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本はおまもり、だとおもう。

本はおまもり、だと私はおもう。

大切な人からもらった手紙のように。

だから、これぞという本は電子書籍ではなく、手でさわれるモノとして手元に置いておきたくなる。

こころがザワザワする時に、
何となく寝付けなくて不安に駆られる夜に、
それが自分の本棚にある。いつでも触れてページをめくれる。

そう思えるだけで、安心出来るとしたらやっぱりそれは「おまもり」だ。


かなり前のことだけれど、おかたづけの人に家に来てもらったことがあった。

彼女曰く、
「どうして昔の手紙をそんなに取って置く必要があるんですか?手紙はメールと一緒でしょう?BOXが一杯になったら古いものは自動消去されるように、手紙も一つ増えたら一つ捨てないと!」

その言葉を聞いた私は、人それぞれの価値観の、あまりに大きな違いに改めて驚いた。

その人にとっては、手紙は「情報」を伝える手段の一つでしかないのだ、手紙というものをそういう風に捉えている人がいる。

その事が、少なからずショックだった。

だって私にとってはぜんぜん、違う。

家族や大切な友だちから来た手紙は、読み返した時に、私を何とも言えない暖かい気持ちにしてくれる。

特に色々な葛藤があった母からの手紙は「色々あったけれど(そして今でもわだかまりや許せない気持ちはあるけれど)彼女なりに私を愛してくれた」ことをカタチとして感じさせてくれる、超貴重品だ。

母亡き後はきっと、彼女から送られてきた手紙や葉書が何よりの形見になるんだろうと思っている。

だいたいさ、電話もメールもあるこの時代にわざわざ手紙を書くからには、電話やメールでなく「手紙で伝えたい内容」だから「あえての手紙」なんだよね。

少なくとも「メールと一緒」ではないよ。

正直私はその時、
「この人、これだけ生きてて(おそらく私より20歳は年上だった)そんな機微もわかんないのかね?ちょっとあんまり豊かでない人生だな。」
などと思ってしまった。

(もちろん、「豊かな人生」なんて人それぞれに決まっている。でもその時、私は、自分の大切なものをけがされたように感じて気持ちがささくれだっていた。)

本も、それを「情報」と思えば電子書籍でもいい。(むしろ場所を取らない分、積極的にそっちを選ぶかもしれない。)

でも、著者の、ひと、としての存在感、想いや、熱が、じわじわと伝わってくる本は、実際役に立つ内容だったとしても単なる「有益な情報」ではない。

読んだ時の自分のこころに登場人物の気持ちがリンクするような物語は、「面白いエンタメ」以上の存在になる。

たとえば、人生に伴走してくれる師匠や友だちからの手紙のようなものだ。

書いた人はこの世にもういない事もあるけれど、それでも受け取れる不思議で有難い手紙。

しょっちゅう死にたいとおもっていた20代にわたしを生き永らえさせてくれた本は今でも私の本棚にあるし、もっと幼い頃に夢中になって読んだ本は、本そのものとしては手元にないけれど、こころの中にしっかり残っている。

(大好きだった『薫は少女』という本があって、あまりに好きで何十回も図書館で借りたし、どうしても欲しかったけれど絶版になっていて手に入らなかった。
それでも諦めきれず、もしかしたら図書館の人もうっかり忘れてくれるんじゃないかと淡い期待をして、わざと返さない作戦を試みたりして、結局、当たり前だけどばれて催促が来て、泣く泣く返したり、という事を繰り返していたのを30年以上経っても覚えている。)

そして、最近では、これから自分がやりたいことを実現している人たちの本を手元に置いて、勝手に応援団になってもらったような気分でいる。

やっぱり、本はおまもりだった。



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