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桜の時 第二話 出会い 後編

それからは二人で待ち合わせてよく図書室で勉強をするようになっていった。前まではどちらかが図書室に居れば、一緒に勉強をするという関係だったが、三好が連絡をくれることで徐々に心を開いていけるようになった。
 期末テストも終わり、冬休みに入ろうとしたころだった。いつも通り、美術部に行って、三好との待ち合わせをするため、図書室への廊下を急ぎ足で歩いた。廊下は外の雪が入ってきているんじゃないかと思うぐらい寒く、今にも手足が凍っていきそうだった。図書室を覗くとまだ三好は来ておらず、寒々しそうな雰囲気を醸し出している。管理室は電気がついていて、安田先生がいることが確認できた。私はホッとしながら、管理室をノックしながらドアを開ける。するとふんわりと暖かい空気が私を包み込んだ。
「失礼します」
と言いながら部屋に入ると各教室においてあるストーブと、安田先生が持参していた暖房器具が煌々とついていた。
「おぉ!渡辺か。久しぶりだな」
「はい、テスト期間中でなかなか……というよりは先生も来てなかったし」
「そうだな。テスト期間中はどうしても職員室にいないといけなかったからな」
とあの日の出来事は忘れ去られているように元気を取り戻していた。私は安田先生のその姿を見て呆気にとられていた。だが、同時にもしこの間、三好に振られていた女生徒もそう思っていたら……と、自分が呆気にとられるぐらいだ。彼女の目に私たちの行動はどう映るんだろうかと思った。
「テスト、結構よかったな。俺は数学しか見てないけど」
と話しかけられて我に返った。
「はい、まぁ~」
と返すとクスっと笑いながら振り返りながら煙草を口にくわえて、窓を少し開けた。
「三好とはうまくやってるの?」
「うまくって?」
「いや、この前も廊下を通ったら一緒に勉強していたから、うまくやってるんだなと思って」
「そうですね、勉強も教えてくれるし、何せ優しくしてくれるので」
と付き合っていると悟られないように話す。
「うん、三好は他の生徒とは違う。羨ましくなるよ。俺もあんな風になれたらってね」
「先生が羨ましがってどうするんです?」
と笑う。
「この前の模試の結果、聞けてなかったな」
「この前の模試?」
「三好はいつも定期的に模試を受けに行ってるんだよ。全国模試で一位を取ってるんだ」
知らなかった。三好が頭が良いのは知っていたが、私たちが通っている高校は偏差値も周りの高校と同じか少し落ちるところもある。それなのに、全国模試で一位を取るような人間がこの学校にいるとは思えなかった。 
「どうして三好先輩は頭が良いのにこの高校を選んだんでしょうね」
とつい本音が出てしまった。すると安田先生は大きく笑ってひとしきり笑うと目をこすりながら話し出した。
「はぁ、渡辺はとてもなんていうか素直なんだな」
「いや、うちの学校っていうか、私が来るような学校に模試で一位取るような人が来ないだろうって」
「謙虚すぎだよ。一応、県内では進学校って呼ばれてる」
「へぇ~進学校か」
と不信そうに返事をした。
「彼はお医者さんを目指していてね。多分、医大かもしくは医学部があるところを目指すんじゃないかな」
「医大……ですか、それはすごいですね」
と言ったが、私の中で全国模試で一位を取るぐらいだから、この辺の小さな大学に行くわけはなく、遠いところの大学へ行ってしまう気がしていた。
そんな話をしていると、管理室のドアをノックする音が聞こえて、振り返ると三人組の女生徒が立っていた。真ん中には、この間、三好に振られた女の子が立っていた。
「あの、ここに渡辺頼子って子います?」
「はい」
と言って立ち上がった。嫌な予感が胸を過る。
「ちょっと話があるんだけど」
と右隣のスカートを短くして、髪も少し明るくした化粧も薄くした私とは正反対の女子が手招きをしている。
「はぁ……」
「おい、二年の牧野じゃないか。どうしたんだ?」
安田先生も異変に気付いて話しかける。すると牧野さんは少し舌打ちをした後、何でもないけど、ちょっと聞きたいことがあって、と言って私を呼びつける。
「行きます」
と言ってついていくことにした。覚悟はしていた。もうこの三人が来たということは、三好のことに決まっているし、最近よく二人でいることが多かったからこそ、誰かの目撃情報により、判明したのだろう。
誰も来ない裏庭で話すことになったが、私はだんまりを決め込むことにした。すると、牧野さんが口火を切る。
「あんた、一年生の渡辺さんだよね?」
「はい、そうですけど……」
「三好と仲いいのは分かってるんだけどさ。三好と付き合ってんの?」
「……」
と少し切れ気味なのはやはり三好に振られた腹いせなのだろう。すると牧野さんは三好に振られた子の背中を押して私の前に突き出す。
「若葉もなんか言ってやんな!」
すると泣きそうな顔で私を見つめて、私の頬を思いきり引っ張たたいた。
「私は、三好君のことが好きだったんだよ! なのにどうしてあんたなんだよ!」
と言って私の腕にしがみついた。だが、私は親にも叩かれたことがなく、頬の痛みで話が入ってこなかった。
みるみるうちに、私の顔は若葉の手形で赤く腫れあがった。すると横から割って入る影が見えた。
「やめろって!」
上を向くと、三好が私と若葉の間に割って入っていた。
「何やってんの?」
「ちょっと三好! あんたこの女を選んだの? 絶対に若葉のほうが可愛いじゃん」
「こうなると思ったし、性格がこんな風だから僕は君と付き合いたくないって断ったんじゃないか」
というと若葉はサッと私の腕を突き放した。
「どうしてどうしてこんな子なのよ……地味で何にもできそうにないし、素っ気ない感じなのかな」
と泣きじゃくる若葉に牧野は近寄った。
「どうしてこんなひどいことが出来るんだよ!」
「ひどい? きっと三人がかりで下級生を問い詰めるほうがよっぽどひどいと僕は思うよ」
と冷静に怒っていた。私は居た堪れなくなってとっさに謝った。
「ご、ごめんなさい……」
「今さらなに?」
と牧野は私を睨みつけた。怖くなって何も言えなかったが、三好は私の気持ちを代弁してくれた。
「牧野さん、佐伯さん、僕は君たちがいじめをしてるのを知ってるし、一人来なくなった子も救えなかった。もう渡辺さんにも近寄らないでほしい」
ときっぱりと言って私の手を引いて図書室まで帰ってきた。すると慌てた様子で安田先生が出てきた。
「大丈夫か? 渡辺」
「大丈夫です」
と私が答えると同時ぐらいに三好が私の頬を見て伝える
「大丈夫じゃないです。佐伯さんに頬をたたかれました」
「平気ですよ……これぐらい」
と言って私は我慢をした。本当は八重歯がある分、衝撃で口の中が切れていて、とても痛かった。
「でも、頬は腫れてるぞ。そのまま帰るのか?」
「引っ込みますよ」
と言ってその場をなだめる。
いじめなんてものは、このようにして始まる。いつものパターンだなと思った。
安田先生はとりあえず自分の中で持ち帰ると同時に、牧野達を監視する方向で様子をみると言ってくれた。
「なんかすみません……問題起こしてしまって」
「いやいや、三好と渡辺を引っ付けたのは俺だしな。何かあれば言いなさい」
と言ってくれた。その日の帰り道、三好と私は俯いて歩いていた。
「今日は、ごめんね、僕のせいで……」
「私は、きっとひどいことをしたんですね」
「そんなことないよ。彼女たちはずっとあんな感じなんだ。前も一人登校拒否にさせてる。悪口は言いたくないけど、そういう人たちなんだよ。だから気にすることないよ」
「違うんです。今日、三好先輩が来る前に、安田先生と話していました。安田先生は、いつもと変わらない返事で、真理のことを忘れているような感じがして……だから、三好先輩もきっと佐伯さんの前であんな感じだったから、ちょっとムッとしたのかなって」
というと、三好は私の手を握った。
「それは違うと思う。頼ちゃんはそういう風に受け取ったかもしれないけれど、だからと言って人の幸せを奪う権利なんて誰にもないんだよ」
