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「みんなでやろう」を考える


キンチョーならぬ、緊張の夏、五輪の夏、でございます。

その五輪は、「みんなでやろう」の機運は全く感じられず。
なぜそうなってしまったのか。

この機会に「みんなでやろう」(みんなでリスクをとって実施する)の意味とその条件について、あらためて整理してみたいと思いました。

私の子どもが通っていた学童の保護者会時代の(保護者会が主催の)夏の野外キャンプをめぐるあれこれを事例に考えてみました。

地域でのさまざまな活動をすすめる上でなにかしら参考になれば幸いです。

キーワードはやはり、対話。

長文ですので、例によって、この網掛けの部分は適宜飛ばしてください。


(1)いわゆるリスクマネジメントの基本

リスクマネジメントを検索していただくと、たくさんの情報が出てくると思いますが、だいたい次のようなことが書いてあるはず。私もこの原則で考えています。

○どんな場合もリスクゼロはない

○それをやることによって得られる価値(ベネフィット)と、失うかもしれないもの(リスク)の両睨みで考える。

○リスクのうち、ハザード(取り返しのつかない事態)が発生することを防ぐ対応策が見つからない場合は、それを行わない(そもそも、価値がふっとぶ から)。

○上記を考えるにあたっては、価値とリスクを極力、正確に把握し、共有することが前提になる。

こんなイメージか。

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(2)「やめておこう」と「やってみよう」

とはいえ、実際の場面では、どうでしょうか。
自治会やPTAなど、地域でのさまざまな活動をすすめる上で、やるかやらないか、どこまでやるかは、しばしば議論になります。
新しい試みの場合などはなおさら。もめます。


①価値への了解 と ②リスクの可視化(読める)
 という2軸で整理してみる。

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A 価値への了解があって、リスクが読めているとき  みんなでやってみよう!となる。(それ以外は、下記のとおりやめておこう、となる)

B 価値への了解がないとなると、「なぜやるの?」という声が聞こえてきます。 → やめておこう に     
C 価値への了解はあるが、リスクが読めていないと、「何かあったらどうする?」「なにか言われたらどうするの?」のだという声が聞こえて来ます。 → やめておこう に 
D 価値への了解もなければ、リスクが読めていない。この場合はもちろん → やめておこう に 

○「リスクが読める」とは、起こりうるマイナスの結果についての想像がついて、(価値を得るために)許容したいリスクと、(価値が得られるかどうかにかかわらず)許容できないリスク(ハザード)が区別がつけられていること。

○安全と安心。
安全は上記のリスクを読んだ上で、必要な対応ができている状態。とくに、ハザードを回避するための対応策がわかっている状態のこと。(ケガなどのマイナスなことが完全にゼロになることと、安全であること、はまったくイコールではないという点に留意しておきたい。これを混同すると、なにもしないことが一番いいという結論にしかならないから)
他方、安心はそのことへの了解(納得)があるという状態のこと。コミュニケーションが問題になる。

*ちなみに、PTAなどの地縁系によくある「年度での役員交代の組織」では、「なぜこれをやってるのかよくわからない」(価値の問い直しが行われない)、かつ「とにかくリスクをゼロにしたい」(去年通りにすることでなんとか一年問題なくすごしたい)ので、結果、新しい試みは生まれず同じことを繰り返すことになりがち(「リスクをとってなにかしてみるなんてとんでもない」)。
「結果がわからない」という部分がない時、それは遊びにはなりません。つまり、リスクゼロではおもしろさは生まれない。楽しかったとはならない。ゆえに、なにかあってもハザード以外は許容しようという心と時間と労力の「あそび」(安心、余白、余裕)が必要。そして、安心は下記の「共同で責任を持つこと」と密接にからんでいると思います。


●以下は、私が経験してきた学童の保護者会によるキャンプの事例
下記の、黄色い文字は、私がかかわってきた学童保育の保護者の運営による親子キャンプの事例。
毎年、実施したいという保護者と、なぜするのか理解できないという保護者の間で、揺れてきました。

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もめるのは、当然でした。メンバーが入れ替わる保護者の組織は、毎年、価値とリスクについての了解を作り直していかなくてはいけないからです。


