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〔ショートストーリー〕五月闇

曲がりくねった山道を、車はスムーズに登っていく。やはり悠斗は運転が上手い、昔も今も。助手席の美也は、窓の外の柔らかな緑を見ながらそう思う。
やがて車は展望台に着いた。桜の季節は多くの人が訪れるが、その時期を除けば訪れる人も疎らで静かな場所だ。特にこんな雨の夕方、葉桜を見に来るような物好きはいないようで、他に人影は見えない。駐車場でエンジンを切ると、悠斗が前を向いたまま尋ねる。
「雨だけど、外に出る?」
「ううん、ここでいい」
美也も悠斗の方を見ずに応えた。


3年前、美也はここで同期の悠斗に告白された。
「好きです、付き合ってください!」
そんなありきたりな言葉だったが、缶コーヒーを潰してしまいそうなほど握りしめていたことも、真剣な顔で言う彼の声が震えていたことも、美也ははっきりと覚えている。それから3年、ケンカしては仲直りし、二人の絆は固くなっていたはずだった。瑠衣が新入社員として現れるまでは。


甘え下手な美也と違い、瑠衣は無邪気を装いながら甘えるのが得意なタイプだった。甘えて、利用して、楽をする。それに気付いた女性陣からは距離を置かれたが、鈍い男性たちとはどんどん距離を縮めていった。鼻にかかった声や大袈裟な褒め言葉、ボディタッチを駆使し、一部の男性社員からチヤホヤされるまで時間はかからなかった。


「ごめん…別れて欲しい」
昨日、帰り道で悠斗に言われる前から、美也も薄々気が付いていた。忙しさを言い訳にして、会う回数も連絡も減っていった彼。まさか瑠衣みたいな女にコロッと引っかかるなんて、幻滅したわ。そう言おうとしたが、何故か涙が止まらない。もう余計なことは言うまいと決め、美也は何とか心を落ち着かせた。


代わりに、せめて最後はこの展望台に来たいと悠斗に告げた。始まった場所で、終わりにしたいからと。罪悪感を抱えていた悠斗はすぐに応じ、美也の言う通りのスケジュールで動いた。前日から美也の部屋に泊まり、ゆっくりと一日過ごした後、この思い出の場所で缶コーヒーを飲む。美也が持ってきたコーヒーを二人とも飲み終わると、しばし沈黙が流れた。雨音だけが二人を包みこむ。やがてフッと息を吐くと、美也が口を開いた。
「いいよ、別れよう」
淡々とした美也の声に、悠斗の肩がピクッと震える。自分で言い出したことなのに、何でそんな顔をするのよ。もしかして、泣いて引き止めるとでも思ってた?美也は少し苛立ち、つい口を滑らせた。
「知ってるよ、瑠衣のこと」
「え…」
悠斗の顔が青ざめる。この人、本当にバレていないと思ってたんだ。どこまでおめでたいんだろう。


「言わなかったけど、あの子、自分のミスの後始末を私に押し付けてたの。私が急な残業で会えなくなったのは、ほとんどあの子のせい。で、寂しい悠斗はまんまとあの子に落ちたんだよね」
コーヒーの空き缶を握る指先に力が入り、つい口調もキツくなる。
「なっ…そ、そんなデタラメ言うなんて、美也らしくない…」
「私らしいって何?」
美也は悠斗の目を見て問う。
「3年も付き合って私の何を見てきたの。今さらそんな下らない嘘、言うわけないでしょ。あなたに会いたくなくて残業を増やしたとか、瑠衣の嘘を本気で信じてたわけ?」
可哀想なほど、悠斗は狼狽えた。
「な、何でそれを…」
「瑠衣から聞いたのよ。悠斗さん、私の言うことアッサリ信じましたよ、ってね。3年付き合ってもお二人はその程度の信頼関係なんですね、とも言われたわ」
悠斗の顔が強張る。本当に彼は分かり易い。
「情けないと思ったし、信じたくなかったけど…もういいわ」
美也は悠斗から目を逸らし、真っ直ぐに前を向いて言った。
「瑠衣の言葉を真に受けてるなんてね。駅まで送って。お望み通り、私たちは終わりよ」


下り坂もスムーズにハンドルを切る悠斗の横で、美也はぼんやりと思い出していた。ブレーキに細工しようかと考えたこと。悠斗に渡す缶コーヒーに睡眠薬を入れようかと迷ったこと。どんな形でもいい、悠斗の隣で、悠斗と二人で全部終わってしまいたかったこと。それが悠斗への愛なのか、瑠衣と悠斗への怒りなのか、それとも両方なのか、自分でも分からなかったが。
でも、結局は何もしなかった。言わずにおこうと思っていた瑠衣のことは、つい喋ってしまったけど、それだけ。常識があって、現実的で、臆病な美也。この程度が私らしいと、自分でも分かっている。


下り坂も終わりに近付いた。悠斗が何か言いたそうに美也をチラチラと見ているが、彼女は目を合わせようとはしない。
実は悠斗も、瑠衣に一時的に惹かれたものの、小さな違和感を覚えることが増えてきていた。だが、職場では美也とのことを知られているため、誰にも相談することが出来ない。そうこうするうちに、結局は押しの強い瑠衣に流されてしまった。
そして今、美也からハッキリ瑠衣の本性を聞いたことで、自分の選択が間違いだったと気が付いたのだ。どんなに後悔しても、もう遅すぎるというのに。


悠斗の視線を避けるように窓の外を見ながら、美也はこれまでを振り返っていた。悠斗はずっと、信じたいものを信じるタイプだった。単純で、分かり易く自分に甘い。だから、彼が何を信じるかで、その時の彼の気持ちが分かってしまう。
最初に彼が瑠衣の言葉を信じたのは、既に瑠衣に惹かれていて、あわよくばという気持ちがあったから。3年も付き合ってきた美也には、それが分かってしまった。そんな欲望に彼が負けた時点で、もう二人は終わっていたのだろう。
そして今、悠斗が美也の言葉に揺れているとしたら、瑠衣と離れたい気持ちが既に彼の中にあるから。だがそれは、もう美也には関係無い。


「ここでいい」
駅近くのコンビニ前に車を止めてもらうと、悠斗に何も言わせないまま、美也はひらりと車を降りた。空き缶を手に最後に一言、
「さよなら」
とだけ告げる。きっとこんなのは、よくある男女の別れ話。何もドラマチックな展開なんてない。明日からもこれまで通り、当たり前の日常を生きるだけだから。周囲からの好奇の目にも、左肩の淋しさにも、きっとすぐに慣れてしまうだろう。
コンビニ前のゴミ箱に空き缶を捨てる。背中に悠斗の視線を感じながら、美也は青い紫陽花柄の傘をさした。去年の誕生日に、悠斗に買ってもらった傘。きっと彼の胸もチクリと痛んでいるはず。どうかそうであって欲しい、と願う自分に気が付き、美也は小さく笑った。
傘に広がる紫陽花を見せつけるように、背筋を伸ばす。雨はまだ止みそうにない。大きく息を吐くと、美也はひとり、ゆっくりと駅へ向かって歩いて行った。

(完)


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