「人見知りです」って言える人へのある種の羨ましさ。あと自意識とか善意とかについて。

私は、多分いわゆる「人見知り」じゃないんだけど、
人見知りの亜種というか、
ある意味もっと自意識というものを複雑骨折してて性質が悪いのかもしれない。
長時間一緒に居られる関係になるまでには、2・3年かかる。

初対面で、誰とでも明るく話すことはできるんです。
接客業をしていたときは、
「お話が上手ですね」
「あの人と普通に話せるのは凄い」
なんて言われたことも結構あります。

でも、そこから長いトンネルがあるんです。
ある意味で、純粋な「人見知り」の人のほうが、
心を開くまでが長いけど、開いたら心に直通だから、
深く、嘘のない繋がりができやすそうで、羨ましいな~とも思うのです。

「人見知り」というものは、「人に嫌われたくない」「よく思われたい」という、
自意識の発露なわけですが、もっと自意識が肥大すると、さらに、
「人見知りと思われたくない」
「つまらないと思われたくない」
という自意識がかぶさってくるのです。
そういうややこしいタイプも多いんじゃないかな。オードリーの若林さんが、「人見知りすぎると、逆に人見知りっていえない」

って言ってましたが、そんな感じです。芸人にも多そうなタイプですね。

私の人生は、自意識こじらせの歴史です。

人との距離感の取り方をざっくりとタイプ分けすると、

A少しづつ等間隔で心に近づく人(社会生活において最もバランスが良いとされるタイプ)、
B開くまでが長いけど開いたら心に直通の人、
C私のように、一見開いてるようでそこからのトンネルが長い面倒な人…
大体こんな感じじゃないかと。
Bの人がAになりたがった結果、Cになるんだと思います。
テーゼとアンチテーゼでジンテーゼです。アウフヘーベンです。
(何でも哲学で例える系の痛い人です)

太宰治は、人間を生活者と芸術家に分けましたが、
Aは生活者で、BとCは芸術家寄りなんだと思う。
自分のこと芸術家とか言ってあれだけど、芸術家になれなければ、まあただのダメ人間ってことです…。

世間話は苦手だ。
ファイナルファンタジーのクラウド気取りじゃないけど、
基本的に人に興味ないのだろう。
そんな私なんですが、学生の頃、家賃や生活費を稼ぐためクラブで働いていたんです。

人に興味なかったらなかなか難しいこの世界。

どう乗り切ったかというと、まずは、
『木戸にたてかけし衣食住』
方式で、話を振っていった。

木戸に…というのは初対面などで話を振る時の当たり障りない話題の頭文字。

木 気候や季節の話/戸 道楽(趣味)の話/に ニュースの話

立 旅の話/て 天気の話/か 家族の話/け 健康の話

し 仕事の話/衣食住 そのまま

それから連想ゲームみたいに話題を繋いでいくことを心がけました。
はじめは、

「こんなんでいいかな、つまんなくないかな…」

なんて不安でしたが、当たり障りない話題から段々深い話に持っていけるし、

なかなか気にいって貰えました。指名をもらいまくり、黒服には、ゴッドと呼ばれてました…。

あとはノリですね。話すペースは相手に合わせながら、自分自身が「楽しい!」と思いこむことが大事です。楽しさは波及する。

話し終わるのを待つよりも、ちょっとかぶせ気味くらいのほうが盛り上がるかも。

今の自分はそうした努力の賜物であるから、肯定したいものなんですが、なかなかどうして他所の芝は青く見えてしまうもの。私は「変わらざるを得なかった」から変わったわけで、そうじゃなかった人がどこか羨ましいというか。

まあ、ないものねだりなんですね。

自意識について。以前親しかった人が、自意識が強くて、そしてやたらと露悪的だった。

それは、彼の、自意識に対する潔癖さの表れだった。
彼は、「善意」に「邪な心」が混じることを、異常に忌み嫌う。
私のやってたボランティアとかも、思いっきり否定されたっけ。
99%善だとしても、1%邪なものがあるなら、
全否定して、「悪」のほうを選ぶような人だ。
世の中、白や黒よりはきっとグレーのほうが多いのに、
グレーゾーン全てを「悪意」に寄せてるようでもったいなく思うし、
その極端さは現実的じゃなく子供じみていて、
バランスに欠けていると感じた。
でも、そんな人だから為せることもあるんだろうし、仕事ができるし、自意識が強い分ハイセンスで話も面白く自分の見せ方をわかっていて、彼から学ぶことも沢山あった。潔癖症で、刺すような雰囲気が、全体的に俳優の本郷奏多に似ていた。

そして、なんだかんだで優しかった。道で倒れてる人を助けたり、道端にいたカエルを捕まえて車に轢かれないように草むらにポイポイ放したり、100円単位でも落し物を届けたり。

その人は混じりっけなしの人見知りで、それを隠そうともしていなかった。そして、きっと彼が本当に望んだであろう人間関係を手に入れているように見えた。

欺瞞がないというか、どこまでも「嘘」がないし嘘をつこうともしていなかった。

彼は、とにかく初対面を避けようとする。私と初めて二人きりで会った時など、ちょっと震えていた。

「俺はすごい人見知りなんだ」というその人に、「それって社会人として、甘えじゃないのかな」なんて、私は言ってしまったのだけれど、

根底にはたぶん、その人への羨ましさがあった。偽らないで存在してるから。

「きみは自意識に対して真摯だね」
と私が言うと、
「自意識過剰をかっこよく言ったね」
と彼はわらった。
『道徳』や『善』をとことん疑う姿勢は、
見ようによっては哲学者みたいで、
かっこいいといえるのかもしれない。

それもまた、異常なほどの純粋さだ。

でもやはり、そうした意識によって善意の人が躊躇ってしまうとするなら、どうにも肯定できない部分がある。いや、肯定する必要もないんだけどね。

『ラブアンドピース』を否定する人なんてあんまりいないと思うけど、
平和運動とかボランティアとか、やたら批判が大きいよね。
「善は完璧なものであるべきだ」
という理想が強すぎるからなのだろうか。
そうやって善行へのハードルを上げるから、誰も何もしなくなっていくんじゃないのかなあ。自意識が行動を阻害することも、その逆もあるけれど、上手いことやっていきたいものです。

話があちこち飛びましたが、これからも、自分の自意識と付き合っていこうと思います。面倒だけれど可愛い奴です。


#コラム

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