①価値への理解・了解がない(上図の下半分=B D)

たとえば、1年生の親たちにとってはキャンプは未知。なぜそんなことをするのか疑問に感じるのも当然です。
「みんなで川で泳ぐ機会を」というベテラン保護者の意見に対して、
「水ならプールでいいでしょ」
「いきたい家族がそれぞれでいけばいいじゃない」
という声が聞こえていました。
野外で遊んだり、みんなでわいわいつくっていく経験の少ない若い保護者にとっては、そう思うのも無理はありません。

②リスクが読めない(上図の右半分=C D)

見えないこと、わからないことが不安を生みます。

リスクが見えないと、
「川ってあぶなくないの?」
「よくわからない」
「なんとなくこわい」
となりがち。「とにかく不安」と。

ということで、結果、やりたい保護者とやりたくない保護者で二分されるということになりがち。
保護者同士、保護者と子どもの関係づくりとして、学童にとって、キャンプは最強のアイテムだったのですが、近年は感情的な問題に発展することもしばしばで、みんなで遊ぶアイテムとしてのキャンプは無理が目立つようになっていました。


(3)「やってみよう」 になるとき〜リスクと対話

さて、価値とリスクについて意見が割れたときは、どうしたらいいか。

そこで、対話ができるかどうかが、重要なポイントになるのではないでしょうか。

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①対話による価値の明確化(共有) 図B→A

経験していない人に価値を共有してもらう必要があります。

上記の、キャンプの事例でいうと、私の現役保護者時代は、写真や映像をつかって、前年のキャンプでの子どもたちのいきいきとした表情を見てもらったり、前回のキャンプで子どもたちからどんな言葉が聞かれたか、子どもたちはいまどう言ってるか(「行きたい!」)を共有していった。映像を見て、「いい表情ですね」と共感してもらえたらOK。共感までしてもらえなくても、まあ、いいかと許容してもらえたら十分。

「子どもたち楽しみにしてるよね」
「川で遊ぶといきいきしてるよね」
「みんなで遊ぶと楽しいよね」

この時、「○○○○だから、私はやりたい」と、「 I メッセージ」で丁寧に語り合いたいものです。○○○○は、なるべく経験・エピソードをもとに話せるとよいと思います。これが正しいという言い方(「そういうものだ」とか)になると対話にならず、対立になりがちです。*

*「自分の子どもだけではなく、他の子もことも考えるのは、大人としてあたりまえだろ」などの正しさが全面に出た言い方をすると、対立になっていきます。実感のない保護者にとっては、ただの押しつけ。それらは経験をしてみて、はじめてわかることだからです。

哲学対話のルール」で話せるとよいですね。
1 何を言ってもいい。
2 人の言うことに対して否定的な態度をとらない。
3  発言せず、ただ聞いているだけでもいい。
4 お互いに問いかけるようにする。
5 知識ではなく、自分の経験にそくして話す。
6 話がまとまらなくてもいい。
7 意見が変わってもいい。
8 分からなくなってもいい。


②対話によるリスクの明確化(共有) 図C→A

不安・不明をなるべくたくさん、すべて出してもらう。そのうえで、一つずつその対応策を考えていく。

心配の声に応えて、対応策を考える。
「川下に人を配置する」
「靴をはく」
「休憩する」

「こうすれば、重大事故はふせげる」ことを関係者全員で確認していく。許容できないリスク(ハザード)の発生に対応できないのであれば、それは実施しないことを確認する。この作業は、同時に(価値を実現するため)許容していきたいリスクとはなにかについても共有していくことになる。

例えば、川遊びの場合、河原でケガをする可能性はある。しかし、ケガのリスクをゼロにすることはできない。そこで、ハザード(流される、溺れる、飛び込みが浅くて川底で強く打撲する、ガラスで深く切るなど)を明確にし、これが防げる(必要な対応がとれる)なら実施する。防げないようなら、限定するか、川遊びはやめる。(この判断は当日もある。たとえば、予定の川が深くえぐれていたりとか、あるいは上流の状況を含め天候の悪化はハザードになりうる)