確かにそうだ。真理は私が安田先生のところへ足繫く通っても何も怒らないし、当然のごとく友達として接してくれている。きっと真理は安田先生が誰かと結婚してしまっても、怒らないと思った。
「うん、確かに……真理は復讐なんて考える人じゃない」
と言って二人は微笑んだ。顔の腫れを気にして、私たちは少し街をぐるぐると回った。町の図書館は皆が犇めき合って勉強をしているはずだ。今日ぐらいは三好も勉強のことを考えず、行く当てもないまま歩く。近くの川に差し掛かる。雪が降っていたが、何となく体も慣れてきて、近くにあったベンチに腰を掛けた。私は今日あった出来事を思い返すと笑いが出てきた。
「どうしたの?」
と三好は不思議そうに聞く。
「いや、なんだか可笑しいじゃないですか。大人と子供の中間なんだって気がして」
と私は大人でもなければ子供でもない存在ということに気が付くように笑った。
「大人だったら、きっとそんなことで怒ったり泣いたり、人をたたいたりしないでしょう? だけど、まだ大人じゃない部分も持っているから、そんな風にしているわけで」
と説明をすると三好はそっと私の手を握った。
「頼ちゃんを好きになって本当に良かった」
と言った。私は初めて三好と付き合った自分の判断に誇りを持つことが出来た。
 冬休みに入り、雪が降っているときはあまり外での部活は控えられていた。美術部は関係なくあったが、私はあまりやる気がないため今度のコンクールに向けた作品に色付けをしていく作業を適当にこなしていた。すると、後ろから遅れてきた真理が声をかけてきた。
「遅くなってごめん!」
「大丈夫だよ。それよりバイトばっかりしてるんじゃない?」
「してないよ、ほら美術の塾あるしさ」
「すごいじゃん!」
「まぁ~ねぇ~」
と誇らしげに椅子に座る。あれから真理はお昼も教室で取るようになり、あまり図書室に近寄ろうとはしなかった。私は気になってはいたが、真理に聞くことが出来なかった。
「頼子、最近図書室行ってる?」
と真理のほうから聞いてきた。
「行ってるよ、だって当番あるし」
「安田っちどうしてる?」
とやはり安田先生が気になるようだった。私が普段と変わらないことを伝えると真理はホッと胸を撫でおろした。実は、真理は美術の塾で出会った2つ上の先輩に告白されて、付き合うことになったそうだ。だから、安田先生に告白をしてしまい、そのことをまだ気にしていたらどうしようと思ったらしい。
「そうなんだ! なんだよ、おめでとう」
「いやぁ~最近の話なの」
「ほぅ、詳しく聞かせてもらいましょうか!」
と私は笑いながら話す。本当に真理が幸せそうだったことに心から私も嬉しくなった。すると真理は私のことも聞きたかったようで聞いてきた。
「それよりも頼子はどうなの?あのがり勉とは」
「それが……」
真理には伝えてもいいと思った。真理もここまで話してくれているわけだ。
「付き合うことになったの」
「えっ! いついつ?」
「最近、まだ一ヶ月も経ってないよ」
というと真理は瞳を輝かせて私に抱き着いた。
「本当に良かったじゃん! お互い、道が開けたって感じ」
「そうだね。でも私の場合は、面倒なことも多くてさ」
「面倒?」
私はあの日のことを話すことにした。だが、解決はしているし、もう干渉はされていないことも告げた。
「でも、それって冬休み明けたら、エスカレートするかもじゃん! 鬱陶しいよね、女の嫉妬」
「まぁ~別に気にしてないし、それはそれだって思ってる。それに、安田先生の前で起こったことだったから、安田先生も目撃者で気にかけてくれてる」
というと真理はホッとした表情をした。でも必ず私に言いなよ! と自分の胸に手を当てて言った。ありがとう、と私は微笑んで二人は笑った。そして冬の大イベントであるカウントダウンジャパンの申し込みをすることにした。色々とライブには行っているが、私たちにと額でもあるが、三日間のうち、自分たちが応援しているバンドが一番多く出る一日を狙って大金を出す。
「初めて行くんだけど緊張するよね」
「確かに、絶対バンドのTシャツだけは買わないと!」
「タオルもでしょ?」
と二人は楽しそうに盛り上がる。そういえば三好と趣味の話をしたこともなければ、家族の話もしたことがなかった。それはプライベートに触れられることを自分自身が拒んでいたからかもしれない。今日こそは聞いてみようと思い、部活終わりの三好を待ってみることにした。真理がチケット代を立て替えてくれていたので、お金を払い真理には図書室に寄って帰ると伝えて、真理とは別れた。
 図書室に行くと、安田先生はいつも通り図書室の掃除などを行いながら、図書館だよりを作っていた。
「先生! お久しぶりです」
と言って、暖房の聞いた部屋に入る。すると、安田先生が振り返ると同時にチン!と何かが焼けた音が聞こえた。
「おぉ、渡辺!今、焼き芋が焼けたんだけど、食べる?」
「えっ? 焼き芋焼いてたんですか?」
「うん、そうだよ。この季節と言ったら焼き芋だろう?」
と明るく言った。そんなことをいう安田先生を見て、こんな無邪気なところに真理は惚れたんだろうと思った。
「いただきます。ありがとうございます」
と言って管理室のソファに腰かけた。焼き芋を受け取って一口食べる。香ばしい香りと甘くくちどける感覚がたまらなかった。持っていたお茶に口をつけて、ゆっくりと深呼吸をする。
「先生、真理のことなんだけどさ」
「あぁ、吉田は元気しているか?」
「えぇ、やっぱり心配してたんだ」
と言ってさっき真理から聞いたたことを話した。
「だから先生は心配しなくても良いと思う。冬休み明けからはまたお昼、ここでお世話になります」
「というと微笑みながらお茶をすする。
「はぁ~またうるさくなるなぁ~」
と二人で笑った。安田先生は真理を心配していたが、表情には出さなかっただけだったようだ。大人とはそういうことなのだと思った。焼き芋を食べ終わり、二人で談笑していると、遅れて三好もやってきた。
「おぉ、三好! 焼き芋食べる?」
「えっ! いいんですか?」
「うん、さっき渡辺も俺も食べたからさ」
と言って三好に焼き芋を手渡す。三好はお礼を言って口にした。そして図書室で少し勉強と冬休みの宿題を終わらせると図書室を後にした。年末年始の四日間は、学校も閉まってしまう。だから、三好と会うのも今年は最後となってしまった。
「今日で宿題は終わった!」
と私は背伸びをして喜んだ。すると三好は微笑みながら本屋に行きたいといった。私は軽くうなずいて、近くの本屋へと向かった。学校の近くの本屋は二軒しかなく、一軒は漫画や雑誌などの本がたくさん売ってある一般向けの本屋だが、もう一軒は縦長で一般客はほどんど来ず、老夫婦と息子が切り盛りをする学校に卸す教材や参考書を取り扱っているようだった。初めて入る店内は、何が書いてあるか分からない本から、小学校の時にやった懐かしい教科書が置いてあるばかりで、私はどこに目をやっていいのか分からなかった。スタスタと歩いていく三好についていくと、奥には赤い本がたくさん置いてあった。私たちの気配に気が付いて、奥から誰かが出てきた。
「よう、三好君、今日も来てくれたんか」
「はい、今日はちゃんと買いに来ました」
「ちゃんとって、この間は金額をみて帰っただけだったかな」
「はい、買いたかったんですが、手持ちがなくて」
「あれ、今日はお連れさんかい?」
「はい、そうです」
「ほほう、珍しい」
と言っておじいさんは私を覗き見た。
「初めまして……」
「はいよ、よろしくね」
と言われた。私は照れながら三好の後ろにひょっと隠れた。三好は赤い本を手に取ると
レジへと向かう。
「何の本を買ったんですか?」
「えっとこれは受験対策本だよ」
と説明された。表紙には東京大学理科三類と神戸大学医学部と書いてあった。
「と、東京大学?」
「ま、全然解けないんだけどね」
とごまかす。するとおじいさんがレジを打つ準備をしていた。
「これ、おまけ」
と言って参考書を一冊袋に入れてくれた。
「いやいや、だめですよ」
「良いんだよ。この本屋に来てくれるのは、本をなくしたって子ぐらいなんだから。三好君には特別だよ」
と言って袋に入れた。三好は申し訳なさそうに手に取ってお礼を何度も言った。店を出た私たちは駅へと歩き出した。三好は誰にでも愛されるキャラクターなんだと思う。
