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〔ショートストーリー〕手紙

手紙には、差出人の名がなかった。だが印刷された宛名は、確かに里美になっている。一瞬躊躇った後、その薄い封筒を開けると、密封された微量の白い粉と、白い一筆箋が出てきた。
『可哀想なあなたに、毒薬を差し上げます』
無機質な文字と文章。それ以外は何も入っていなかった。


里美は夫の修平と二人暮らし。子どもはいない。このまま二人で歳をとって、穏やかに暮らせればそれで良いと、お互いに思っていた。
「うちの部署にさ、久々に女の子が入ったんだよ」
2年前のあの日、修平の声は弾んでいた。里美は
「あら、珍しいわね。でも、新鮮でいいんじゃない?」
と微笑みながら返した。その時は二人とも、自分たちの平穏な暮らしが大きく歪んでいくなんて、思ってもいなかった。


研究職一筋で、遊ぶこともなくコツコツと働いてきた修平は、同業者の里美と結婚した後も、何も変わらなかった。一方、里美は人間関係に疲れたこともあり、結婚を機に仕事を辞めて在宅ワークに変えたが、それ以外は何も変わっていなかった。
夕食は出来るだけ一緒にとるようにしていたが、修平は寝食を忘れて研究に没頭することもあるため、夜中に帰ることもしばしばだった。そんな時も必ず連絡だけはくれるので、里美は夫のスケジュールに合わせながら、一人で夕食を済ませたりもしていた。お互いに干渉しすぎることも、勝手に振る舞うこともなく、上手く行っているはずだったのだ。


だがやがて、修平はため息をつくことが多くなり、疲労の色が濃くなっていった。心配する里美に、
「今まで言わなかったけど、実は、今度入った沢井さんが…」
修平はポツポツと説明する。共同研究者の高畠教授の紹介だったらしいが、その沢井の話を聞けば聞くほど、里美は嫌な予感が胸の中に広がっていく。
「なんかちょっと、嫌な感じね。あんまり関わらない方が良いんじゃない?」
「うん、僕もそう思うんだけどね…」
深く溜息をつく修平を心配している間に、とうとう事件は起きた。


「ここに配属されてからずっと、パワハラとセクハラに苦しめられて来ました!もう耐えられないので、ここで全部話します!」
沢井美妃が自身のSNSで涙ながらにぶちまけたのは、修平に対する告発だった。到底できない量の仕事を割り振られ、それらを仕上げられないとみんなの前で罵倒される。何とか残業して仕上げようとしていたが、他の人間がいなくなると、必要以上に接近してきて髪や体を触られ、ホテルに誘われたことも襲われそうになったこともある、と。もちろん修平は全て否定したが、事実確認が終わるまでそれぞれ自宅待機となった。そして間もなく、この手紙が届いたのだ。里美は手紙と白い粉をじっと見つめる。やがて顔を上げて、ひとつ頷いた。里美の目には、何の迷いもなかった。


「ごめんなさいね、お呼び立てして」
「いえ…あの、お話って…」
数日後、里美は美妃を呼び出した。外では人目につくからと自宅を指定したため、最初は美妃も警戒していたが、同伴者を連れてきても良い、テレビ電話をつないでおいても構わないと言うと渋々応じた。結局は誰も連れて来ず、レコーダーだけを携えてきたのだが。
二人分の紅茶を入れ、ダイニングテーブルに置くと、里美は美妃の向かい側に座った。
「単刀直入に聞くわね。あなたが修平について言っていたことは本当?」
美妃はムッとして即座に言い返す。
「もちろんです!あんな恥ずかしいこと、事実じゃなければ言いません!まあ、奥さまにはショックだったと思いますが…」
「そう」
里美は動じず、紅茶を一口流し込む。
「あ、ごめんなさい。ミルクか砂糖が必要だったかしら」
美妃はビクッとすると、急いで手を振る。
「いえ、何も要りません」
「そうなの?じゃあ召し上がって。このダージリン、美味しいのよ」
「いえ、今は、喉が渇いていないので。あの、他にお話がなければ私はこれで…」
立ち上がろうとした美妃を制して、里美は低い声で言った。
「いいえ、本題はこれからよ」


