『生を祝う』について

李琴峰さんの小説、『生を祝う』を読んだ。
胎児の同意を得なければ出産できないという制度が当たり前に根付いているといった設定の世界を描いた作品だ。
私は日頃から生と死、主に生について深く考えることが多いため、絶対に読みたいと思い手に取った本だった。
「合意出生制度」という胎児に出生の意思を問う制度についても正当性を持って描かれ、こういう未来が訪れてもおかしくないと読者は納得しながら読める作りになっていた。

本作では、佳織と彩華という二人の同性愛者による夫婦の視点で話が進められる。この世界では同性婚も法律で認められているのだ。出生に関することのみならず、ジェンダーや身体障害、安楽死制度など現代で問題提起される内容についても触れられ、未来でのそういった事柄の扱いもについても綴られている。
非常にリアルで、物語の中の設定に入り込みやすい作品だ。

(以下ネタバレと私の思想についてを含む)

私は、反出生主義者である。
子供を産むことは親のエゴであり、悪であると考えている。子供は生まれてきた瞬間から生を押し付けられ、どんなに辛いことがあっても、(安楽死制度がない現代では)必死に耐えながら生きるか、苦しみながら自死するかの選択肢しかない。その辛さの根源は出生であり、それがなければ子供が苦しい思いをすることはないと考えるからだ。

そんな私にとって本作の設定はまさに理想的なものであった。
胎児に出生の意思を確認し、その結果出生に同意するなら産み、同意しないなら堕胎する。全て胎児の意思が尊重される、そんな素晴らしいことはないではないか、とあらすじを読んだときから考えていた。

反出生主義なら、たとえ子供の同意があっても、子供を産むことは全て悪なのではないか?と聞かれるかもしれないが、私は、子供が本当に望んでいるかわからない出生、そしてその先(さき)生きていくことを強制的に押し付けることが1番の悪であると考えている為、本作のような制度で、胎児が出生に同意するのであればそれは一人の人間の意志として尊重されるべきものであると思う。
(全ての反出生主義者がそう考えるとは限らない)

そして、本作の素晴らしいところは、そんな合意出生制度が当たり前になった世界で、すべての人間が当たり前のようにその制度を称えるわけではないという部分もリアルに描かれているところである。
作品内では、こういった制度に反対する人たちは「自然出生主義者」と呼ばれ、「命に審査はいらない」「自然の摂理に従え」などの主張をもとに出生意思確認を行う病院に対してテロ攻撃を起こすなどの描写がある。
この反対意見の描写がある事でよりこの制度についてリアルに考えることができ、この制度の是非についてどう思うか、読者に問われているように感じた。

私は、こう言った主張に対して、本作の主人公たち(合意出生制度賛成派)の「やれ自然だの命の尊厳だのと声高に叫ぶ人に限って、現代文明を離れると生きていけなかったり、自分の欲望を他人に押し付けたがったりする」という台詞に共感し、賛成するが、反出生主義でない人の殆どはこの制度にある程度不快感を示すだろうし、実際現実にこの制度が出来るとなれば反対する人が殆どだろう。

そういったときの反対意見が、先程自然出生主義者の意見として挙げたものになってくるのだと思う。この反対意見があることによって、現代においても正当性があるとされている制度にも疑問を持つことができ、(この世界では合意出生制度が正当であるとされているが、それがまた何十年後も当たり前として根付いている文化か分からないため)
出生に関すること以外の事柄でも当たり前だと思っていることを疑う、と言う機会が得られたように感じた。

そして、私個人はこの制度は反出生主義の根本と似ていると感じている。
その為、半ば無理矢理ではあるが、この制度に共感していた本作の主人公たちは、反出生主義者と同じであるという目で見ていた。(そういった描写があるわけではないので、ここは私の勝手な考えである。)
愛する妻の佳織との子供を身篭った彩華は、この制度は正しいと主張し、佳織と共に「絶対に子供の意思を尊重しようね」と強い意志を確認し合う描写が何度もあった。

そんな彩華にも遂に出生確認の日が訪れる。そして、病院の先生に告げられた答えは「リジェクト(拒否)」
つまり、彩華の子供は生まれてくることを拒否したのだ。
それまでの検査では出生合意率95%を超えていたため、出生を拒否することは殆ど無いと考えていた彩華は動揺し、医師を問い詰める。「そんなはずないです。何か勘違いしたんじゃないですか?」「検査でも間違いはあり得るでしょ?きっと何かの間違いです」と。そして綾華の妻である佳織も、医師に対し「このヤブ医者!」と激昂するなど、出生を拒否される側が気が動転していくさまが描かれる。