「参考書、良かったね」
と私は微笑んで話す。
「おじさんは僕のことをよく知っているからさ」
「そうなの。あの本屋さんにはよく行くの?」
「うん、よく行くよ。小学校の時から通っていて」
という。すると一台の車が私たちの横に止まった。窓が開くと一人の女性が笑顔でのぞかせた。
「あら、忠明、今帰り?」
「うん、お母さんも今帰り?」
「えぇ、あら、そちらの子は?」
と私のほうをちらりと見たので私は頭を下げた。
「こちらは渡辺頼子さん。一つ下の子で今お付き合いさせてもらってる」
「あら、この子が頼子ちゃん!」
と明るく言われた。
「はい、三好先輩にはお世話になってます」
「私のイメージ通り。とっても良い子そう!」
とはしゃいでいる。私たちは車に乗るように促され、私も遠慮がちに車に乗った。
「ごめんね、狭い車で。今からご飯食べようと思うんだけど、もしよかったら一緒にどう?」
時間はお昼を少し回ろうとしている。
「私は時間は大丈夫なのですが、よろしいんですか?」
「気を遣わないで。いつも忠明がお世話になってるんだから!」
と言って車を走らせた。三好のお母さんは三好には似ておらず、とても明るい人だった。そこからは三好のことや私がどんなことをしているのかをよく話した。
「この子はね、父親が早くに亡くなってるから不自由をさせてるけど、私に似なくてさ」
「そんなことないよ。別に苦労した覚えはない」
「こんな素っ気ないんだけど、よろしくね」
「いえ、お父さんがお亡くなりになられているのは知りませんでした。」
「そうなのよ。ガンでね。頑張ったんだけど若かったのね。呆気なかったわ」
と少し寂しそうに話をした。私の両親はそろっていて、何ならこの頃は祖父母もまだ元気だった。そんな暗い話をかき消すように三好は明るく振舞った。
「いいよ、お父さんが亡くなかった話はよそう」
「そうね、でもつい話しやすくてさ。頼子ちゃん」
「ありがとうございます。私もそう言ってもらえてうれしいです」
と言って三人で笑った。
 それからはよく三好の家族と一緒にご飯を食べたり、お母さんとだけ連絡を取ったりするようにもなった。三好は私を気遣った。
「ごめんね、なんかお母さんがうるさくしてるみたいだけど」
「私、楽しいの。全然こういうこともなかったし、私にとっては幸せなことだから」
とほほ笑むと三好はホッとした顔をしてお礼を言う。そんな良好な関係だけが流れていく。
 家では母が昼食を断った私を待っていた。
「ただいま」
「お帰り、遅かったじゃない」
「ごめん、真理と一緒にご飯食べてきたから」
と真理と食事をしてきたことにしてしまった。
「明日からいるんだから、ちゃんと宿題もピアノの練習もあるんだから」
と言う母は何も気づいていないようだった。素っ気ない返事をして私は二階に上がり、ピアノの練習を始めた。
最近はあまり話さなくなったが、前は母とも仲が良かった。買い物に行ったり、何でも母に相談をしたり、そんな日が長く続くと思っていたし、少しぐらいは母と話したいと思うが、なかなかうまく今の状況を伝えられない。
ピアノを弾くと私は何もかも忘れられるが、ピアノコンクールも近いため、練習にも身が入る。二時間程度練習をしてから、ピアノの教室に向かう。いつも通り、車の中でも会話はほとんどなかった。だが、ピアノのレッスンが終わり、迎えに来てくれたおり、母から話し出した。
「ピアノ、続けるの?」
「えっ?」
「お母さん的には続けてほしいと思うけど、今日も先生から言われたように指の長さが足りないから、プロになるのは難しいかもしれないって」
「うん……プロになれるほどの実力もないし、別に……」
「そう……残念ね」
と母はとても残念がった。
元々、ピアノを習わせたのは母だった。昔から自分に娘が出来たら、必ずピアノを習わせたいと思っていたようだった。だからこそ、昔は練習を見ては怒ったりもしていた。今は、自分の範疇を超えた旋律になっていたからと言って手離れもしたが、本当はプロにしたかったようだ。私は車の窓を開けて、外の空気を車に入れた。
―もちろん、プロになりたかったよー
 冬休みはとても楽しいイベントが盛りだくさんだった。カウントダウンジャパンは各アーティストを間近で見ることが出来て、私と真理は興奮冷めやらぬ時間を過ごした。次の日には真理と会い、前の日の「よ!久しぶり」
身長も体格も大きく、顔を見上げるのに少しのけぞるようにしてみると、浩太が立っていた。
「あぁ……お久しぶり」
と妙に他人行儀な私に少し乱暴な言葉で話し出した。
「高校行ってから全然あってねぇな」
「うん、だって野球ばっかりしたんでしょう?」
「そうだけど……こっちで一緒に飯食わないか?」
という。
ここは私の家であって浩太の家じゃないんだけど? と思いながら首を横に振って断った。
「次、俺、甲子園に行くことになったんだぞ!」
と急に大きい声を出す。
「そう、良かったね」
というとそそくさと階段を上り自分の部屋へ入る。すると家の中なのにも関わらず、母から携帯に連絡が入る。
「はい」
「せっかく浩太君の健闘会をしてるんだから、降りていらっしゃい」
「でも……野球のことは分からないし」
「良いから、顔ぐらい見せなさい!」
と久しぶりに母にきつく言われ、渋々下へ降りた。
応接間のドアを開けると、浩太の父と母、私の父と母、その他、父と母の同級生などが数名そろっていた。浩太の父と私の父は同級生で高校までずっと同じ学校だった。そのため、悪いことも共にしてきたほどの中の良さであった。そのため、浩太のことも自分の息子のように可愛がっていた。
「浩太は本当にすごいな」
「いや、そんなこともないさ。浩太一人が行くわけじゃないし、先輩たちの努力あってのことだ」
「いや、それでも一年生でも試合に出てるなんてすごいじゃないか!」
「いやいや、そんなことないぞ。金もかかるし大変だよ」
と言っていた。浩太の父は私を見るなり、適当な挨拶をして座るように促した。
「いや、見ないうちに大きくなったな」
「まぁ……」
「ピアノは続けているの?」
「はい、私なんかより今日は浩太君がメインですので、浩太君の話をしてください」
と少し嫌味に聞こえる言い方をしてしまった。
「いやいや、うちの浩太なんて、まだまだだよ」
と気を遣ったようにも見えたが、顔は自信満々で自慢げだった。
 私の家は代々続く大工の家で、父もその大工を継いだ。もちろん田舎のことだから、農地もあり昔の地主のようなものだった。
浩太の家は父と同じ高校を卒業したのち、地元の優良企業に就職した。いわば、お互いに安泰している家ではあった。ライブに行った日の次の日は、感想を言い合うことになっている。お互いの予定が開いているときは決まってそうしている。そのあとは、自由にご飯を食べたり、お茶をしたりして雑談をするのが日課であった。
「はぁ~」
とため息をつく真理は理由を聞いてほしそうだった。それに応えるように私は理由を聞いた。
「どうしたの?」
「いや、彼氏が今年受験だからさ」
「そうか、真理の彼氏って高校三年生だっけ?」
「うん、だから受験なんだけど、京都の美大と東京の美大を受けるらしいのね」
「ほぅ、京都と東京じゃだいぶ距離が違うね」
「そうなのよ、だから自分の進路もそこそこ変わってくるわけで」
と彼氏を追いかけていくような言い方をした。私はそれは自分の進路だから何も同じところを目指さなくても良いのではないかと真理に伝えた。
「それもそうなんだけどね……できれば近くに居たいじゃん。頼子だってそう思うでしょう?」
「うん……でも私の場合は実力も違うし、目指している方向性も違うから」
「じゃあ、離れても良いの?」
「まぁ~それで別れるぐらいならそれぐらいの付き合いだったってことなのかと思う」
と少し大人びたことを言ってしまった。本当はそんなことは思っていない。できれば傍にもいたいと思っていた。
「まぁ~そうなんだけど、難しいところだよな」
と真理は悩んでいる素振りを見せながら飲んでいた甘い飲み物に口をつけた。
