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自分の言葉で

2月の末、突然の休校宣言からつづくモヤモヤ。なぜモヤモヤするのか、どうすれば、少しでも晴れるのか、「公共」の場・施設のありようから考えてみたい。

第一波の「自粛」について、「開く/閉じる」と「主体的でありえたかどうかどうか」を軸に、以下のような図で整理をしてみた。

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3月〜5月まで、学校をはじめとした公共施設は、ほぼ一律に政府または自治体の指示による閉鎖となった(D)。逆に保育園・学童保育所等は強制開所で感染リスクに配慮しつつ開設しつづけることから大きな負担がかかっていた(C) 。*1

●モヤモヤの理由

私達は通常、何かを行う際に、それを行うことの価値(ベネフィット)と、それを行うことによって生じるリスク(望まぬ結果)を天秤にかけて、どうするかを決めている(「リスクマネジメント」)。
そもそも、なにをするにせよ、リスクがゼロはない。

今回のコロナ禍は、2つのリスクを同時に考える必要があった(ある)。
①感染による健康リスク(以下、「①感染リスク」)と、②感染防止により発生する社会リスク(以下、「②社会リスク」)である。
②は、短期的には、「ステイホーム」によるDVや虐待リスク、中長期的には三密禁止(フィジカルディスタンス)による子どもの育ちのリスク、芸術文化の危機、そしていわゆる「地域経済・雇用の危機」等になる。「社会リスク」という言葉はつかっているが、それは①の健康リスク以外のもうひとつの「命の問題」ということになる。数値になりずらく、見えにくい。 *1
 
さまざまなリスクと、しかしそこで得られる価値を考慮し、各施設・場が、自らの判断で、開く/閉じるを考える(A・B)というのが本来のありようだろう。

ところが、今回は、そうした主体的な判断ができないまま、全国ほぼ一律の開ける/閉じるを余儀なくされた(C・D)。

モヤモヤはここから生まれている。

主体的にふるまえなかった(リスクマネジメントが実質的に不可能だった)理由は、もちろん「新型」だったから。何よりも①感染リスクの中身(ハザードの深刻さと頻度)がつかめず、かつ感染防止の具体的な対応策も確定せず、結果、決断の基礎となる情報を各自が持つことができなかったことにある。誰もが「経験知がゼロ」なのは、痛かった。

政府の方針も揺れ、(形容詞ばかりが多く)肝心のその判断の根拠がきちんと示されていたとはいえず、「納得」にたどりつけなかった。

たとえば、「自粛」とは、本来リスクマネジメントにもとづいて、自分で判断し「閉じる」「しない」を決める、こと、つまり(B)のはずだが、実態としては、「世間の目」への忖度(「配慮」?)からだけで(D)となった施設も多かったのではないか。*2

(C・D)は、納得の上の行動ではないので、主体的な行動をするものに対して攻撃的な感情を生みやすい。*3

●川崎市子ども夢パーク に学ぶ

ほぼすべての(いわゆる託児機能をともなわない)公共施設が閉まるなか、「川崎市子ども夢パーク」(公設民営/川崎市が設置、NPO法人 フリースペースたまりば等が指定管理者として運営)は開園しつづけていた。②の視点での「命を守る」という主体的な判断の結果だった(A)。
https://digital.asahi.com/articles/ASN5K5SVTN4SUTIL04D.html

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川崎市と所長の西野博之さんはじめ夢パークのスタッフのみなさんの仕事は、高く評価されるべきだと考える。
単純にあの状況で開いていたからすごいと言いたいのではなく、公設の施設として主体的な判断の結果、「開く」を選択し、かつ、それを積極的に発信していた点で、傑出していた。仮に感染者が出ていたとしても、おそらく「感染者が出るリスクよりも、閉鎖によるリスクを重くみる、という判断をした」ということをきちんと説明されただろう。(これは私の想像。そして、もちろん最大限の感染防止対策を講じての開園継続だったとうかがっている)。

また、公設(官設)施設をつかっていない民間の居場所の活動の中には、周囲との関係に気をつかいつつ、なんとかぎりぎり②の社会リスクの高い人を受け入れる判断をしていた場所もある。 *4

さらに言えば、開くことを要請された保育園、学童、介護施設も、主体的にの両方をにらみつつ、開園していたといえる園もあった。「この子は家庭にいるよりも、通ってきていたほうがいいよね」と保護者への「登園自粛のお願い」の「ニュアンス」を工夫していた園もあった。「どうしてもつらくなったら登所しても大丈夫だよ」と呼びかけていた園もある。介護施設なども、社会的な関係性をだいじにしていた施設ほど、苦悩し、可能なかぎりの関係性の保持に向けて努力していたと聞く。