それから二人は、再検査をしてくれる病院を探すが、一度リジェクトという結果が出た人を再検査することはできず、遂に佳織の方が「もう諦めようか(つまりは堕胎することを指す)」と彩華に問いかける。
その言葉に、佳織までもが自分のお腹の中の子供を取り上げるのかと一種の裏切りのように感じた彩華は、佳織に激しい拒否反応を示した。
「佳織までそんなことを言い出すの?この子を殺すって言うの?」と。
私はその台詞を見た瞬間、目を疑った。私の方が裏切られたような気持ちになった。
出生意思確認を行うまで、あんなに子供の意思を尊重しようと話していた彩華が、子供が出生を拒否した途端、ここまで今までと真反対のことを言い出すのか、と。
それほどまでに、自分と血肉を分け合った子供の存在というのは大きいのか、と。
口論の途中、彩華は「佳織は子供を妊娠してないから、私の気持ちは分からない」と告げる。
何だか、もうそれを言われたらどうしようもない、と私は思った。そりゃあ当事者の気持ちは当事者にしか分からない。ただ、あんなにも出生強制(出生拒否されたにも関わらずその子供を生むこと)は悪であると言っていたにもかかわらず、そんな風に180度意見が変わってしまうものなのか、とショックを受けた。
それと同時に、人間の意志の脆さを感じた。私も反出生主義者で、子供を生むことは悪だと語っているが、いつ何の拍子でその思考が覆ってしまうか分からないという恐怖を感じた。
この作品は、読んでいくうちに先の展開を大体予想することができ、実際主人公は出生拒否されることになるんだろうという検討はついていたが、ここまで見事に主張が変わる様を見せられると、展開を予想してはいたものの苦しくなった。

実は、私も子供が嫌いなわけではなく、むしろ好きな為、自分に子供がいたら、と想像することがないわけではない。
可愛い子供が近くにいたら、幸せなのかなと考える事も時にはある。
私の場合はそれでもすぐに自分の主義の元、子供は産まないと思い直すが、そういった「子供がいる幸せな生活」をずっと想像しながら妊娠し続けてきた妊婦にとっては、出生拒否というのは今までの自分の思考をガラリと変えてしまうほど耐え難いものなのだろうなというのは想像に難くない。
そういった考えから合意出生制度そのものを疑って、批判したくなる気持ちにもなるだろう。合意出生制度がなかったら、私はこの子を産めていた。こんなに苦しい気持ちになることはなかった、と。その気持ちも分かるから余計に辛くなる。

物語の中に話を戻す。
彩華はそんな風に今までの理論と異なる言葉を強い口調で吐き続けながらも、今まで自分が正しいと信じてきた思考や意見が今の自分の主張へのブーメランとなり、感情と理論の間で苦しむことになる。
彩華にとって合意出生制度は「正論すぎる」のだ。だから今までもその制度を信じていたし、出生拒否されてからも感情的になって抗うことしかできなかったのだ。
あまりにも正しすぎて逃げ場がないから、自分の子供を産めないという悲しさに耐えきれなくて合意出生制度は政府が仕組んだ陰謀であるとか、そういった合意出生制度を反対する意見を見て、自分を慰めようとしていた。
「出生確認なんて形だけにして、ランダムで合意出生を得られた子供を決めても、今と出生同意率は同じなんじゃないか」とも言っていたし、「どうせ結果が(出生拒否から)変わらないなら、真実だと教えられたものを真実だと信じるのが一番楽だし正しいのかもしれない」とも言っていた。彩華は、もう何が真実で、何を信じればいいのか分からなくなっていく。

そんな中、最終的に彩華が選んだ結論は「キャンセル(堕胎)。」
配偶者の佳織は、「彩華がそこまで産みたいなら産もう、それで子供が生まれてきてよかったと思うくらい幸せにしてあげよう」と声をかけるが、彩華はそれを喜びながらも「人生の初っ端から自分の意志が無視されたという事実が、この子にとって一生解けない呪いになるかもしれないって、そんな気がするの」と堕胎することを告げる。
そして物語は、次に佳織が妊娠するときに出生同意してもらえるといいね、という台詞で幕を閉じる。

正直私は、彩華が堕胎をする事に決めたとき、心から安堵してしまった。それはやはり自分の思想が間違ってなかったと肯定されたような気分になったからだ。ただこれでは、作中の中で出生を拒否された人同士が慰めあって、合意出生制度なんておかしいよね、と正当化し合っていく状況と似ているのではないかと思った。

この本を読んで思ったのは、正解はあっても、正しさが全てではないということだ。
この作品の中では、合意出生制度は科学的根拠もあり、正しいとされているが、それは理論の中での話である。個人が、感情として正しいと思えなかったら、それは正しくない(と思えてしまうものな)のである。
正解だけを突きつけられても、人間はそれを受け入れられないときがある。自分がその正解に当てはまらなかったときだ。
どうにか自分の意見を正当化しようとして、正解にある穴を見つけようとする。そうしないと正しさを前にして押しつぶされてしまうからだ。
そう言った、人間の脆さや理論だけでは片付けられない感情の部分について私はもっと考えていかないといけないと思った。

私が反出生主義者なことに変わりはないが、もし自分が当事者になったら?反対意見の立場だったら?など、凝り固まった思考を、もう一度改め直して自分の主義について考え直していきたいと思う。

追伸
この本のタイトルの『生を祝う』は『生を呪う』にも見えるのが面白い。親からしたら生は祝福したい事柄であるが、裏腹に子供はその生を呪っているかもしれない。または、出生を拒否した子供を産むことは、祝福された出産ではなく呪詛をかけた出産になることから生を呪うとも取れる。素晴らしいタイトル….

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