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自分のまいたもの。 『PERFECT DAYS』 #映画

都市は満載の棚だ。
ぎゅうぎゅうの押しくらまんじゅうに小さな空間をどうにか見つけては、人やモノを詰め込んでいくことを繰り返している。

外国人監督が日本文化を描いたときに、どこかズレや違和感を感じることってあるじゃない?
冒頭、役所広司演じる平山が目覚める部屋が映し出されて数秒で思った。
畳、きれいすぎるだろ。
物も少なくて異様にすっきりしている。
うわ〜ジャパンな感じのきれいな部屋を用意しすぎてリアリティなくなってるパターンや〜ん!
…と脳内で叫んだのだけれど、時間軸が進んでいくと、それが必ずしもズレているわけではないことがわかってくる。

役所広司、めちゃめちゃ几帳面な奴なんだ。
仕事のトイレ掃除も完璧に行う。1日のルーティンは決まっている(仕事、神社境内で食べるサンドウィッチ、樹木の写真を撮ること、銭湯、浅草の地下街での晩酌、読書…)。
その暮らしは質素ではあるものの、それほど貧しさに苦しんでいるわけではないらしい。
懐古主義的なところもあり、古い音楽カセットや古本を集め、レトロな家屋で暮らすことを楽しんでいる(よく考えたら部屋もけっこう広い)。
都市の中にひっそりとおさまりつつ、それはそれで居心地の良さを感じている。
予告編もろくに観ていないのだけれど、勝手に「貧しい労働者の暮らしを描くんだろうなあ」とステレオタイプに当てはめようとしてしまっていたのだった。

でもこの几帳面な役所もとい平山を見て、わたしもそういう性質があるもので(掃除を始めるまでの腰が重くて部屋は散らかっているのだけれど)、「こういう人がカーテンを開けっ放しで寝るの、変じゃない?」とやはり違和感を抱かざるを得なかった。
しかし平山は、それ以上に日の出と共に目覚めることにこだわりがあるのかもしれない。
わたしはぜったい真っ暗にして寝たいけどね。部屋は汚いけど。

休日は休日で決まったルーティンがある。
制服を洗濯し、フィルムを現像に出し、出した代わりに受け取った先週の写真を仕分けする。濡らした古新聞を撒き散らして畳を掃除する(だからあんなに綺麗なのだ)。
そして夕方になると、小さな小料理屋(「紹介制」の札がある!)に酒を飲みに行く。

小料理屋のママは石川さゆり。「どういうキャスティング?」と思ったら、常連の酔っぱらいのママいつもの頼むよ的なノリに促されて歌い出す。それでか。

歌うのは『ハウス・オブ・ライジング・サン(朝日のあたる家)』。
“わた〜しが〜着いた〜のは〜ニューオリンズの〜朝日楼という名の〜女郎屋だった〜♪”
いや「いつもの」としては暗すぎだろ、と思いつつも後から考えれば、平山が毎日、まだ青白い朝の日光とともに目覚めるあの部屋がまさに〈ハウス・オブ・ライジング・サン〉なのだ。
だからカーテン開けっ放しだったんだ。だからっていうのも変だけどさ。

本編ではこのあたりまでしか歌わなかった気がするが(うろ覚え)、歌詞はその先も続く。

誰か言っとくれ 妹に
こんなになったら おしまいだってね

朝日のあたる家(多分ちあきなおみ版の歌詞)

https://twitter.com/kayflute/status/1029373949438644224

はい、まさかの妹登場。そして姪っ子。
姪っ子とのシーンはやりたいことも多いのか、古き良きジャパニーズインディー映画(に対する偏った視線を集めた)みたいな青臭いノリになって直視できなくなってくる。「こんどはこんど♪」は笑っちゃった。

そんな家族やら色恋沙汰やらで登場するエイリアン達によって〈完璧な日々〉は時々おびやかされたりする。

“You're going to reap just what you sow”
(君は自分で蒔いたものを刈り取るだろう)

Lou Reed / Perfect Day

新約聖書の『ガラテヤ人の手紙』から引用されている部分の歌詞である(第6章:人は自分のまいたものを、刈り取ることになる)。
ある余命わずかな人は、自分で蒔いたこれまでのことを悔やみながら思い返す(その人に〈いま〉動くことを平山は提案するのだが、ガン患者を走り回らせることが気になりすぎちゃった)。
多くを「刈り取っている」ように見える妹は娘との接しかたを振り返りつつ、平山の今の状況を心配する。
そこで平山は、揺るぎない現在の暮らし以外にも自分の蒔いたもの(あるいは蒔かれていたもの)があることに気づくのだった。たぶん。

そういう意味ではラストシーンは絶望にも希望にも感じるけど、そんなことより役所広司濃度の高さに率直に困惑するのは私だけじゃないじゃろ。

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