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歌姫はひとりじゃない。ー「竜とそばかすの姫」が描くネットの可能性についてー

細田守の最新作「竜とそばかすの姫」(以下、そばかす姫)を観た。

最新の技術を使ったインターネット世界「U」の映像は「サマーウォーズ」の「OZ」の時よりもさらに進化していたし、主役である中村佳穂演じる鈴(ベル)の歌声も素晴らしかった。ただ、現段階でも多くの批評で述べられているように、シナリオには疑問が残る点が多かったように感じる。

この映画で描かれる「U」は50億のアカウントがいるにも関わらず、歌姫が一人か二人しかいなかったり、バトルモード(?)という設定があるにもかかわらず、倒し方で文句を言われたり(そんなにダメなことなら運営でアカバンすればいいのに・・・・・・)、ジャスティンさん達とベル、竜以外、ほとんどみんな何もやらずにプカプカ浮いているだけだったり。

この「U」の世界で、鈴(ベル)や様々なアカウントたちはバトルモードで非道な勝ち方をする竜の正体を突き止めようとする。それが、この物語の推進力の一つにもなっている。現実でも確かにこのようにネットが活用されることはよくある。例えば、報道やテレビでは明かされないけれど、倫理的に許されないことをした人の名前や顔を特定して晒しあげる行為だ。

それぞれが、それぞれの「正義」の名の下に、倫理的に許されないことをした人間を断罪する。最近でいえば、オリンピック開会式の小山田の辞任劇もその一つだ。ネット社会は間違いなく、細田が描く「U」のように、倫理的に許されないと判断された人間を吊し上げる社会を作っている。そして、それはネットの最も醜い負の側面だ。

では、ネットの「希望」とはなんなのだろうか。例えば、ニコニコ動画でもYouTubeでも「歌ってみた」「踊ってみた」の動画が本家のアーティストの歌や踊りをさらに世界に広めている。聞き手や受け手が発信者になりやすい環境ができたことは間違いなく、良い側面だ。それは、ある種、「モブ」でしかなかったユーザーたちが主役になることができる世界になったということだ。影の薄い高校生がネットの世界では歌姫になる。それは、「そばかす姫」に描かれた通りだ。

しかし、「そばかす姫」では、その「希望」が、あまりうまく描かれていないように思えた。なぜならベルの歌はベルが歌わないと誰も歌わないからだ。ベルが歌うのを待ち望む人々はあくまで受動的だ。ベルの歌に文句を言うか賛辞を送るか、それだけのまさに「モブ」でしかない。つまり、この映画の主人公である鈴(ベル)意外は、みなモブで、誰も積極的に「U」の世界で歌いも踊りもしないのだ(ベルが生まれる前もUの世界に歌姫は一人しかいない)。

これは、細田自身の世界観が影響しているのかもしれない。なぜなら、ネットで発表できる「歌」や「踊り」と違って、「映画」はネットとの相性がよくないからだ。「映画」は作り手と受け手だけで成立し、その後、広げる手立てがない。受け手は「映画」をみた後は、その感想をネットに書き込むくらいしかやることがないのだ。「映画」を「映画してみた」などといって、模倣物、リメイクを拡散する行為は、なかなか難しいだろう。だから、細田からしてみれば、「映画」の観客は「U」の世界でベルの歌を「いい」か「悪い」としか言わない「モブ」でしかない。そして、それは「映画」に関する限り間違った認識ではないのだ。なぜなら、私たち観客は、天才細田の数年に一度の映画を見て「これはよかった」「あれは悪かった」と「モブ」としてネットで好き勝手に言っているだけなのだから。ただ、ただ受動的に。

しかし、それをネットで「歌」として描いた時、現実との齟齬が生まれる。なぜなら、「歌」はネットとの相性が良いからだ。誰もが皆、歌を歌えるし、その程度の設備は高校生でも用意できる(それは、この映画の描写でも証明している)。だからこそ、歌姫は決してひとりにはならない。歌姫はユーザーが多ければ多いほど、増えていくだろう。50億もユーザーがいれば5億程度は少なくとも歌姫がいたっていいはずだ。そして、ベルの歌が素晴らしければ素晴らしいほどそれに触発されたさらに良い歌が別のユーザーから生まれていく。それこそが、ネットの「希望」というものではないのだろうか。

細田の描く「U」は、未来の世界の技術だ。おそらく50億アカウントが同時に接続していても問題なく動くのだろう。一方、細田の20年前の代表作「デジモンアドベンチャーぼくらのウォーゲーム」では、世界中の子供たちから送られてくるメッセージのせいでサーバーが重くなり、ネット上のデジモンの動きが遅くなったことで窮地に陥ると言う表現があった。

私たちは、そのようなちょっとした表現(サーバーが重くなること)にリアルを感じる。そして、20年前に誰もネット世界を理解できなかった時代に細田はそれができたのだ。

今、おそらく細田はネットになんの希望も見出してはいない。「そばかす姫」はそのことがよくわかる作品だった。もちろん、それは一つの見解であり、否定される物ではない。そして、私たちが受動的な観客として、天才細田守の次の作品を楽しみに待ち続けるのも、また間違いない。