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欲求を育てて「無欲求」に至る道

瞑想を実践していくと、「穏やかで心地よい感覚」が訪れることがある。

ただ、「穏やかな心地よさ」を求める気持ちがあると、それはやってこない。
むしろ、求めれば求めるほど遠ざかる。

なぜなら、「穏やかな心地よさ」は私たちの欲求が停止したときに感じられるものだからだ。


◎私たちは絶えず走り続ける

私たちは絶えず欲求している。
「あれが欲しい、これが欲しい」と求め続ける。
それはなぜかというと、「今ここにあるもの」に満足していないからだ。

私たちはみんな多かれ少なかれ欲求不満だ。
「現状」に満足しておらず、「まだ見ぬ未来」に夢をかけている。
「今ここにまだ足りていないものがある。だが、それはいつの日か充足されるであろう」と私たちは思う。

そうして、時間やお金を使ったりすることで、その「足りないもの」を手に入れようとする。
確かに、そのように時間やお金を費やすことで手に入るものはたくさんある。
それが一時的には自分を満たしてくれることもあるだろう。

だが、私たちはまたすぐに欲求不満を感じ始める。
なぜなら、苦労して手に入れたものにも、私たちはすぐに飽きてしまうからだ。

そして、「次の目標」に向かって再び走り始める。
「もっとイイものを手に入れれば、今度こそ自分は満たされるに違いない」と期待するわけだ。

そういうことを終わりなく繰り返すことが人生だと思っている人もいる。
そういう人は「夢追い人」だ。
いつも「自分の夢」を追いかけている。

その「夢」はいつか未来に叶う。
「今ここ」には常に不満があり、満足は未来においてしか訪れない。
そして、その「未来のある日」に「夢」が叶っても、満足するのは一時いっときだけで、すぐに次の「夢」に向かって走り始める。

彼らには立ち止まるということができない。
「夢」が絶えず彼らを急き立て、休むことを許してくれないのだ。

◎「夢追い人」が絶望する二つのパターン

彼ら、「夢追い人」たちが立ち止まるのは、絶望した時だけだ。

絶望には二パターンある。
一つは「夢が叶う見込みはない」とはっきり自覚した時、そして、もう一つは「いくら夢を叶えて虚しいだけだ」と悟った場合だ。

一つ目のパターンでは、自分の能力に限界を感じ、「この夢はどうも叶いそうにない」とわかって絶望する。
自分が求めてやまないものが、決して手に入らないものだったとわかって、少しの間、歩みが止まる。
そうして「自分の無力さ」や「社会の不公平さ」を呪い、内側ではさらに強い欲求不満を感じるのだ。

それゆえ、当人は次第にイライラし始め、「無力な自分」を責め始めたり、「幸せそうな他人」と攻撃し始める。
「夢を求めること」は停止するが、不満足は内側で継続し、それが「自分や他人を責める」という仕方で表現されるようになるのだ。

それに対して、二つ目のパターン、「いくら夢を叶えても虚しいだけだ」と悟った場合には、絶望はもっと深くなる。
なぜなら、そこには満足の可能性が一切ないからだ。

「たとえどんな夢を叶えても自分は真に満足しないだろう」という洞察が訪れてしまうと、人は絶望する。

実際、「夢」を叶えても満足するのは一時いっときだけで、私たちはすぐにうんざりしてしまうものだ。
そして、また「新たな夢」を作り出しては、同じことを繰り返す。

この「パターン」に気づいてしまった人は深く絶望するしかない。
金持ちや成功者などが、事業を大成功させた直後にうつ病になることがよくあるのはこのためだ。

彼らにはもうこれ以上叶えるべき「夢」がない。
もう全ては叶ってしまった。
それにもかかわらず自分は「幸せ」になっていない。
だとしたらいったい何ができるのか?

できることは何もない。
このまま不満足で不幸せな状態で一生を過ごす以外にないのだ。

「夢が叶わなかった」という場合には、まだ希望がある。
だが、「夢」が叶ってしまった場合には、もう希望はない。
「最後の希望」は叶ってしまった。
それにもかかわらず、自分は全く満たされていないのだから、それで絶望しないでいることは誰にもできないだろう。

◎絶望の向こうに「平安」という「新たな夢」を見ること

私も過去に「夢」が叶ったことがあった。
何年も「夢」に見続けていたことが現実になり、私は有頂天になった。

だが、一ヶ月も経たないうちに、私はうんざりし始めた。
かつては「夢」にまで見ていたその状態に、私は飽きてしまったのだ。

「夢」が叶うと、人は一時的に興奮状態になる。
「やった!ついに手に入れたぞ!」と心の中で雄叫おたけびを上げ、強い幸福感を感じる。

だが、日が経つうちに、徐々に慣れていってしまう。
かつては「夢」だったものが、今はもう「当たり前の日常」になっている。
すると、それはもう興奮も幸福感も、もたらしてはくれなくなる。
「魔法」は解けてしまったのだ。

