、そういった価値観を持つにはあまりに若すぎたというところだろうか。自分の手で腐らせていくにはあまりにも悲しすぎた。

だが代わりに図書館に籠った。本を読んでいる人を「陰キャ」と罵る風潮があった現代においては「本を読む」という行為は現実逃避にうってつけだった。

おかげで速読スキルが身に着いたのは僥倖だ。
本の中で宇宙に触れた。星に触れた。外の世界に想い馳せた。

あの時の図書館籠城がなかったら、私はこうして占星術に触れることはなかったであろう。それに母が気づいてくれなかったら、私に占星術を勧めることはなかっただろう。

逆に私の母は、私が孤立していること・一人で居る事を選ぶ傾向を心配していたらしく、当時の担任や小学校の校長へ相談をしていたというのもある。

そういう意味では色々心配をかけたなと苦笑いが浮かぶ今日この頃。


孤独って何なんだ。


 定義上での孤独は、
「精神的なよりどころとなる人や心が通じていると感じる人物がおらず、寂しい事」となっている(google調べ)

ここで言う「人」は両親でもいいし、友人でも先生でも良いはず。しかし、なぜ私は「孤独」を感じていたんだろうか。

簡単な話だ。
「人と人が完璧に理解し合うことはない」と感じていたからである。見えない境界線を生活の中でくみ取っていたのかもしれない。

 上記で挙げた「皆」というのは集団であり、その集団内で共有しているものを指す。しかし、その「皆」は何を共有しているのか、何をルーツとしているのかを知る由はあまりない。

「皆そう思っているはずだ。」という言葉は、「感性」をその「皆」で共有しているはずだが、「皆」はその題となっている感性を共有しているわけではない。

 恐らくだが「皆」という言葉に引っかかっている人は、その違和感を感じていたのかもしれない。

まあもしかしたら、「皆と私を一緒にするんじゃねえ!!!」みたいな自我の発露がある人もいるのかもしれないが笑


孤独という名のクスリ。


 おそらくだが、私は「いじめ」などのトラブルや「価値観の相違」という自問を繰り返した結果、「傷付いた」のかもしれない。

「価値観の相違」について考える事は哲学的で各人ごとに思うことがあり、やはり触れるべき問いであることは確かだが、前述した通り「その問いを持つには早すぎた」のかもしれない。

「対人」に対してのトラウマをネイタルチャートで言うなら「プラシーダス7ハウスのキロン・冥王星」になるのかもしれない。まぁ、DSCが射手座で哲学的な方向性に向かっていくのはある種の必然だったのかもしれないが。

傷付いた私が向かった先は、誰も向かわなかった図書館。人と隔絶された本の世界。自分すら理解してなかった奥深く。

この時、私は確かに「孤独」という名のクスリを服用していた。
傷を癒すために。はたまた、酔いしれる為か。


今の現状を見るに、癒しに作用してくれたのだろう。殻に籠ることが別に悪いわけではない。それをすることで傷を癒し、目に入る光を愛おしく思うことが出来る。

その為にこの「孤独」という名のクスリを服用する必要があったのだろう。
今はそこに「意義」を感じることが出来る。

救いなのは、副作用が出なかった事だ。
このクスリの副作用は正直言ってキツイのだろう。それに溺れる人もいれば、苦しむ人もいる。中には、クスリなんて服用せずにそういった「孤独感」に打ちのめされている人もいるのだろう。

私は選んで「孤独」になったのだ。自由意志があったのだ。ならざるを得なかったという訳ではない。そういった意味でも、私は恵まれている。

このクスリは「皆と一緒にいなきゃor合わせなきゃ」「普通にならなくちゃ」といった強迫意識に悩まされている人にとっては有用なのかもしれない。


今でも私は人生に「意味が無い」と思っている。
だが意味を持たせることが出来ると信じている。良い意味でも悪い意味であっても付与することが出来る。

しかし、それは本当に必要なことなんだろうか。自分に沿った決断・思考なんだろうか。という問いはやはり必要だ。

意味を付与するといったが、それが独りよがりになってしまってはいけない。それで他人からの忠告やアドバイスを聞き逃して、避けられるはずの障害に甘んじてしまうというのはなんか違う。

孤独というのは、時に「自己」を肥大させてしまう副作用があるのかもしれない。孤独の中では己一人。誰もいないという事は比べるものがない。王様にだって成れる。

中高でもこのクスリを服用し、自己の肥大化に直面してきた身からすると、気を付けるべき点でもある。


void-ase(孤独化酵素)


作用:あなたが感じ、受け取った事象に孤独感を生み出し、定着させます。周りとの繋がりを感じにくくし、意図的に孤独感を与えます。


目的の効果:外界へのアクションが難しくなる代わりに、自己意識や内面とのリンクを強化。意図的に自問自答を起こす。俯瞰意識の増強。自我の刷新。外界での機敏に囚われにくくなり、目標・目的に対しての継続力・行動力を増強する。


副作用:自己の肥大化。自身の意見や考えが固くなりやすくなり、視野が狭くなる。情報に対しての懐疑心が生まれやすくなる。隔絶した環境に辟易し、絶望感を抱いてしまう恐れ。注意散漫。希死念慮。


服用方法:1回に1錠、一年に2回を限度とする。再服用する際は2か月の期間を設ける事。服用する際は、大量のネクタルか人魚の生き血、もしくは過冷却した水で流し込む。口内で噛み砕いてはいけません。


服用上の注意:アレルギーが疑われる場合は、すぐに服用をやめて医療従事者への相談を行ってください。過度な作用を感じる際は服用の頻度を抑えるか、本を読むなどの個人的な時間消費を意図的に行ってください。


警告:副作用として、依存性・習慣性が認められます。必要がない場合に服用したり、限度を超えた量や回数で服用することは薬物濫用となります。


では、良い孤独ライフを。





まとめ(というか自語り)


元ネタ分かりましたかね?
もちろん、土星です☆

結構酷いネタを書いた自覚があります。
ひでぇなこりゃ・・・

まあ土星について書きたかったんですけど、自分の過去を踏まえて離してみるとなんか面白そうだなって感じで薬の説明書みたいなものを作ってみました。

燃えたら消す。

意図的な孤独を得ていた。ってのは振り返って思う事なんですよね。実際、組織(学校内)で浮いていましたけど。

逆に一般的な感性を持っている方はそもそも孤独感に苛まされることはまずないのかもしれない。それこそ友達とのつながりだとか。仮に友達と呼べる人物はいなかったとしても親がその理解者だったのかもしれない。

さらに深掘りするなら、当時は悲惨でも、救われている人もいるのかもしれない。そもそもが孤独感なんて感じている暇ねぇ!!かもしれんし。

環境なんて人それぞれだからね。人が人を完全に理解するのは難しいってことを嫌ほど突き付けられた気もする。そんな過去。

それが親に対しても発動していた私は正直言って救いようがない愚かな人間なのかもしれませんね笑


とまあ、これにて駄文を締めくくらせてもらいます。
ありがとうございました。

by常磐 楓



P.S.

「孤独になれるクスリ」って題材で小説書いてみると面白いかもしれない・・・なんか良いテーマが浮かんできたな。

まあ書きませんけど。


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