 その夜、家に帰るといつもはあまり大きい声も出さない父の元気な声が外にまで聞こえていた。私は不思議そうに玄関を開けると、泥だらけの野球のスパイクと複数の男の人の靴が転がっていた。そして中に入っていくと、だんだん聞き覚えのある大きな笑い声が聞こえてきた。とりあえず自分の部屋に荷物を置いて、洗面所で手を洗っていると、応接間のドアが開いて、一人の大柄な野球のユニフォームを着た男が出てきた。
酒も入っていたのか、父同士の話は尽きなかった。私はジュースに少し口をつけて、その場の雰囲気を壊さないように部屋から出た。すると後ろから浩太がついてきて、私の腕を強く掴む。
「痛い!」
「すまん……」
「何?」
「いや、なんか素っ気ないから」
「素っ気ないって別に……」
浩太は見た目も人から好かれる風貌で、野球もうまかったため、女子にも男子にもモテるタイプだった。だから前にも言った通り、一緒に帰るだけで噂になると、嫉妬深い女子が悪口などを言うようになるのを見ていた。そういうことに鈍感な浩太は、何も気づかないままここまできたし、何なら浩太自身もモテることを理由にいろんな人と付き合ってきた。だから、いろんな彼女がいることも知っていたし、私はそんな乱暴で横暴な浩太を好きにはなれなかった。
「別に素っ気なくしているつもりはないよ」
と言いながら手を振りほどいた。
「お前、付き合ってる人とかいるの?」
「えっ、何で?」
「いや、いるのかと思って」
と少し俯いている。このデリカシーのない男に聞かれたらうるさく言いそうだったから、ここは濁すに限ると思い、別に……と答えた。すると浩太は私の手をもう一度強く引いた。
「俺と付き合ってほしい」
「は?」
私は一瞬ときが止まったように思った。今までは幼馴染でよく知っている間柄の浩太を今さら恋愛感情で見ることが出来なった。
「浩太ならほかに良い人いくらでもいるよ」
というと浩太は違うんだ! と強く言う。
「ごめん、私好きな人がいるから」
と言って浩太を振りほどいて自分の部屋に戻った。浩太の握った手首はよほど強かったのか赤く型が残っていた。私は浩太に告白されたことを何とも思わなかったし、それよりも今すぐにでも三好の声が聞きたいと感じた。すると握っていた携帯が鳴る。
―明けましておめでとう。明日から学校が開校になるね。明日、僕は図書室に行こうと思います。
と三好から連絡が来た。私は飛び跳ねるような気持ちでうれしかった。
 久しぶりの三好は相変わらず、優しい笑顔で私に手を振った。今日は午前中、テニス部の練習があったようだ。一緒に勉強して、お弁当を食べる。
「そういえば、テスト明けに試合があるんだ」
「そうなんだ! じゃあ忙しくなるね」
と話す。私は前に渡しそびれたリストバンドの存在を思い出した。
「あっ! そういえば、付き合う前にこのブックカバーをくれたでしょ?その時にお返しを買っていたのだけど、佐伯さんが告白をしていたから渡しそびれて……」
と言って鞄の中からプレゼント包装されたリストバンドを取り出して、三好に渡した。
「ありがとう。お返しなんてよかったのに。でも嬉しいよ。これで頑張れそうだ」
「良かった。応援してるよ。試合はどこであるの?」
「うん、□□市のほうであるんだ。だから近いんだけどね」
「じゃあ観に行ってもいい?」
「良いけど結構緊張するね」
「そうか、でももしかしたら行かせてもらうかもね」
と微笑む。この冬休みにあったよくないことも三好に会えば忘れられるのだ。
 春、私は二年生になり、三好は三年生になった。クラスが発表され、真理と私は同じクラスになることが出来た。
「頼子、今年もよろしくよ! まぁ~違うクラスになってても多分、遊びに行くけどね!」
「本当にね! 私もそうしてたはずだしね」
と二人は笑う。すると担任が挨拶をした。すると一枚の紙が配られる。そこには「進路調査票」と書いてあった。真理は美大に行きたいと高校に入った時から言っていたので、すらすらと書くことが出来たが、私は進路をちゃんとは決めていなかった。ピアノは指の長さも足りず、音大に行くことも少し諦めてしまっていた。それに本は好きだが決して、文学系に進みたいと思っていたわけでもなく、どちらかというと理数系のほうが得意ではあった。担任は明日には提出するようにと伝えると帰りの挨拶をして教室を後にした。私と真理は教室を出ると一目散に図書室の管理室に向かう。ドアをノックして一目散に真理は部屋に入った。
「安田っち!おはよう!」
といつもと変わらない真理だった。
「おはようってもう何時だと思ってるんだ?」
と安田先生もいつも通りの挨拶で私はホッと胸をなでおろす。
「そういえば、私たち、同じクラスになれたんだよ!」
「そうか、良かったじゃないか」
と言って安田先生と真理はいつも通り話をする。私はそれよりも進路についてしっかりと考えないといけない時期が来たんだと思った。私たちのこともあるが、三好も今年受験のシーズンに差し掛かる。そして真理の彼氏が受験と言っていたが、その後、どうなったかは聞いていない。
「今日さ、担任からこんなのもらって、とりあえず書いたんだけど、うちの彼氏が京都の美大に行ったんだけどね」
と進路の話を話し出した。
「京都の美大に受かったの?」
「そうなんだよね、私も東京の美大って言われたらハードル上がっちゃうけど、私も京都の美大に進学したいと思っていたし、良かったよ」
と話す。少し羨ましかった。私は進路も決まっていなければ、三好に近い大学なんて行けるはずがなかったのである。
「渡辺は目標は決まったの?」
と安田先生が聞くが首を傾げてまだ決まっていないと答えた。先に美術部に行くという真理に本を選んだら行くと返事をして図書室に残ることにした。
「先生、私やっぱり目標がなくてただ漠然と学校に来て勉強してって」
「好きなことを仕事にするべきなんだけど、それが分からないってことなのか?」
「好きなことって読書とか?」
「そうだ! 本が好きじゃないか」
「でも数学も好きだよ」
「数学か……正反対だな」
「うん……だから悩んでる」
と言った。私の成績は数学と化学、現代文は成績はまずまず良かったが、あとの教科はクラスの成績でも中の上または中の中を彷徨っていた。だから全体の成績もクラスの最も平均的な中間地点にいる。だから怒られることもないが、ほめられた記憶もない。
「試しに、数学の検定で儲けてみればいいじゃないか!」
とひらめいたように手をたたきながら安田先生が立ちあがった。
「数学の検定?」
安田先生は検定のパンフレットを私に手渡した。漢字検定や英語検定のほかに数学にもまた検定があるようで、安田先生は私にどれくらいの実力があるかを試してみて、進路を決めても良いんじゃないかと伝えた。それもそうだなと思い、今回の進路調査票は適当に書いて提出をすることにした。
 真理はその日、美術の塾があると言って先に帰っていった。私は三好と帰ることになっていたので、三好を待つ間、安田先生からもらっていた数学検定のパンフレットを見ていた。すると後ろから声がした。
「数学検定、受けるんだ」
びっくりして振り返ると部活終わりの三好が立っていた。
「びっくりした! お疲れさまです」
「お疲れさま。ごめんごめん、真剣だったからつい」
と笑う。三好もこの検定を受けたことがあったらしく、模試受けるのなら教えると言ってくれた。それからは普段の宿題や勉強と数学検定の勉強を始めた。締め切りも近かったため、慌てた部分もあったが、受験当日も余裕をもって受けることが出来た。そのおかげなのか二級までは余裕をもって取ることができ、それには本当に三好と安田先生は喜んでくれた。一級になるとだんだんと難しくなり、苦戦を強いられていた。何度か受けたが、何度受けても通る気配はなかった。
 その頃、もう夏か近づこうとしていた。
「あっついねぇ~」
と言いながら真理と私は美術部の風通しの一番いいところを陣取り項垂れていた。すると、美術室が急にざわつき出す。美術部は男子部員がおらず、男性は横田先生以外男の陰すらない。大人しくて、真面目な女子しかいない中でざわつきが起きるわけはないため、珍しいことだった。
「失礼します。渡辺さんいますか?」
と聞き覚えのある声に私と真理は慌てて後ろを振り返った。するとそこに三好が立っていた。
「あれま、向こうから迎えにきたね」
「本当だよ……」
と慌てて手招きをした。
「どうしたの?」
