南日本新聞コラム南点第11回「テレビが中心だった頃」

 10年前から、ほぼテレビを見なくなった。ちょうどその頃初めてスマホを買い、そのオマケにポータブルテレビをもらったので一応今でもそれは持っているが、東京の高円寺という、縁もゆかりもない街に越して来てから日々の寂しさにさいなまれ、テレビの中で人々が楽しそうにしている様子を見るのが辛くていつの間にかテレビをつける事自体なくなっていった。

 慣れると、それは静かで心地良い生活だった。脳もクリアになり、広い視野で物事が見れるようになった。自分の事もより客観的に見れるようになったものの、あまりの惨めさに結果死のうと考えるようになったので、それはそれで善しあしではある。

 昔はテレビばかり見ていた。テレビが世界の中心だった。小6の頃、友達から港にテレビの撮影隊が来ているという連絡がきて、行きたかったけど恥ずかしかったので結局行かなかった。テレビに映った同級生はしばらくの間ヒーローだった。

 なんの番組かは忘れてしまったが、ローカル番組だった事は覚えている。たとえ県内にしか流れなくても、映った人はうれしかっただろうし、映れなかった自分はうらやましかった。

 テレビにはそれだけの力があった。親世代はもっとそうなのだろう。25年前、千葉に住む母親に鹿児島の母の友達から電話があった。
「今度テレビに映るから見てね」
 その人は日本舞踊が好きで、昔から様々な催しに参加し、現在はその先生もしているらしい。自分も子供の頃何度も会った事があるが、おっとりとした人柄の優しい人だった。当時はまだ若手で、踊りのイベントに出る事や、テレビに映る事がうれしかったのだろう。母も「見る見る」と言って楽しそうだった。
「なんのテレビに映るの?」
 母が尋ねると、嬉々として彼女は言った。
「どーんと鹿児島」

 どんかごは、千葉ではやっていない。

 ちなみにどんちばもやっていない。
 

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