どんな「夢」も最終的には絶望に通じている。
もしも「夢」が叶わなければ自分や他人を呪うことになるし、仮に「夢」が叶ったところで、満足するのは最初だけだ。

もちろん、「夢」を追っている間だけは「自分は意味のあることをしている」という充実感を感じることができるだろうが、「どんな夢も究極的には自分を満足させることはない」ということが一度わかってしまうと、そうやって自分を騙すこともできなくなる。

なぜなら、「全ての夢は絶望に通じている」ということがわかっていると、
「夢を叶えようとする努力」自体が無意味で虚しいものとしか感じられなくなってしまうからだ。

そうして絶望することで、「心の平安」を求め始める人がいる。

どんな「夢」を叶えても、自分は満足しなかった。
だったらもう「夢」を追うのはやめにして、自分の内側に「平安」を見出そう。

そんな風に思うわけだ。
それで、瞑想をしたり、宗教的な修行に明け暮れたりする。

だが、それも結局は形を変えた「新たな夢」に過ぎない。
「外側の世界で夢を叶えること」を捨てたとしても、「内側の世界で成就すること」を求めているなら、結局何も変わってはいない。
「求めること」はそこにあり、本人の心はやはり渇いたままなのだ。

◎「求めること」が人を「不幸」に縛り付ける

「求めること」こそが障害だ。
「求めること」がやめば、「幸福」はそこにある。
人は「求めること」をやめた時、「安らぎ」を感じて満足する。

だが、「安らぎ」そのものは求めることができない。
なぜなら、さっきも言ったように、「求めること」それ自体がその障害になるからだ。

私もまた、「心の平安」を求めて瞑想していた時期があった。

「平安」に至りたい。
「幸せ」を心に感じたい。

そう願いながら、毎日何時間も瞑想に明け暮れていた。

だが、「平安」は全く訪れてはくれなかった。
むしろ、飢餓感と欲求不満が募っていった。
「こんなに努力しているのに何も得られないなんておかしい」と私は思い、ますます欲求不満になっていったのだ。

当たり前だが、飢餓感と欲求不満に苦しんでいる人間に、「平安」は無縁だ。
その根本には「求めること」がある。
だから、「心の平安」を求めることは、社会的な成功や人望を求めることと何も変わらない。
精神的な願望だろうが、物質的な願望だろうが、「願望である」という点では同じなのだ。

私の「求めること」が停止したのは、自分のやっていることのバカバカしさにつくづくうんざりしたときだった。

かつては「夢」を叶えるために努力していたが、その「夢」を叶えても絶望しか待ってはいなかった。
そして、今度は「心の平安」を求めており、求めることによって私はそれを取り逃し続けていた。

ある時、私は「自分の愚かさ」を自覚した。
私は常に「幸せ」を求めてきたが、その「求めること」が自分の足を引っ張っていた。
私の貪欲と私の渇望が、私自身を「不幸」にしていたのだ。

◎ジタバタすることをやめた時、人は「我が家」に帰りつく

そのことに気づいてからというもの、瞑想の実践の質が変わった。
私はもう何かを求めるために瞑想をしなくなった。
私はただ自分の不満足を見つめるために瞑想をするようになっていった。

欲求不満を解消しようとしてジタバタすることをやめ、私はそれをただ味わった。
別に、何かを目的にそうしていたわけではない。
ただ、欲求不満を何とかしようとしてジタバタすることが、自分を「不幸」にしているとわかった以上、他にできることが何もなかったのだ。

前まではジタバタすることで「幸福」に近づけると思っていた。
そう思っていなければ、誰もジタバタしたりしない。

だが、今はもうジタバタすることがむしろ反対に「不幸」を生み出すとわかっている。
それがわかって初めてジタバタすることはむ。
「もうこれ以上欲求不満から逃げるのは止めよう」と自分から自然と思うのだ。

その結果、私の中の欲求不満は徐々に溶けていった。
欲求不満を解消しようとしてあれこれしていた時は、かえって欲求不満が強まったものだが、欲求不満をただ味わっていると、それは少しずつ弱まって消えていったのだ。

その時、私は「とても静かなところ」に出た。
何の欲求もなく、何の不安もない、完璧な静寂だった。

そこにはなぜか、「懐かしい心地よさ」があった。
まるで「自分の家」に帰ってきたかのような安心感を私は感じた。
そして、「何も間違ってはいない。全てこれでよい」という無言の肯定感が心身を満たしていったのだ。

以来、その「懐かしい心地よさ」を大事にして生きるようになった。
日常生活の中で瞑想し、最近は仕事中でもその「心地よさ」を感じていられるようになった。
それは私にとって「当たり前のもの」になりつつある。