座り直した美妃に、里美は淡々と話す。
「夫からあなたのこと、ずいぶん前から聞いていたのよ。ハッキリ言えば、あなたに頭を抱えていたわ。『仕事ができない』『取りかかりも遅いし、間違いや誤魔化しが多すぎる』『注意すると、逆ギレするか泣いて同情を買おうとする』『だから任せる仕事を減らすと差別だと騒ぐ』とかね。ウンザリするほどあなたの扱いに困っていたのよ」
美妃は怒りの形相で立ち上がった。
「なっ…!そんなの嘘です!謝罪するのかと思って来てみたら、そんな言いがかりを恥ずかしげもなく…。奥さまには少しだけ同情していたのに、やっぱり似た者夫婦なんですね!」
真っ赤になって捲したてる美妃を冷ややかに見つめながら、里美は黙って紅茶を飲む。


「そ、そうだわ!防犯カメラの映像があるわ!私が泣きながら研究室を走り出していく映像がね。乱れた服や髪を押さえながら、悲鳴をあげて…」
勝ち誇ったように言う美妃を、今度は憐れむような目で見ながら里美が遮る。
「そうね。あなたはそのカメラを意識して、わざとそういう風に見せたんだものね」
「そんな、また言いがかりですか!」
激高する美妃を見れば見るほど、里美の心は静かになってくる。全く、こんな女のせいで私たちが被害を被るなんて、理不尽にもほどがある。もう不毛なやり取りはそろそろ終わらせよう。
「あのね、あなたの知らないカメラがあったのよ」
「え…」
「夫は上司にもあなたのことを相談していたの。上司もあなたに不信感を抱いていてね、そのうち何かやらかすかも知れないから、あなたに気付かれないようにカメラを増やしていたのよ」
「う、嘘よ」
「嘘じゃないわ。研究室を出る前に、あなたが髪を掻きむしって、服を自分で乱れさせて飛び出す所も、綺麗に映っていたそうよ」
里美は紅茶を飲み終えると続ける。
「高畠教授が提出したあなたの履歴も、嘘だらけだったようね。高畠教授って、頭は良いけれど女性にだらしない人だから、あなたはそこにつけ込んだのでしょう?でももう全てバレてるの。高畠教授は研究室を追放よ。もちろん、あなたも一緒にね」
「そ、そんな…」
さっきまでの勢いは跡形もなく消え、美妃はただ呆然としている。立ち上がる気力すら残っていないようだ。


「あなた、紅茶に手を付けないのはどうして?毒でも入っていると思った?」
里美はうっすらと笑いながら続ける。
「あの知性も品性も感じない、子供っぽい手紙!『可哀想なあなた』って、誰のことよ。読んだ瞬間、会ったこともないあなたからだって分かったわ。だから夫にも相談して、警察に届けておいたの。だからその紅茶には、何も入っていないわよ」
「け、警察に…?」
美妃の歪んだ顔をチラッと見る。ここまで愚かだと憐れみすら感じるが、だからと言って断じて許すことはできない。
「薬品棚からあなたが薬を取り出すところも、カメラに映っていたんですって。研究者として、一番恥ずべき行為よね」
すっかり項垂れた美妃に、里美は淡々と告げた。
「毒薬を私がどうすると思ったの?夫と無理心中とか?夫の不貞を疑って飲ませるとか?それとも、夫のの心を奪ったあなたに飲ませようとするとか?どうすればあなたは満足だったのかしら」
美妃は何も言わず、涙目で里美を見た。
「あなた、夫が一番苦手なタイプなの。自己顕示欲と被害者意識ばっかり強くて、真面目にコツコツと努力することを嫌うから。だから私、1ミリも夫を疑うことはなかったわ。何をどう間違っても、あなたが言うようなことをする人じゃない。あなたの幼稚な嘘なんて、最初からお見通しだったのよ」
里美は小さな声で付け加えた。
「私が結婚して研究職を辞めたことに、夫は責任を感じていたの。彼のせいじゃないのに。だから女性の研究者も大事にしたいって、出来るだけフォローして頑張っていたのに…残念だわ」


パトカーの音が聞こえる。修平が事情を説明し、呼んできたのだ。
既に修平は、研究室に来週から復帰することが決まっている。事実関係がハッキリしたためだが、そもそも修平の周りに彼を疑う人はいなかった。この騒動の結果、美妃も高畠教授もいなくなるが、研究を続けるには何も問題ないだろう。
これでまた、平穏な日々が戻ってくる。里美はチャイムがなる前に玄関に向かい、ドアを開けた。

(完)


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小牧さん、よろしくお願いいたします。
読んでくださった方、ありがとうございました。

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