「いや、ちょっと報告があってさ」
「いやいや、メール送ってくれたら行ったのに!」
「ごめん、多分ここだろうなって思ってさ。どうしても早く伝えたかった」
「じゃあ、こっちに」
と言って画材道具などがたくさん入っている倉庫に連れて行った。すると珍しそうに周りを見渡していた。普段、生徒がここに入ることは滅多になく、私たちも先生がいるときは先生に使用目的を伝えたのち使うことになっている。
「何があったの?」
「いや、テニス部の最後の大会なんだけど、今度県大会に出場することになったんだ」
「すごいじゃん!よかったね」
と私は三好よりも大喜びしていた。私の高校の運動部はそれほどどの部も強くなく、せいぜい頑張っても県大会止まりだった。だが、三好はあれだけの勉強量をこなし学年でも全国模試でも一位を取っていてスポーツもしていることを知っていたし、何よりも三好はテニスが好きであると言っていたので自分のように嬉しくなったのだ。
「いつなの?大会」
「夏休みに入った次の日だよ」
「えっ……」
私は言葉に詰まった。観に行こうと思っていたが、よりにもよってその日は美術部の展示会の日だった。
「どうかしたの?」
「いえ、あのその日は美術部の展示会があって、ちょうど私が受付の当番なの」
と残念そうな顔をして言った。すると三好は微笑んで落ち込んでいる私の頭を撫でた。
「仕方ないよ。お互い部活動をしているわけだし、嬉しくて伝えたかっただけだから無理することはないよ」
と言ってくれた。私は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。すると三好は部活があるからと言って美術部を後にした。私は落ち込みながら先ほど座っていた場所に戻る。すると真理がにやにやと笑いながら
「何か言われたの?」
と言ってからかう。そしてさっき話していた内容を伝えた。
「どこであるの? 大会」
「□□市だって」
「じゃあ展示会場から近いじゃん!」
「でも、私たち受付当番の日だしさ。抜けることは出来ないよ」
というと真理ははっと気づいてそうだったねと言って落ち込んだ。その日、テニス部は県大会の練習もあり、遅くまでテニスコートの明かりがともされていた。試合前ともあって、他の運動部も夕方というのにまだ煌々と明かりがついていて、勤しんでいるようだ。私と真理は、それを横目に下校することにした。
「そういえば、頼子は進路決めたの?」
「えっ?」
私は不意を突かれた質問にたじろいだ。
「いや、私たちもそろそろ決めないとヤバいじゃん?」
「確かにね、でも真理みたいに絵が上手なわけでもないし、もうピアノ教室では指の長さが足りないからプロは諦めたほうがいいとも言われたし」
という。
「じゃあ、本の編集者とか良いんじゃない?頼子、本好きだしさ」
「編集者?」
「そうそう、本を作る人、私も良くは分かってないけど、作家が書いた本を売り出す人?」
「そんな職業あるんだ」
「うん、一回調べてみたら?確かに文系は苦手だって言ってたけど、もしかしたら得意かもしれないじゃん!」
と真理に言われ、早速家に帰り編集者について調べてみた。
「楽しそう……でも倍率は高いみたい」
と私は独り言を話していると、職業の欄には理工系もあり私は大いに迷ったが、理工系の学部に的を絞ることにした。
 夏休みに入る三者面談。私と母は暑い学校の廊下で順番を待っていた。むっしりと湿度を保ったままの廊下で、母は手持ちの扇子をパタパタと仰いでいた。ほどなくして教室のドアが開き、私の番が来た。先生も何人もの生徒と親を相手にしていて疲れ果てていた。赤点もなく平均的な成績の私を前に成績表と内申書などを手に挨拶をする。さっきまで暑苦しそうな顔をしていた母は先生を前にすると態度を変えて、いつもより2トーンぐらい高い声で挨拶をした。
「娘さんの進路ですが、どうお考えですか?」
「娘には好きなことをと思ってはいますが、何せ成績が真ん中のようなのでいかがかと」
「そうですねぇ、娘さんは数学や理科、現代文や音楽は上位の成績なのですが、そのほかは平均的な点数ですので、少し偏りがあるようですね。だから一般入試に行くと不利になってしまうかもしれません」
「そうですか……」
「ほら、渡辺はどう考えてるんだ?この間の進路調査票には第一希望を理系、第二希望を文系にしているが」
「私もまだ悩んでいて、どちらに行ったらいいか」
「うむ……」
と先生も疲労と平均的な私の成績に苦戦しているようだった。
「お母さん、普通科の普通コースではあまり理系を選ぶ子はいなくて」
「はぁ……私も理系はさっぱりで」
と大人同士の話は続く。そして先生曰く、センター試験を受ける子も少ないようでほぼ推薦入試で終わるか、大学進学より短大や専門学校、就職する子が半分以上だという。
「ではみんな文系に行かれるんですね」
と母が質問をすると先生は深く頷いて、そもそも特進クラスの勉強内容も少し違い、もし理系に進みたいのであれば受験シーズンに入ると、特進と同じ勉強をしなければいけないため、もっと進路は慎重に考えたほうがいいと言いながら面談は終わった。車に乗り込むと母は私に語りかけた。
「理系に行きたいの?」
「いや……まぁ~検定も受けてたし」
「うん……文系も視野に入れて考えてみたら?あんたには妹もいるし、私立に行くのであればそれなりにお金がいるからね」
「もう少し考える。私も悩んでるんだ」
「うん、まぁ~手に職をつける意味で、専門学校でも良いとは思うんだけど」
と母はあまり大学への意識はないようだ。母も父も高校を卒業してから働いた口で、あまり大学に興味を持っているわけではないようだった。音大に行くともなると莫大なお金がかかるとピアノの先生から聞かされていたため、お金を蓄えてはいたようだが、その夢もなくなった。娘の成績を見て考えれば欲は言えなかったのであろう。家路につくと、父が仕事から帰ってきていた。
「お帰り、今日は三者面談だったから、晩御飯はまだできてないわ」
というと父はなんだ赤点でも取ったのかと心配をした。そうではなく進路のことだと説明すると父はどちらにせよ、自分で考えたほうがいいとあまり相談に乗る気もないようだった。その日の夜、母は三者面談で話したことを父に詳しく説明してくれたようだった。翌朝、久しぶりにゆっくり起きた私は朝食をとるためテーブルについた。すると父もテーブルにつき、私に話しかけてきた。
「理系に進みたいのか?」
「まぁ~それも視野に入れてるし、でも本も好きだから文系かなって」
「正直、自営業の家にあまり余裕はない。お前には妹もいるし、だからと言って夢を奪うのは親としていけないと思う。そこで条件を付ける」
と言って進学への条件を付けた。まず、大学進学に向けての勉強は自分の力で行うこと、予備校などに行かせると私学に行った時の余裕はなくなるからだという。そして大学のランクはK大学の偏差値60以上であれば家から出て一人暮らしを認めるが、それより下だった場合は家から通えるところにする。そして絶対に浪人、留年は許さないという条件だった。一見、不条理な条件だが、私の中では父が言っていることもよく分かる。だから、その条件は了解した。
「厳しいかもしれないが、お前への試練だ」
「うん、分かった。それを踏まえて考えてみる」
と言うと父は微笑んで参考書代は母からもらうようにと言ってくれた。父なりに予備校に通わせられない分、参考書代は出してやろうという親心だった。私はお礼を言って部活に行く準備をした。今日から夏休み。明日は三好のテニス部の試合の日だったが、私もまた美術部の展示会に行くことになっている。今日は学校とは逆方向に向かう電車に乗る。二両編成しかない電車の二人掛けに運良く乗れた真理がこちらに手を振った。
「おはよう!やっぱり夏休みはすいてるね!」
「おはよう、本当にがら空きだよ」
と言いながらタオルで汗をぬぐう。駅から展示会場までは徒歩で十分ほどだったが、学校よりは町のほうだったので、商店街が広がっていた。そして昔は城下町としても有名だったので町のシンボルでもあるお城が近くに見える。
「頼子、多分、あのお城の下の学校でテニスの県大会やってると思うよ」
「ほう、どうして知ってんの?」
