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花丁子を掲げて

 バスに揺られて約15分、青い海が広がる閑散とした駅にたどり着いた。この街に住んで約10年になる。駅前に溜まるヤンチャな中学生も夜21時には電気を落とす赤い看板のコンビニも、ドーナツ屋さんも体にまとわりつく潮の香りも、私からすれば退屈な景色だ。高校生だった私は空に駆ける飛行機を目にするたびに東京への思いを募らせた。絶対にこんなところから出ていってやる、そう思った。当時はこんな田舎町だから早く出て行きたいのだとばかり思っていたが、今思えば家庭環境が他とは少し変わっていた。

 小学五年生になるまで、私は東京の某所に住んでいた。両親は揃っていたし、立地の良い場所に持ち家もあった。友達だっていた。困ることは両親の中があまり良くないことぐらいで、でもそれも普通だと思っていたし、私が頑張れば解決することだと思っていた。当時流行っていた、嘘か誠かわからない「おまじない」が沢山掲載されている本の[大根の味噌汁を食べればみんな仲良くなる]というものを鵜呑みにして母親に強請った。無論、そんなことで解決などしなかった。そんなことがあった直後、両親は大喧嘩をした。そして私たちは、父の仕事中に荷造りをし、逃げるように引越した。

 引っ越した後は全てが今までと違っていてかなり戸惑った。父親がいない生活、方言、学校のルール、友達。全てが0スタートだった。細かいことはもうほとんど覚えていないが、10歳だった私は相当頑張っていたと思う。父がいない生活になって大人の喧嘩を目の当たりにすることは無くなったが、代わりに母からヒステリックに怒鳴られることが増えた。特に掃除機をかけるという作業をするときは一層酷く、繰り返し父への恨み言を叫んでいた(これはのち、一緒に生活をしていた約10年続いたが、おそらく母にはそれくらい余裕がなかったのだろうと今なら思える)。対照的に学校生活に関してはすぐに馴染むことができた。幸い、とてものどかな学校で、珍しく都会から転校してきた私を同級生たちは温かく迎えてくれた。そこで大人になった今でも気兼ねなく話のできる親友もできた。このまま中学時代も部活や勉強に苦しみつつも比較的平和に過ぎていった。

 時は流れ受験を終えた私は、私立の女子高校へ入学した。勉強が大の苦手だったので希望していた公立高校には悉く落ち、滑り止めの私立高校に入学したのだ。余談だが、この時、自分の実力不足で落ちたのにも関わらず、滑り止めの高校に行きたくなくて3日ぐらい寝込んでいた。最初こそ「きっと楽しいこともあるよ、泣けるだけなきな。」と言っていた母も3日もメソメソしている私をみてとうとうブチギレた。当時は「落ち込んでいいって言ったじゃん!嘘つき!」などと思っていたが、まあ勉強しなかったくせに落ちた時だけ立派にメソメソし続けてるのだから、この怒りはごもっともである。
 滑り止めで入った高校は、家が近いという理由で選んだ場所(そもそも入学するつもりはなかった)だったので、学力的には余裕があった。普段から大して勉強をしていなくても学年3位というレベルだったのでテスト前以外は殆どバイトに明け暮れていた。ある意味ラッキーが重なり、指定校推薦で東京の大学へ進学することになる。

 今となっては、両親の離婚も、田舎への転校も、大学で東京へ出たことも全て意味があったのだと思う。これら全てがあったおかげで、今の自分で荒れるわけだし、今の平凡で幸せな生活ができている。でもやっぱり当時は不安や不満だらけだったし、それらの経験が未来でどう生きるのかもわからない、もちろん今だってそう。自分の過去を駄ぐり寄せて描いているこの文章だって自分にとって良い選択かどうかなどわからないのだ。
 でもだからこそ、興味を持ったことには積極的に手を伸ばして行きたいと強く思う。ここに書き記した過去が、書き記している今が自分や誰かの糧になりますように。


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