●「コロナに負けない」

そもそも、コロナがあろうがなかろうが、本来、誰しも自分の生を主体的に生きていきたい、可能な限り自分で(自分たちで)納得・覚悟・決断をして暮らしたい(なるべくA、Bでありたい)。

第一波はそれがほぼできなかった。withコロナ/第二波は違う迎え方をしたい(もう来てる?)。極力、納得して閉じ、納得して開きたい。*6 

「コロナに負けない」という言葉をときどき耳にするが、「主体的に生きようとすること」という意味としてとらえなおしていきたい。

「不要不急」とは、誰が決めるのか?
何が「必要火急」なのかは、本来、その人自身が決めることなのだ。


●何が必要なのか

そのためには、可能なかぎり正確な感染状況および感染防止の情報が必要になる。
とりわけ検査体制の拡充は、最重要の課題になる。望めば誰でもが検査を受けられる体制がつくれれば、人々は、自分自身についての情報を得て、自分の行動を自分で決めることができる。お上の沙汰をまたずとも、①②両方のリスクを下げるためにどうすればいいのか、市民同士で議論し、対話し、より多くの工夫を考え出すことが、もっとできるようになるだろう。*7

また、医療体制、保健所などの基本的なインフラを可能な限り拡充しておきたい(とくに医療従事者の確保は急にはできないので、最も力を入れてほしい)。

他方、政治のリーダーが、社会全体として閉鎖/解除などを決断するときは、その根拠を可能な限り明示してほしい。根拠が示されないままの閉鎖/解除は、強い社会不安・不満を生む。(←これがモヤモヤを大量生産する)
根拠が共有されない → 現場は主体的な判断ができない → 「世間・まわりが基準」となり → 苦情がこない、話題にならない=なにごともないのが一番 → 「とにかく閉鎖」となりがち(D)。明確な根拠を示し、必要に応じて補償を明示すれば、事業者は納得して主体的に「閉じる」判断ができる(B)。 *8 

とはいえ、誰もがはじめての事態。政府も当然、間違うだろう。
もし、政府・行政の方針・施策が間違っていたら、その根拠を示し訂正してもらえればよい。失敗は責めない。そこから皆で学びたい。
しかし、だからこそ、嘘、隠蔽、粉飾は許さないようにしていきたい。それは私達が学ぶこと=主体的であろうとすることを明確に阻害するからだ。

●仲間を気遣う行為としての感染予防

すでに第一波の時のように、感染リスクのみに焦点をあてた対応は難しい。①感染リスクと感染防止にともなう②社会リスクの両方を軽減するにはどうしたらいいか、今後もかわらず難しい局面はつづく。
科学的な知見と、現場の知恵・経験を丁寧に共有していくしかない。

一ついえることは、誰のせいかという犯人探しをしている場合ではないということ。2つのリスクを同時に下げていくためには、「感染をしていることが安心してまわりに告げられるようにしておく」ことが必要ではないか。

航空機の重大事故は、パイロットが小さな事故を隠すところからはじまる。だから小さな事故の申告は、奨励され、罰することをしない。犯人扱いが怖くて、隠すことになると、①感染リスク=クラスターの発生リスクは高まることになる。

「感染者」である前にともに生きる、助け合う「仲間」であることを、今一度確認しておきたい。①感染リスクの軽減も、②社会リスクの軽減も、ともに「仲間を気遣う行為なのだ」と確認をしておきたい。「感染しようがしまいが、私達のメンバーなのだ」と。


●自分の言葉で

前述の「夢パーク」の施設内にはプレーパークがある。プレーパークは、40年ほど前から、子どもが思い切り遊べなくなっていくこと(ゼロリスクを求め、育ちを保障できなくなっていく社会)に強い危惧を覚えた市民によって育まれてきた遊びの場、またはその場づくりの活動。死亡や後遺症の残る事故を排除しつつ、こどものやってみたいという主体性を保障すること(ケガの許容を含む)を目指し、徹底して対話を通じての問題解決を図ってきた。*9
以下は、拙著でも紹介したプレーパークに通う常連の子どもの言葉。

「おれ、ここ(プレーパーク)の大人は信じれる。『何で(ダメなの)?』って聞いた時に『常識だろ』とか、『きまりだから』とか言わずに、自分の言葉で考えをぶつけてくるから。」(拙著『あそびの生まれる場所〜「お客様」時代の公共マネジメント』より)

子どもから問われたら、可能な限り「自分の言葉」で応えていく大人でありたい。また、どうすればいいかを、子ども(市民)とともに考え=対話の中で、決断していきたい。場を設置している人、そこで働いている人、利用する人、それぞれがともに学びあい、工夫し合い、助け合う関係でありたい。*10 