今年、同じ高校に入学した真理の弟がテニス部に入部したそうで、大会が行われる場所を教えてくれたらしい。
「明日、昼休みに覗いてみようよ!」
「いや、いいよ。当番もあるし」
「何照れてんだよ!」
と肩を叩いて笑った。真理と私はいつも変わらない青春を楽しんでいた。
 次の日も同じ展示会場で今度は案内役ではなく受付に座ることになっていた。
「外、暑そうだね」
「うん、なんか三十度越えらしいよ」
「いやぁ~外は死んじゃいそうだよね」
とやけに外のことを真理が言ってくる。休憩に行くようにと先生から言われた私たちは席を立った。
「ほら、行くよ!」
「どこへ?」
「テニスの試合に決まってるでしょ!」
と言って真理は私の手を思いっきり手を引いた。言われるがまま真理に引っ張られていくと、試合はちょうど三好の番だった。
「ほら、三好先輩出てるじゃん!」
人だかりの間から試合の行方をみると、同点だった。そしてマッチポイントに差し掛かった時、私は思わず声を上げた。
「先輩!がんばれ」
するとサーブを打とうとした三好はこちらを振り返った。まずいとは思ったが手を振った。すると微笑んで試合に臨んだ。すると一気に点数を稼いで三好は勝った。私は思わず手を挙げて真理と抱き合った。残念ながら私たちの高校は団体戦敗退に終わったが、三好の有志が見られたことが私にとっては幸せなことだった。時計を見るとお昼休憩はとうに終わっていて慌てて展示会場に戻った。
「ごめんなさい! 先生」
と横田先生に謝ると半分眠っていたのか、遅いぞと言いつつもあまり怒ってはいなかった。先生と交代をして受付に座っているが、誰も来ない。
「試合、見られて良かったね」
「ありがとう。真理のおかげだよ」
「良いってことよ!」
と二人ははしゃいでいた。展示会も終わり、片づけをしようとしたときだった。
「あれ?君は確か」
と受付のほうから先生の声が聞こえた。私たちは気になって走っていくと、試合終わりの三好が立っていた。
「今日はありがとう。身に来てくれて」
「良いの。それより良いの?ここに来ていて」
「良いよ、もう終わったから」
とほほ笑んだ。すると後ろからまた慌てて走ってくる奇抜な服を着た男性が走ってきた。
「真理、ごめん」
「くにちゃん!」
真理と付き合っているくにちゃんだった。大学の講義がやっと終わって駆け付けたらしい。私たちは急いで片づけを済ませてお互い、待つ人のところへ向かった。
「今日は初顔合わせみたいになったね」
「本当にね、まぁ~くにちゃんは、写真で知ってたからさ。でも奇抜になったね」
「本当だよ、美大ってあんな感じなのかね?」
「そうかもね」
と真理と私は笑って見せた。二人の下へ駆け寄るとペコっとくにちゃんは頭を下げた。
「初めまして、真理の友達の頼子です」
「初めまして、真理の彼氏の井上邦彦です」
「ごめん、頼子にはくにちゃんで通してる」
「すみません、先輩だけどくにちゃんって言ってました」
というとくにちゃんはへらへらと笑って許してくれた。
「俺もくにちゃんのほうがいいや」
と言って笑っていた。固そうな名前の割りにくにちゃんは物腰が柔らかい人で、真理の尻にひかれているタイプだった。真理とくにちゃんは映画を見て帰ると言って私たちに手を振った。私は待たせていた三好の元へ行くと、本を読んでいた。
「ごめんね、お待たせしました」
「全然、構わないよ。ゆっくり勉強できたし」
「良かった、本当に感動したの。三好先輩が勝ったとき思いっきり喜んだの」
「ありがとう。あの時ちょっと弱気になってたんだ。だからあの応援は本当に嬉しかった」
いつも平常心のような三好も落ち込んだり緊張したりすることがあるようで、また新しい三好の性格を知ることが出来たような気がした。
 夏休みも中盤に差し掛かり、私と真理は美術室に行って勉強をしたり、三好も一緒に勉強したりしていた。ある日の夏休み、三好は一日中受験対策の授業があると言って会えない日が続いていた。私も勉強を兼ねて図書室の管理室で安田先生に勉強を教えてもらって帰る途中、三好の母が車で通りかかる。
「あら、頼子ちゃん、一人なの?」
「こんにちは、そうなんです。今日は先輩も受験対策の授業を一日中受けてるはずなので、私は図書館で宿題やってました」
「どう?今からちょっとお茶でも」
と言って私は二つ返事で車に乗り込んだ。三好のお母さんと私はひょっとすると三好よりも話をしているんじゃないかぐらい仲良くなっていた。三好の母は高校の近くの病院に看護師として勤務していた。お父さんは亡くなっているため、親一人子一人の二人暮らしだった。山の上にひっそりとある隠れ家のようなカフェに着くと車から降りる。
「ここね、患者さんから教えてもらったんだけど、なかなかこれなくてさ」
「そうなんですね。素敵なところですね」
「うん、頼子ちゃんと一緒に来たかったんだ」
というお母さんに微笑みかけてお礼を言った。店内も優しい音楽に包まれていて、こぼれ日が暖かさを倍増させていた。私とお母さんはホットのカフェオレとお店一押しのオリジナルチーズケーキを頼んだ。カフェオレボールに並々と注がれたカフェオレの香りはミルクの香りと相俟っていた。そして二人でチーズケーキを頬張る。
「うー美味しい!」
と二人は仲良く笑った。カフェオレを口にして一息ついたところでお母さんが話し出した。
「頼子ちゃん、最近、忠明とはどう?」
「どうって……仲良くさせていただいて、勉強も教えてもらっているし」
とありきたりな毎日を語った。するとお母さんはぼんやりと外を見つめた。
「最近、あの子、本当に父親に似てきてね」
と話す。三好の父親は優秀な人だったようだ。ずっと大阪の医大に居て、その准教授をしていたそうだ。そこでお母さんと出会い結婚したことをきっかけに父方の実家の病院を継いだそうだ。順風満帆に見えたその暮らしも三好が生まれて中学に上がるころ、家系でもあったガンで病に伏せたそうだ。
「そこからは早かったわ。若いって言うのもあって三ヶ月も持たなかった」
と少し寂しそうに語った。
「そうですか……」
と言って何も言えなくなっていると、母はそんな私を見て、ごめんなさいね、こんな話しちゃってと言って微笑みかけた。
「いえ、先輩は何もおっしゃらないから、聞けて良かったです」
「なんだか頼子ちゃんと忠明を見ていると、私たち夫婦によく似てる気がしてね」
と笑った。私は照れくさそうに下を俯く。最後の一口になったケーキとカフェオレを口に含んで二人は手を合わせて店を出た。
「そうだ、頼子ちゃんは進路のこと、決めたの?」
「私は、とりあえず理数系に進もうかと思っています」
「そう、じゃあ忠明と同じね」
「いえ、お医者とかではなく、電子工学科かなと」
「そう、でも同じ研究者としては話が通ずるものもあるんじゃない?」
「でもなれるかどうかは分かりませんし、まだはっきりと明確にはなってないんです」
「うん、そうね。私もそうだったもの。ゆっくり悩んでも良いんじゃないかしら」
と言ってくれた。私は三好のお母さんを第二の母のように思っていた。自分の母親に相談できないことも相談するようになっていたのだ。お母さんは、三好には内緒ねと言って私の最寄りの駅まで送って車の窓から手を振った。私も手を振り返して家路についた。
 夏休みも明けて、一層、三年生は追い込みがかかってきた。三好のいる特進クラスは授業も増え、受験生のあるべき姿のように皆が皆勉強を始めたのである。普通コースはというと、もう推薦で決まってしまった人間もいれば、まだ決まっていない人間もいて、少し微妙な空気が流れていた。就職は基本的に田舎のことなのでよっぽど素行が悪くなければどこかしらはある。だんだんと三好にも会えなくなってきたが、部活も引退した三好は頻繁に図書室にくることもあり、そこで少しの間は一緒に居ることが出来たが、その間も三好は参考書を開いてひたすら勉強をしていた。目指すはT大学理科三類だったようだ。そして冬が来て、ほとんどの学生が推薦入試で決まっていく中、推薦入試のない難関校狙いの学生のみが集められて決起集会が行われた。田舎ではよくあることだが、なかなか難関校へ行く学生は多くなく、ましてやT大学を目指す子などほとんどいない学校では珍しいことというよりは名誉なことだった。言えば、名前の知れない一度も甲子園に行ったこともない弱小高校が初めて甲子園の土を踏むぐらい名誉なことなのだ。吹奏楽部の演奏が終わり、一人一人の決意表明をすることとなった。皆尤もらしいことをいう中で、注目の三好の番になった。私も三好が何を言うか気にはなっていたが、三好は大げさだよと言って笑っていた。