だが、それにもかかわらず、その「心地よさ」に飽きるということがない。

かつて「夢」を追っていた時は、どんな「夢」も叶えば飽きてしまった。
「当たり前」になると刺激がなくなり、何も感じなくなってしまったものだ。

しかし、この「懐かしい心地よさ」だけは飽きることがない。
というのも、人間は刺激には必ず飽きるが、この「心地よさ」は無刺激だからだ。

◎全ての欲求が「地獄」に通じている

心に何の刺激もない時、そこにはなぜか「心地よさ」がある。
だが、人は常に刺激を欲する。
「刺激の無い状態」には長く耐えることができないからだ。

そして、欲求することで「常に内側にある平安」を逃してしまう。
ここにジレンマがある。

だから、今回の記事のように、私が「欲求が無くなったら『平安』が見つかる」と言ったからといって、「欲求を無くそう」と努力しても無駄なことだ。
というのも、「欲求を無くそう」と考えるのも、欲求の一つだからだ。

「欲求を無くそう」と思えば思うほど、「無欲」に対する欲求が内側で激しく燃え上がることになる。
しかも、主観的には「自分は欲求を去っていっている」と思い込んでいるので、「己の欲深さ」になかなか気づけない。

「平安」に至りたければ、欲求を無くそうとするのではなく、むしろもっともっと欲求し、その欲求を観察することが重要だ。

どんな欲求も、欲求不満につながっている。
全ての欲求が私たちを「地獄」に連れていく。
欲求しながら事の成り行きを自分の目で観察していると、そのことがよくわかるようになる。

そして、「欲求とは地獄だ」というこの洞察によって、初めて欲求は内側からむ。
欲求することを我慢するのではなく、欲求することを自分からやめるようになるのだ。

欲求が無くなった時、そこに「平安」はある。
それは確かだ。

だが、「無欲求」は欲求することができない。
なぜなら、「無欲求」は欲求が自然とんだときにしか訪れることがないからだ。

◎「無欲求を欲求せよ」という不条理

「無欲求であれ。そうすればそこに平安がある」と教える人は世の中にたくさんいる。

だが、その教えは半分正しくない。
「無欲求」であれば「平安」が得られるのは本当だが、「無欲求」は求めて得られるものではないからだ。

「無欲求であれ」と教えることは不条理だ。
そんなことを教えられても、誰にも実践できない。
なぜなら、私たちに意志できるのは欲求だけだからだ。

「無欲求」は意志できない。
むしろ「無欲求」とは「意志の不在」だ。
それは私たちには意志できない。

だから、私たちにできることから始める。
現に欲求があるのであれば、その欲求を見つめる。
もっと欲求し、もっと欲求不満になる。
そうして、欲求というものが自分をいかに「不幸」にしているかを知るしかない。

欲求不満がどこまでも大きくなった時、欲求は自ずからむ。
誰も自分から進んで「不幸」になろうとしたりはしない。
欲求が「不幸の源」であることがわかれば、欲求は自然と枯れていく。
そうして人は「無欲求」になり、その時、内側には「平安」があるのだ。

だが、それは結果論であって、成り行きだ。
何度も言うが、「無欲求」は求めることができないからだ。

欲求は私たちを「地獄」に連れていくが、そうであるからこそ、「良い教師」だ。
「この先には地獄しか待っていない」ということを、欲求はいつも私たちに教えてくれる。

だから、欲求を無理やり殺すのではなく、欲求を大きく育てていくのだ。
欲求を通して学び、あらゆる「地獄」を経験する。
そうして自分のやっていることのバカバカしさに気づくしかない。
「平安」に至るためには、それが一番の近道なのだ。

◎求めるほどに遠ざかるもの

求めれば求めるほど遠ざかるものがこの世にはある。
そして、私たちにとって大事なものほど、そういう傾向がある。
「平安」もそうだし、「愛」もそうだ。

それらは私たちにはコントロールできない。
むしろコントロールを手放したとき、それらは私たちの内側で花開く。

私たちの貪欲。
私たちの支配欲。

そういったものが、私たち自身を惨めにしている。
私たちはみんな欲深い「凡夫」だ。

だが、だからと言って「欲深い人間」が欲のないふりをするのは欺瞞でしかない。
自分や他人を偽るのではなく、「自分の欲深さ」を見つめることだ。

それによって、欲求はいつか枯れ、「無欲求」が内側に起こる。
その時、私たちはずっと取り逃していた「安らぎ」と出会う。

「それ」は内側で私たちのことを待っていた。
あれやこれやを欲求することをめ、内側を振り返ることを待っていたのだ。

「安らぎ」はいつもそこにあった。
それが無くなることはあり得ない。

ただ、私たち自身の目があまりにも欲求に染まっていたので、見落としてしまっていただけなのだ。