というわけで。
対話を丁寧にすると、どこまでの範囲なら許容できるかの合意が生まれてくる。

「(みんなで)リスクをとって実施する」にはこの対話のプロセスが必要。

*そもそも、情報の公開、共有がないと対話は成立しない。

*また、そもそも場で決めていくことができない=対話にもちこめないと、やってみるにはまずならない。ぷち森会長=「俺が決める」のいる地縁系組織とか、現場に決める権限なし(何事もおこらないことだけが信条の本庁の課長さんが決める)などの場合などは、対話にならないので、新しい試みはすべて避けられることに結果としてなります。

*私の経験した学童のキャンプの場合は、先生と保護者有志が、保護者の行かない子も連れて行くということになっていたので、「連れて行く(預かる)人」も「預ける人」も 互いに納得して実施することができたかどうかは、成功(行ってよかったとみんなが思える)かどうかを決める重要なポイントでした。無理に連れて行ったら、たとえ、キャンプは無事にかえってきても、信頼関係を大きくそこなうことになり、それは保育(日常)にも影をおとすことになる。

*(心配ごとがあって)「言いたかったのに、言えなかった」とあとで言われるのが一番つらい。だから、まずなんでも言えると感じてもらえる場になっているかどうかがだいじ。先輩の保護者が怖かったりしたら意見は出てこない。これは先輩側が気をつけること。

*対話そのものを知らない、または意見が違うことを「もめごと」ととらえ、とにかく避けるという傾向は強くなっていて、結果として子どもたちが行きたいといっても、やらないという判断になることが近年とくに増えていました。
対話って、めんどくさいですもんね。生活に余裕がなかったり、意見の違う人とやりとりする(それはつまり、自分の考えが広がる、変わっていく=学ぶ)おもしろさを知らなかったしたら、当然、避けたくなると思います。

*そもそも昨年からのコロナ禍で、キャンプを経験していない保護者が大半になりつつあり、そもそも、もう風前の灯となっている。キャンプは、保護者が自分の子以外の子との関係づくりにおいて、重要な役割を果たしていただけに、とても痛い。自分の子以外の子をかわいいと思えるようなコミュニティの形成が私たちの学童(NPO法人)の目指すところなので、行事という手段を通じてそれができなくなった今、別のやり方を検討すべく、現在検討に入っている。

(4)まとめ 〜 「わいわい」「あーだこーだ」の価値


みんなで「やってみたいね」を語る
みんなで「心配ごと」を語る

それぞれの意見をもちよって、互いに応答しながら「こんなふうになるといいね」「こうしたらおもしろいかも」とわいわい話し合えること。「こうなったらどうする?」「これはまずくない?」「じゃあ、こうしたらどう?」と、あーだこーだ話せること。
すなわち価値とリスクを出し合って、対話することで、共同で責任を持つことができます。いいかえれば、当事者としての自覚が育まれる。

①当日の安全の確保(ハザードの回避)と②プラスの意味での計画外の出来事(おもしろさ・意外性、偶発性)を許容する気持ちの余裕(あそび)を生んでいく。

丁寧にすすめていければ、その行事が終わったときに、行事そのものの「成功」に加えて、すすめてきた人たちの間に信頼関係が育まれているはず。「コミュニティを育む」という視点でいえば、後者の信頼関係が育まれることのほうが、前者の「成功」よりもむしろだいじなのではないかとも思う。
たとえ、大失敗しても、あちゃーと、笑いあえるような関係ができていたら、それにまさる価値はないし、「またやってみよう」はそこから生まれてくる。

(ベテランの熱い)一部役員がいつのまにか決めました、ということになると、たとえ行事はできたとしても、だいじなものが失われていくということになるのではないでしょうか。

「みんなでやってみよう」となった時点で、その行事はすでに成功とすら言ってもいいのではないでしょうか。

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追記1:コロナ禍

コロナウイルスの感染拡大防止とさまざまな活動の再開については、とても悩ましい一年半でした。

最大の困難は、コロナのリスクが読めなかったこと。未知のウイルスだったことで、主体的な行動がとれず、もやもやしました。

もうひとつは、何をもって不要不急とするのか、つまり価値の問題。これはそもそも人によって、その国・社会によって、評価がわかれるからややこしい。
例えば、PLAYにかかわること=子どもの遊び、スポーツ、そして、芸術・芸能など。このうちプロスポーツなどは大きなお金が動くという別の理由で再開されていったが、経済規模の小さな芸術などは、きびしい状況がつづいています。