「僕の目標はこの大学なのですが、皆さんが思っている以上に僕のメンタルは弱いです。だから、あまり期待はしないでほしいです。僕は受験を精一杯楽しもうと思います」
と言って挨拶をした。何とも三好らしいコメントに私と真理は笑ってしまった。授業も終わり美術室に向かう。
「三好さんらしいよね」
「確かに!」
と真理と笑っていたら、後ろから安田先生が歩いてきた。
「笑ってる場合じゃないぞ。来年は渡辺も吉田も立っているかもしれないぞ」
「あれって偏差値の高い国公立とか私立とかに行く人だけでしょ?私たちは関係ないし」
「何言ってんだよ。お前が出してる美大も渡辺が出してる大学も偏差値は高いほうだぞ」
と言って悠長に構えている私たちの肩を叩いた。そう考えると自分が行こうとしている大学は関西でも有数の学校で、私としてもハードルが高いと思っていた。
「頼子、進路決めたの?」
と真理が聞いたことがきっかけで、まだ真理に行っていたなかったことに気づいた。
「ごめん、そういえば伝えてなかったね」
「そうだよ!」
「いや、東京のM大学、京都のD大学か大阪のK大学、もしくは滑り止めに神戸のK大学にしようかなと思ってる」
というというと真理は難しい顔をした。
「結構難関校だよね。私立は私立でも」
「うん……そうだよね。でも真理が目指してる美大も相当」
「うん……そうなんだよなぁ~。二人とも残りそうだよね。センターまで」
と言って二人とも少し落ち込んだ。
 季節は移り行くのが早い。冬休みが来てもセンター試験が近いため、三好とは会うことも出来ないぐらい、教室に缶詰めになっていた。私はせめて三好の役に立ちたいと、年末に真理とカウントダウンライブに行った感想を言い合う会のあとに初詣に行くことにした。その時に必勝祈願の御守りを買うことにした。
「御守りか……三好先輩のことだから、大丈夫だと思うけど」
「まぁ~滑り止めも私たちより、はるか偏差値の高いところを選んでるし、二校しか選んでないから」
「うん、じゃあこれを私に行くわけね」
と真理は私の手を握る。
「大丈夫だって!三好先輩のことだし、受かるよ!絶対」
と励ましてくれた。私は深く頷いて真理を見る。帰り道、二人でフルーツ飴を買って、神社から少し離れた空き地のベンチに腰を掛けた。私は真理が以前に言っていたことを思い出して空を仰いだ。
「真理、前にね真理が言ってたことの意味がようやく分かったような気がするよ」
「前、言ってたこと?」
もう真理は覚えていないようだった。
「真理とくにちゃんが出会って少ししたとき、くにちゃんが受験を受けたでしょう?その時、くにちゃんが東京に行ってしまうって少ししょげてたじゃない」
「あぁ~!そんなこともあったね」
「私もその気持ち、ちょっと分かったかもしれない」
「そういうことか。でもさ、結局なるようにしかならないじゃない」
「うん、だからきっと真理はくにちゃんが京都に行っても、東京に行っても好きだったんじゃないかって思うの」
というと真理はぎゅっと私を抱き寄せた。
「頼子もそういう気持ちになったか! 大丈夫だよ」
と言って真理は私の肩を撫でる。
 冬休みも明けて、寝ぼけている最中の実力テストは正直きつく、みんなの平均点が下がる。私と真理も例外ではなく、得意教科以外は少し下がっていた。二年生最後のテストがこのありさまでは、到底希望校には行けない気がしていた。
 そしてテストも終わり、三好に久しぶりに連絡を取り、待ち合わせをすることにした。もちろん場所は、図書室だ。次の日にはセンター試験を控える三好を呼び出すのも忍びないが、たまに息抜きも必要だろうと思った。時間通り、図書室に現れた三好は、少し痩せたように思えた。
「お疲れさまです」
と声をかけると、いつものように微笑みかけて返事をした。
「ごめんね、センター試験前に呼び出して」
「いいや、少しの息抜きは必要だったし、良かったよ。それよりごめん。ずっと会いに来れなくて」
という。私は大きく首を横に振り微笑んだ。
「ううん、全然大丈夫」
と言った。そしてこれ……と言って御守りを手渡した。三好は受け取ると私を抱きしめた。
「本当は怖くて堪らなかった」
私はしばらく身動きが取れなかった。三好は今まで手もつないでこなかったし、一緒に歩く時も一定の距離を取ってくれていた。そんな三好が今日に限って感情を取り乱していた。
「受験、大変なんだね」
と言って私は自分を落ち着かせるために、三好の腕を掴んだ。
「いや、少し迷いが出ただけだよ」
「迷い?」
「今、志望校を東京と京都にしている。だけど、第一希望はT大学なんだ。そうすると君は東京には来てくれるのかとか」
と自分と同じことで悩んでいたことに気づいた。だが、三好の人生なのに、私がネックで諦めるなんてことになれば、私は一生後悔すると思った。
「待って!私のことなんて今はどうでもいいことなんだよ?今は自分のことだけ考えていればいい」
と言って叱咤激励の気持ちで言った。するとふふと笑った。
「そういうと思ったんだ。その言葉を聞きたかった。僕はきっと甘えてたんだ。これで元気も出たし、勉強もラストスパートをかけられそうだ」
と笑いながら言う三好に拍子抜けしてしまった。その帰り道、三好は勉強がこんなにもつらいと思ったことは一度もないと語っていた。自分も来年はそうなるのかと思うと、私はゾッとした。センター試験は無事に終わり、周りもホッとしたのも束の間で、卒業式が始まり、周りは浮かれているが、センター試験を受けた者たちには、まだ二次試験が待ち構えているため、進路が決まっている者たちと諸手を挙げて喜べないのも事実だ。
 卒業式当日、私は浮かないかをしていた。もちろん、三好と離れてしまうことが一番辛いことだったが、自分も同じような卒業式を迎えてしまうのだろうかと不安になった。卒業式は無事終わり、私はそのまま図書室の管理室に向かった。安田先生は生徒や保護者の整備などでまだ来ていない。一人の管理室は空気が澄んでいた。すると先生の煙草が机の上に転がっていた。私はぼんやりと手にするとマッチに火をつけ、口に咥えようとしたその時、横から煙草を奪い取る手が延ばされた。私はハッとしてみると、安田先生が奪った煙草を吸いながら立っていた。
「ふう、一仕事終えた後の煙草はうまいな」
と何事もなかったように笑って見せた。
「先生……私」
と泣きそうな顔になった。
「昔、三好もそんなことがあったな」
と笑った。私は驚いた。冷静な三好が煙草を吸おうとしたなんて。
「三好先輩が?」
「あぁ、三好も落ち込むことぐらいはあるよ」
と言っているとやめてくださいよ……と照れながら管理室に入ってきた。
「おぉ、三好!卒業おめでとう」
という。私も微笑みかけた。
「ありがとうございます。三年間、大変お世話になりました」
と頭を下げて先生と握手を交わした。すると校内放送で安田先生を呼び出す声が流れた。安田先生はため息交じりに手を挙げて去っていった。
「煙草の話でしょ?」
と三好は私を見た。
「うん、そう」
と笑った。
「実はね、僕は頼ちゃんを好きになりだした頃、頼ちゃんがどうも素っ気なくて、きっと告白をしても叶わないだろうと思って、落ち込んでいたんだ。その時に、父親から二十歳になったら吸いなさいと言って渡されてた煙草を吸おうとして安田先生に見つかったわけ」
「それで、火をつけちゃったの?」
と心配そうに聞くと、三好は大きく横に首を振った。それが怖くて据えなかったそうだ。先生に止められたことを今でも感謝しているという。私はホッと安心した。卒業式には三好の母も来ていた。
「頼子ちゃん!一緒にご飯でも食べて帰りましょう」
と管理室の窓の真下から大きな声で叫ぶ。私たちは微笑みながら管理室を出た。
 三好はその後、学校に来て勉強をして二次試験に向かった。東京に行くときは、駅まで見送りに行った。
