見出し画像

荻窪随想録3・後ろ向き中学生

「執行正俊バレエスクール」に続く横道は、昔はまだ舗装されていなかったはず。
むき出しで、茶色い、でこぼこのある土のままだった。
なにも私が小学生だった50年以上前に遡るまでもなく、ほんの数十年前――と言ったら、人によってはかなりおかしく聞こえるかもしれないけれど――だって、ちょっと横道に入れば、舗装されていない道はまだこのあたりでもけっこう残っていた。

それがみんなアスファルトなどで固められてしまって、なにがよくなったのかというと、歩く側としては靴が汚れにくくなったということぐらいだろうか。
雨が降った日でも、靴が泥まみれにならないですむ
(ということは、ベビーカーのタイヤもかなり恩恵を被っていることだろう)。
しかし、足の裏に返ってくる道の硬さは、舗装路のほうがきつくなった。
それは、膝に伝わる抵抗のようなもので感じ取ることができる。特にきれいな敷石などを敷きつめるとよけいそうなる。
まあそれも、時代の変化とともに私もハイヒールなどはかなくなってから、気づきにくくなったようだけれど。

私が小学校6年生の終わり頃、私たち一家は、荻窪での10年以上続いた団地暮らしをやめ、
親が土地を買った、横浜の新興住宅地に移り住むことになった。
それは私にとっては非常にショックなことだった。
小学校2年の時からいっさいクラス替えがなく、転校してきたりしていったりする人たちできりなく入れ替わりはあっても、同じクラスメートたちといっしょに大きくなっていったというのに、その仲間たちと別れなければならないだけではなく、自分が生まれ育った土地からも切り離されることになってしまうからだ。

私は「記念に」と言って、カメラで家の周りの写真をばしゃばしゃ撮り出した。
その私の行動を、仲のよい女の子は、いささか奇異な目で見ていた。
団地内の公園のブランコや、砂場や、たくさんいた猫たち。そのうち飛んできた雀にまでとっさにカメラを向け、"いや、雀はどこにでもいる" と思い直した。

その写真は、しかし、今、手元にはない。おそらくネガのまま、引っ越しの際にどこかに紛れ込んでしまい、わからなくなってしまったのだろう。引っ越した後も、横浜で生活することをあからさまに拒み続け、できることなら荻窪に帰りたい、と願い、なにかの用事で、まだ引っ越してからそれほど間もない頃に荻窪を一人で訪ねることになった時には、駅から自分の住んでいた団地までの15分ぐらいある道を歩いていって、団地の入り口が近づいてくると目頭がじいんと熱くなったものだった。まだ、中学1年生だったんだが。ずいぶんと、過去に愛着を持つ中学生だったと言えるだろう。

しかし、ある時、小学生の時のクラス会をすることになり、集合場所が荻窪の駅前だったので、私は横浜から出てきて、参加しに来た人たちと、全員が集まるまで南口の駅の階段を上がったあたりでたむろしていたところ、その執行バレエスクールにかつて通っていた子たちの一人がやってきて、てっきりクラス会に来たのだと思ったら、「あ、あたしはソフトクリームを食べに来たんで」(当時、西友で売っていて、そこでしか食べられなかった)とだけ言って、すたすたと立ち去っていってしまったのには唖然とした。

人によっては、長年いっしょに過ごしたとはいえ、小学校の時の仲間など、どうでもいいのだ。いや、同じ土地に住み続けて、同じ中学校に上がったら、むしろそのほうがあたりまえかもしれないが。

でも、そのクラス会の帰りだっただろうか、すっかり紺色に暮れた窓ガラスの外に目をやりながら電車に揺られ、横浜駅に近づいたことを知らせる車内アナウンスが流れたとたん、ほっとしたのかどっと疲れが出るのを感じた。
その時、もう自分の帰るべき場所が東京ではなく、安心できるのも荻窪ではなくて、その時の住まいがある横浜であることを体が自覚していることを知ったのだった。

そのことを帰ってから子どもらしく母親に報告したら、「それが、あたりまえよ」とあきれたように言われた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?