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〔雑記帳〕記憶が真実とは限らない

「ビンゴ」という吉村達也著のホラー小説をご存じだろうか。あるクラスの座席表をビンゴカードに見立て、その中の一列ずつ一気に死んでしまうという、なかなか壮絶なホラーだ。詳しくは書かないが、その死に方も強烈なものが多く、読みながら「ひえっ」と変な声が何度か出た。

この本を読んだのはもう数年前なのだが、今もとても印象に残っている。それは、ホラーとしての怖さもあるが、それ以上に「記憶の曖昧さ」について考えさせられたからだ。人は、自分の覚えていることが真実だと思いがちである。もちろん、私もそうだろう。都合の悪いことは無意識に記憶から消したり、美しく改変したりしながら、それが真実だと思っている。でも、本当にそれが真実なのか。別の視点から見れば、違う事実が見えるのではないか。

ポアロでも、目撃者の証言が思い込みだったり、誘導されたりしたものなのに、本人は「正しい」と思い込んでいることがある。ポアロはそこまで読み解いて解決するのだが、読み解かれた方はショックだっただろう。自分の記憶が当てにならないことを証明されてしまうと、足元から崩れるような不安を常に抱えながら、その後の人生を送ったのではないかと心配してしまう。

「ビンゴ」では、その記憶の齟齬がキーになっている。最後には全て明らかになるが、それはとても悲しく重い。そして恐らく、初めの方で死んでしまった登場人物たちはその真相に気が付かないままなのだ。それはとても残酷なことではないだろうか。

私自身の記憶はどうか。高校時代の友人2人と、年に1~2度遊ぶのだが、3人でそれぞれに印象に残っていることが違うことがある。2人が覚えていて1人だけ覚えていないことや、1人しか覚えていないことがあるのだが、それはどうやら「印象的だったか」に左右されるようだ。私など、自分のことを「あの時はこうだったよね」と2人に言われ、「え?そんなことあったっけ」という体たらく。自分の言動すら印象にないって、どれだけいい加減なんだ。きっと私の記憶は、穴だらけなのだろう。

もしかすると、誰かを傷付けたことを忘れているかも知れない。それは私にとってはとても恐ろしいことで、自分が傷付いたことだけ覚えていて、傷付けたことを忘れるような、嫌な人間にはなりたくない。いっそ自分が傷付いたことも忘れてしまえば、少しはバランスが取れるかも…でも何か違う気がする。人間は忘れる生き物だとどこかで読んだ気がするが、忘れて良いことと忘れてはならないことは、出来れば間違えたくはないと思う。

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