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大切なものを片づけること(2022.8.16)

このお盆は、連日、実家の片づけをしていた。

浜松市内にある実家は、現在、空き家となっている。おととしの12月に主を失ってから、中の空気が澱み、不思議なほど薄汚れ、痛んでいった。そのスピードは想像以上に早い。だから、朽ちてしまう前に家を空っぽにして、売りに出さなくてはいけない。そのための片付けである。

家一軒分の家財はとてつもなく膨大だ。食料品、食器・調理器具、衣服・靴、家具・家電、寝具・敷物、書籍、思い出の品々…etc。この片づけを始めて、かれこれ1年半以上が経つけれど、まるで終わりが見えてこない。母は物を捨てられない人だったので寝具だけでも70点以上あった(5人家族で一体どうして70点も必要だったんだろう?)。それらの家財の1つ1つについて、人に譲れるものは譲り、その他はひたすら分別して車で運び出し、廃棄していく。えいやっ!と捨てたいところだけれど、そういうわけにもいかない。母も祖母も大切なものを各所に隠す癖があったので、片づけていると思わぬところから色々なお宝が出てくる。さながら宝探しゲームのようだけれど、何しろ膨大な量なので、広大な海辺で小石を探してクマデを振るっているような、非力さを感じてしまう。

もういっその事、片付けを全て諦めて、業者に任せてしまおう!!そうしたら、どんなに楽だろう!何度もそう思ったけれど、どうも思い切ることができない。

ある時、片付けをしていたら、戸棚から手帳に挟まれた小さな写真が出てきた。どこかの病院の前で撮った父と母の2人の写真。父は車イスに乗っていて、母が父の後ろに立ち、父を支えていた。確証はないけれど、父が交通事故に遭った後、退院した日に撮った写真だと思った。僕よりも若い2人の、はにかんだ表情を見て、「あぁ、そうか。この2人は夫婦だったんだ」と改めて気がついた。妙な実感だった。

その後、妹にもこの写真を見せたいと思って、改めて戸棚を探したけれど、なぜか二度とその写真を見つけることができなかった。元の戸棚にしまったはずなのに。当初はそう確信していたけれど、だんだんと自信がなくなり、今ではその写真が幻のようにも思えてしまう。これまた奇妙な出来事だった。

この片づけを人に任せることができないのは、こうしたお宝、すなわち「かつての僕ら家族が大切にしてきたもの」が家の中に残されているからだ。それら1つ1つに目を通すことは、母の供養のような気もするし、自分自身のためにすべきことのような気もする。言葉にはしずらいけれど、きっと何らかの意味があるんじゃないかと思う。だから、家が空っぽになるまで片づけを続けていくつもりでいる。

ところで、いつか僕が死んだとき、誰が僕の遺品を片付けるんだろう。妻なのか子ども達なのか、あるいは業者なのか。僕は近親者にも他人にもあまり迷惑はかけたくはない。だから、頭と体がしっかりしているうちに、生活をダウンサイズして、できるだけモノを減らしておきたい。そして「僕が本当に大切にしていたもの」を、それが何なのか分かるような形で残しておきたい。そう思っている。

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