状況に対して、主体的にかかわること、工夫すること。
そこから生まれる「おもしろい!」。
それを私は「遊ぶ(PLAY)」と呼んできた。

今年の梅雨はなかなか明けない。感染者は再び急増中。
モヤモヤもまだまだ続く。
だからあえて、ちょっと無理をしてでも書いておきたい。
NO PLAY NO LIFE でしょ、と。


補足ないし追記:


*1 「②閉鎖により発生する社会リスク」の例。以下のようなリスクが予想できるのではないか。時間軸で対象人口は増えていく。スクリーンショット 2020-07-12 22.41.49
6月以降の感染者は増えても再閉鎖しない方針とは、長期化によって生まれるより広範囲の人々を対象とした閉鎖による②社会リスク(正確にはそのうちの「経済がもたない」ということになるが)を考慮した判断だということになる。生活が脅かされる人々の数が膨大になった結果、「比較の議論」それ自体は、認知されるようになった。
ただし議論の中身=社会としてどういう場合にどこまで感染リスク(or感染防止にともなう社会リスク)を受け入れていくのか、その合意形成はまだこれからの大きな課題。熱中症とマスクの問題のように、感染しないだけを最優先にするのではなく、その場その場で、なにを優先するのかを選んでいかねばならない。例えば、「ソーシャルディスタンス(フィジカルディスタンス)」vs「 そもそも子どもは三密でないと育たない」。例えば、保育士さんのマスクは、表情を頼りに人とやりとりする乳幼児の生育にとってどうなのかという議論。例えば、「(感染防止のため)隣の子の落とした消しゴムをひろってはいけない」という指導が行われている小学校をどう考えるか……などなど。対立しなくてすむような知恵が発見できれば一番よいが、実態としては、なるべく対立しないようにしつつ、しかし、何を優先するかの選択をしていかなくてはならない。

*2 一般に公共施設は「世間の目」に弱い。かつて私は拙著に次のように書いたことがある。「『何かあったら困るので』は、遊び(心)の火を消す魔法のことば。 このことばの前には誰もがひるむ。ここで言う『何か』の意味は、2つある。一つは、重大事故。もう一つは苦情だ。」(拙著『あそびの生まれる場所〜「お客様」時代の公共マネジメント』)。苦情があるとすぐ禁止する・閉鎖するという対応は、普段からある。とくに公設の施設の場合は、そうなる傾向が強い。「ことが起こらないこと」が最優先事項(基準)と考える設置者(本庁の管理職など)は、苦情が入ると、その活動の社会的価値とリスクを吟味することなく、とにかく苦情が出ないことだけを現場に要求する。結果、官設の施設は、価値の生まれにくい(「つまならい」)場所となりがち。たとえば、保育者は、育ちの支援者ではなく、ゼロリスクの託児の管理者としてふるまうことを(保護者、管理者から)要求され、日々苦悩している。これが、この平成の30年の大きな変化だった。
「ことが起こる」ことについての価値は、社会的な議論がしにくい。住民や子ども自身が主体的に生きることを支援する仕事は、目に見える形でなにかを「してあげる」こと、つまりサービスではないからだ。
いわゆる社会教育の分野はこの問題に長く苦しんできている。公民館で部屋を貸し出すという「数字でカウントできるサービス」は、施設評価の対象になるが、住民自身がどれほど主体的に生きることができているか、民主的なまちや社会をつくっていっているのかは、その評価自体が非常にむずかしく、指標になりずらい。後者こそが、社会教育のアウトカムなのであって、入館者数や図書館の本の貸し出し冊数はアウトプットの一つにすぎないのだが、その価値は共有しずらい。これが「不要不急」という言葉に対して「モヤモヤ」する一つの要因だろう。私達の社会が普段から抱えていた問題なのだ。ドイツ文化相が「アーティストは今、生命維持に必要不可欠な存在」と断言し、芸術家をサポートしていることと対照的である。

*3 (C・D)は納得してそうしているわけでもないので、不満が残る。その不満は、主体的に判断している人に対して攻撃的な姿勢を産みやすく、中には権力や世間への「いいつけ」に走る人が出てくる(「張り紙」「自粛警察」)。

*4 例えば、富山県高岡市にある「ひとのま」は、この「自粛」期間中、ひとのまに通ってきている人々に対して、施設を完全に閉じることはない、ほんとうに苦しくなったら、いつでも来てもいい、というメッセージを出していた。femix発行『we』誌の最新号にて、第一波の自粛をふりかえる鼎談が掲載されています。ぜひご購読を。
リスクを引き受けながら大切にしたいこと