政府は、科学的な知見をもとにというより、まさに政治的な理由で規制を強めたり緩和したりするので、社会全体としての了解をつくっていく=「みんなでやってみよう」(「みんなでやめよう」)にはならず、宣言をくりかえすたびに、自粛(協力)は、掛け声倒れになっていった。

上記については、一年ほど前に、こんなふうにまとめてみました。
→「自分の言葉で」

追記2:そして「おれの五輪」……

というわけで今回の五輪を上記の視点で考えると……
五輪がスポーツと平和の「祭典」、つまりお祭りだというのであれば、すでに成功しているとはとうてい言えないのではないでしょうか。。。お祭りはみんなでやるものですもんね。

「みんなの五輪」ではなく、「おれの五輪」となっているのではないか。

①その価値がまったく不明なまま。
もはやなんのためかはさっぱりわからなくなっています。
・首相の思い出話しはあったが……
・コロナにうちかってもいない。震災復興の意味合いも(最初から?)ない。

他方で、どうも放映権料の話と選挙対策、らしい……という憶測がとびかう。コロナ禍がなくても炎天下の開催、深夜に試合を実施など、テレビ(つまりお金)優先の姿勢が目立ち、開催の目的がそもそも不透明だった。

そもそも、スポーツの本質的な意味と、現在の五輪はあまりに乖離しているのではないか、という議論はもっともっと必要だと思う。
PLAY(人の生きるよろこびとしての遊び)としてのスポーツの価値について、いったん立ち止まって議論すべきなのではないか。

例えばもっとこの平尾さんのようないろいろな視点で語られるべきと思う。「五輪と決別せねばスポーツの未来ない」 元ラグビー代表の提言
平尾剛さんの『脱・筋トレ宣言』は、多くの人に読んでもらいたい。

②リスクもまったく明確でない。
五輪を開くことで、どんなリスクを私達が許容しなければいけないのかがまったく明確にされていない。数ヶ月の延期すらできないということなら、何人の感染者、重傷者、死者までなら許容してほしいということなのかを説明する責任があるだろう。明確にして価値をうたって、よびかけるべきなのに。(犠牲者は、一人ずつ病院で静かに亡くなる、事件化しなければハザードと認識されないと読んでいるのではないか、と邪推してしまう)
また契約など金銭面もリスクだが、なんの説明もなされていない。公益事業だというなら、情報を公開してからもの言うべきだろう。
公開できないようなら、私物化の批判を受けるのは当然だろう。


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繰り返しになりますが、何事も、リスクゼロはありません。しかし、ハザード(命にかかわること)を許容せねばならぬ義務はない。
「みんなでやること」とは、まずハザードの回避。ハザードが発生するリスクを許容してでもやる価値は、まったくない。

その意味で、この夏に五輪は開くべきではない。

そして、どうなるにせよ可能な限り、納得していきたい。
現時点の政府、IOC、組織委員会の姿勢は、具体的な不安や不明な点について、一つひとつ答える対話の姿勢も、その前提になる情報の公開・共有もなし。それでは対話とその結果としての納得など生まれるはずがない。

説明をしないのは、現政権の最大の特徴だが、忘れてくれる、あきらめる、が蔓延するのを、待っているように思えてならない。

結果、「納得できない人」と「おまかせする人」ばかりが量産される。分断がすすむ。当事者の自覚を持つ人がいなくなり、主権在民が空文化する。

だからこそ、わきまえないで、あきらめないで、みなで話したい。
この夏の大きなイベント云々だけの問題ではなく、自由で生きやすい社会をつくっていきたいと思うから。

「森会長」は、どの地域にもいる。世界的イベントと、地域の行事はつながっている。「森会長」を生み出さない、私達でありたい。


長文、おつきあいいただき感謝です。

*リスクと対話については、拙著『あそびの生まれる場所』(ころから)の第4章にも詳しく記しています。ぜひお読みください。対話を基本におくことで、ハザード(重大な事故)を防ぎ、楽しかった!が作れるということになるかと思います。