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荻窪随想録2・執行正俊バレエスクール

公民館の跡地から駅方向に向かってはまっすぐ続く道があり、
その右手には確かバレエ教室があって、
と思いながら、横道に注意しつつ歩いていくと、今でも案内札が出ていた。
あまり目立たないけれど、「執行正俊バレエスクール」と書いてある横長のもので、右手を指し示す矢印がついている。

その矢印の示すとおりに横道を入っていくと、その奥にバレエ教室はあった。
私の記憶では、確か道を入って少し行った先の左側だったような気がするのだが、右側に大きめな看板とともに立っていた。
もしかしたら、昔とは建物が変わったのかもしれない。カーテンが閉め切ってあって誰の姿も見えなかったが、バレエシューズが床を踏む、きしむような音が聞こえてきて、中でけいこをしているのがわかった。

ここが、第2次世界大戦前からバレエを教えているような歴史も由緒もあるところだったとは、
実は私は、先頃、川端康成の随筆集を読んでいてその名が出てくるまで、まったくわかっていなかった。

“執行正俊氏が今秋の発表会に、”という書き出しで、

執行(しぎょう)? と目が留まり、
じゃあ、自分が子どもの頃に一時、習おうとしたことのあるバレエ教室はその系統なのか、
と思ったら、
系統もなにもそのものであったことは、ほんとうにこの間知ったばかり。
しかもそれが今も変わらず存続していて、子どもたちにバレエを教え続けていることは、
その後、バレエとはまったく無縁に生きてきた私は、改めて確認するつもりで道を歩いてみるまで気づいていなかった。

小学生の頃、私はここに、母親とクラスメートとともに、見学に来たことがあった。
少女向けのまんが雑誌には、まだ決まってバレエまんがが載っていたような時代だ。バレリーナの舞台衣装は、子どもの目にはお姫さまのドレスのように見えたものだった。
加えて、同じクラスの何人かがバレエを習い始めたので、自分もまねをしたくなったのだ。

でも、板張りのけいこ場で、みながけいこに励むようすを端からしばらく眺めた後、
なにが引っかかったのか、私は母親に向かって、「やっぱりいい」と言ったのだった。
いったいなにがその時、自分のすることとは違うと思わせたのだろうか。
そもそも、当時の女子のたしなみとして習わされていたピアノも、ろくに練習をしていなかったので、単に自分には続けられそうにない、と思ったのだったのかもしれない。

でも、クラスメートたちの発表会はちゃんと見に行った。
今は建て替えた杉並公会堂でだったと思う。自分が習っていたピアノも、発表会となると、杉並公会堂か近隣の武蔵野公会堂でだったから、公会堂というものも、子どもたちには割になじみのある場所だった。
ショパンの『子犬のワルツ』で、舞台を飛び回った友だちの姿が目に浮かぶ。
同じクラスからは2、3人習いに行っていたから、ほかの演目もあったはずだけれど、そのほかの場面は残念ながら思い出すことができない。
ただ、楽屋を訪ねていったら、客席から見ている時にはまったく気づかなかったのに、誰もびっくりするほど濃い青のアイシャドゥをつけていたのにはぎょっとした。以来、舞台化粧にはどうも慣れることができない。

そして、その子たちの誰も、その後、バレリーナになる道には進まなかった。
小学校を卒業する頃には、みんなやめていたんじゃないかと思う。

同じ川端康成の、戦後、日本が復興を目指して前ばかり向いていた頃に書かれた『舞姫』という小説の中には、

“はやりかぜみたいに、女の子は舞踊病だ。”
“津々浦々まで、無数の女の子が、跳んだり、はねたり、まわったりし出したのは、おそろしいですよ。”

と語られる下りがあって、昭和の中期には猫も杓子もバレエを習っていた時代があったらしく、私が子どもだった頃は、やはりそんな時代の名残があったのかもしれない。

今はどうなのだろうか。
フィギュアスケートと同じように、日本人のバレエダンサーも昨今は海外での活躍が目立っているようだけれど、
最近、ネット動画で幼い少女たちに180度の開脚練習をさせる過酷な映像を見て、
こんな無理をしてまで、ある一定の型にはまった美しさを追求する必要があるのだろうか、と思うのを禁じ得なかった。

美しい分には確かに美しい。でも、それを美しいと思う私たちの感性はどこから来ているのだろう。

少なくとも私自身に関しては、バレエを習わなかったのは、やはり必然だったのかもしれない。

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