あるいは、東京・荻窪の書店「Title」は、休業要請の対象になっていなかったが、「いまは家にいてほしい」という気持ちから、「閉店」を選択。しかし、家にいると滅入ってしまう人のために本を買えるようにはしておきたかった。そこで、シャッターを「半分開ける」という決断をしたという。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14516642.html

例えば、野外活動の老舗NPO「アルプス子ども会」のキャンプ実施の判断に至る経過なども、とても参考になる。
【新型コロナウイルス感染症(COVID-19)蔓延期における「第46回夏の子ども会」開催に際しての考え】 https://alps-kodomokai.jp/covid19s/
「後回しにできない子どもの育ち:感染のリスクを皆無にすることはできませんが、学年や学校が変わりながらも鬱屈した生活を強いられたこの時期に、のびのびできる体験には大きな価値があると確信しています。」

またフードパントリーなども、人が混じり合う場面ではある。感染リスクはゼロではない。しかし、「閉鎖/ステイホームから発生する社会リスク」への対応を優先させて、3月以降、全国で緊急に活動が開始または強化され、フル回転。今回、広く社会的に許容された活動となった。

*5 保育施設も、こんなときだからこそ、と主体的な開所のあり方をもさくしていた施設もある。
例えば、世田谷区の上町しぜんの国保育園 以下のインタビューに詳しい。
「コロナ禍で浮かび上がったのは、ずっと宿題だった問題。今議論しないと、子どもをめぐる状況は悪化する。命と向き合い続ける『上町しぜんの国保育園』の保育者たちからのメッセージ」
https://greenz.jp/2020/06/24/aoyama_makoto_hoiku/
また、他方、介護施設なども選択の余地なく、開き続けていたが、感染リスクを負いながら、面会・外出制限がかかり、人手不足の中で、ある意味、もっとも過酷な状況を引き受けざるをえなかったと言える。

*6 そもそもコロナ前から、どのぐらいA,Bであることができていたのか・・が露呈した第一波ではなかったか。普段A,Bでない施設が緊急時、A,Bになることはまずない。

*7 検査体制が改善されれば、施設職員も定期的に検査できる。旅行に出る前に検査にいくことができる。旅行代金を税金で一部負担するよりも、検査体制を充実させたほうが、感染防止と経済対策の両立という課題の解決に寄与するのではないだろうか。検査結果の正確性に多少問題があったとしても、行動を選択していくときの一つの指標にはなる。多少問題があることから生まれる感染リスクの許容は、社会的に合意できるのではないか。

*8  為政者が、その時点でわかっていることと、わかっていないことを誠実に示すこと。また、過去の施策についてまちがっていたら、まず、なにがどう間違っていたのかを示し、あわせてその根拠を明確に示すこと。その上で真摯になされる呼びかけがあれば、人々は指示ではなく、納得のもとに自ら決めていくことができる。第一波で国民の支持を得たリーダーは、この点で誠実だったということではないか。

都知事の「東京アラートってなんだったの? 」という疑問には答えず、「総合的に分析する」として、「警戒を発する具体的な数値基準は設けない」というその後のあいまいな方針は、人々を非主体的な位置に据え置くことになるのではないかと危惧する。

ちなみに先日のさいたま市の「10万人子どもたちの医療者への拍手」の動員を報じる朝日新聞の記事での50代の男性校長の「深く考え出すと『私はやらない』という人も出てくる」というコメントは、とても象徴的なもの。「深く考えては、いけない」は、学校という場所が何を目指してきたのかがあらためて問われているのではないか。公立学校は、冒頭の図のDの中の、最も低い位置での対応になってしまってはいなかったか。それはコロナ禍の前からの体質が顕在化したといえるのではないか。忖度することと、主体的に考え、対話することは対極に位置している。子どもたちに学校という場で何を身につけていってほしいか、問い直してほしい。

*9 プレーパークは、現在全国400箇所で活動が行われている。常設は40箇所弱。→NPO法人日本冒険遊び場づくり協会 WEB参照ください。

*10 with子ども、with市民。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=2982671978454219&set=a.378545362200240&type=3

*なお冒頭に示した図は、筆者が理事として参加する学童保育を運営するNPO法人にて、学童保育の育成支援とは何かについて、現場の支援員の方々と2年以上にわたり議論した際、議論の中から生まれてきた図(縦軸に主体性を、横軸に行動をおくという方法論)を応用したものです。育成支援におけるこの手法を含む育成支援の言語化については、現在まだ議論をしており、今年度中にはまとめて発信したいと考えています。学童の先生方に感謝します。