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疑うことは挨拶だ

我々は挨拶をして関係性を築く。
挨拶によって相手の状態確認もできる。

挨拶とは、相手を知ろうとするための行為だ。

挨拶を交わさない関係よりも、日頃から挨拶を交わす関係の方が親交を深めやすいだろう。

疑うことも挨拶に似ている。
我々は疑うことで相手を知ろうとする。

挨拶同様、こまめに人を疑った方が相手を知る機会が増えるため、親交を深めやすい。

「人を信じる」といえば聞こえは良いが、手抜きに過ぎない。

信じるがゆえに疑わない。
疑わないということは、相手を知ろうとしないということだろう。

相手のことを知るまでもなく、都合の良い存在であり続けてくれると思い込む。
だから信じるなんて言える。

そこに相手の意思は関係なく、自分が勝手にそう思い込んでいるだけ。
これほどの傲慢があるだろうか。

挨拶する人の方が、しない人よりも相手に対する気遣いがあると言えば誰もが納得するだろう。

ならば、疑う人もまた、信じる人よりも相手のためを考えられる人だろう。

我々が家の掃除を行うのは、家を疑うからだ。
汚い家に住んでいたら病気になるかもしれないといった不安があるからだ。

我々は自分の家を常に疑い、清潔への不信をもつからこそ家を綺麗に保つことができる。

仮に我々が家に対して全幅の信頼を寄せていたらどうだろうか?
どんなに家が汚れようが、我々は家を信じているので掃除しないだろう。

家は常に我々の安全を守ってくれるのだから、掃除など必要が無いと信じ込む。
すると、どうなるだろうか?

家にゴミが溜まり、虫が沸き、我々は病に冒されることになる。

我々は病に冒されながらも、我が家を信じ続けて身を滅ぼすことになる。

人間関係もこれと同じだ。

信じる者は救われない。

挨拶もしないし掃除もしない。
ただただ腐りゆくのみ。

疑う者こそが挨拶を交わし、清潔な関係を保つ。
疑う者から救われるし、他者も救う。

信じることの罠に嵌った信者達は、体中汚れて蛆虫に穴だらけにされても気がつかない。
これを盲信という。

罠を疑い、避けてきた者だけが真に信頼を築いてゆく。

信じることでしか人間関係を作れない人達は実に哀れだ。

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