「結果はまた連絡するよ。結果が出るまでは帰ることが出来なくて」
「そうか、でも無理はしないように」
と言って微笑んで送った。私は複雑な気持ちになった。
 それからの毎日は前と変わらず、変わったことと言えば、進学コースと同じ勉強をしたり、真理は美術の塾が増えたことだった。いつものように図書室の管理室で宿題をしていると携帯電話が鳴った。慌てて先生に見つからないところまで走り、電話に出た。
「もしもし?」
電話は三好からだった。
「T大学、受かったよ」
といつもの落ち着いた声だった。私は自分のことのように嬉しくて手を挙げて喜んだ。
「おめでとう!本当に良かった」
と少し泣いていた。
「うん、頼ちゃんのおかげだよ。嬉しくて親より先に電話をしちゃった!まだ学校にいたんじゃない?」
と学校を心配する三好の話を振り切り、
「そんなこと、どうでもいい!三好先輩、おめでとうございます」
「ありがとう、本当にありがとう!戻ったら会いたい」
という三好に二つ返事をして電話を切った。私は嬉しくて堪らず、校内に急いで戻って美術室にいる真理のところへ向かった。
「真理!三好先輩、受かったって!」
「マジ!」
と座って絵を描いていた真理は筆をおいて私に飛びついた。
「おめでとう!T大学?」
「うん、京都大学にも受かったみたい!」
「マジか!おめでとう。本当にヤバいね!私たちの高校からT大学生出たー!」
と二人で喜んでいた。すると他の先生たちにも連絡が入ったのか、職員室では大きな歓喜が沸き起こっていた。
「マジで、本当に良かった……」
と三好の担任は泣いていた。私たちは微笑みながら談笑していると、安田先生が美術室に入ってきた。
「渡辺、三好が」
という前に受かったんでしょ!と言うと知ってたのかと笑った。この日ばかりは皆に笑顔が戻った。正直、難関校に行くだけでも立派で名誉なことなのに、T大学に行くということは学校としては本当に名誉なことで、学校の人気も上がり、生徒を呼ぶことが出来る。そういう根端も分かってはいたが、私はそれよりも三好が自分の夢を叶えたことが嬉しかった。その夜のことはよく覚えている。家に帰るなり、母に三好の話を初めてした。
「お母さん、私、黙ってたんだけど付き合ってる人がいて、その人がT大学理科三類っていうお医者になる学部に受かったんだって」
というと母は最初、驚きで声を上げられなかったようだったが、深呼吸をして話し始めた。
「へえ、私の知らないところでね、頼子も大人になったんだわ」
と微笑んでくれた。何となく母とは最近上手くいっていないような気がしていたが、母は分かってくれていたようだった。だが、心配なこともあったようだった。
「でも、浩太君、あんたのこと心配してたわよ。ちゃんと言ってあげなきゃ」
「浩太は良いんだって」
と簡単にあしらう。浩太のことはきっと部活ばかりで女と遊べず、寂しくなって私に言い寄ってきたんだと思った。私が浩太を遠ざけるようになった原因は別にあった。私も昔から浩太のことを遠ざけていたわけじゃない。保育園も小学校も中学校も地元も同じで、それでいて、家も近く親も仲が良いとなれば、どこぞかの少女漫画では結ばれる運命なのである。どちらかがいしきしはじめてなんてことはざらだ。だが、浩太と私が小学校四年生を迎えたころ、親の仕事の都合で転校してきた黒川智也という子がいた。彼は東京から転校してきたため、制服ではなく私服で登校していたし、みんなが持っているランドセルの形とは違う形のものを持っていた。髪型も田舎にはあまりいない襟足まである感じが特徴的だったのをよく覚えている。その子はか細く、大人しい感じで一目見て女の子なのか男の子なのか見分けがつかない風貌だった。彼は父方の祖母の家に身を寄せており、昔から私の祖母と彼の祖母は仲が良かった。だからと言っては何だが、仲良くするようにと再三言われた。それからは休みの日になると、祖母と一緒に家に行ったりしていた。その頃からだった。浩太は黒川君のことをからかいだしたのは。からかっているのかいじめているのかの境界線をうまくかいくぐっていたように思う。でも黒川君は文句ひとつ言わず学校に来ていた。真面目で私は憎めない子だと思っていたし、祖母の言うことを聞く良い子だと思っていた。それに頭も良かったように思う。黒川君は英語が話せるのだと知った時、私は大いにほめてしまった。だが、黒川君は絶対に周りの子には言わないで、と私を静止した。あの時のことを考えるとあのいじめにも値する行為は相当、彼を苦しめていたのだろう。父の仕事の都合だと言って、六年生の時にまた引っ越していった。私はあの時から浩太とは距離を置くようになっていった。
 二月半ばになり、三好が帰ってきた。三好と三好のお母さんと私で細やかながら合格パーティーを開くことになった。私は家で焼いたチーズケーキを持って三好家に行った。
「久しぶり!」
と言って三好は明るく出迎えてくれた。私は居ても立ってもいられずに腕を掴んだ。
「お帰りなさい」
と精一杯の笑顔で言うと三好は私を抱き寄せた。
「はぁ、ようやく終わったよ」
と言って微笑む。その微笑みは前に増して優しかった。すると奥のほうから上がってもらって!と明るいお母さんの声がする。私を引き上げてリビングに連れてきた。するとお母さんの手作りだろうか、サンドイッチや唐揚げなどが用意されていた。すると
「さぁ、上がって上がって! 今日はお祝いなんだからね」
と言いながら大きな鍋を小走りで持ってくる。
「今日はありがとうございます。何か手伝えることはありますか?」
とお母さんに聞くと、微笑みながら良いから、座ってなさいと言ってくれた。私は自分が持ってきたケーキを手渡すとお礼を言って座る。
「ケーキ、本当にありがとうね、あとでみんなで食べましょう!」
と言って冷蔵庫にしまった。そして改めて席に座る。私と忠明はジュース、お母さんはビールを二つのグラスに入れて一つは仏壇にある忠明のお父さんの横に、もう一つのグラスは自分が持った。
「では、忠明、東京大学、合格、そして高校卒業、おめでとうございます!よく頑張りました。カンパーイ!」
と言ってみんなで乾杯をした。三人は笑顔でグラスを重ねた。おめでとうございますと私は改めて伝えると
「ありがとう、この御守りのおかげだよ」
と言って御守りだしてきた。
「そうそう、お母さん、何も買ってあげられなかったから、本当に頼ちゃんのお守りのおかげね」
と言って微笑む。
「いえいえ、三好先輩の実力ですよ」
と私は謙遜した。そして東京大学に行ったのちはどうするかなどの話は尽きることはなかった。お母さんが作った鍋も料理もとても美味しく、多少食べ物に好き嫌いのあった私でもたくさん食べることが出来た。そして昼食も終わり、片づけをお母さんと一緒にして紅茶を入れ、持ってきたケーキを切った。
「本当に時が過ぎるのって早いわね」
とお母さんは言う。確かにそうだ。私も三好と出会った頃にこんなに仲良くなり、恋人になるとは思ってもみなかったし、これからもこの関係が長く続けばいいのにと思うようになるなんて思ってもみなかった。頷きながら、私はそっと紅茶とケーキを三好の元へ運んだ。三好は外がとても晴れていていて気持ちがいい日だったからか、縁側に座って猫を抱いていた。
「お、ありがとう」
と言って受け取るとぼんやりと空を見た。
「良く晴れてるね」
「うん、そうだね」
「こうやってしていると、気持ちが落ち着く」
と猫を撫でた。きっと東京と言うこことは比べ物にならないほどの都会に行くことが不安なのだろうと思った。
「都会もいいけど、ここの景色、最高なんだよね。だから僕は父のようにいづれはこっちに帰ってきて、開業したいと思ってる。過疎化も深刻だし、母を一人にはしていられない」
と穏やかに話す。
「こっちに戻るのは、何十年も先になるだろうけれど、父が出来なかったことを僕がしたいと思っているんだ」
と猫を見つめながら私に言い、こちらを微笑んで見つめた。私は頷くことしかできなかったが、私もその大きな夢を近くで見守ることが出来たら良いのにと心で思った。すると後ろからお母さんの声が聞こえる。振り返ると瞳を煌めかせて私に近づいてきた。
「このケーキ、とても美味しい!どうやって作るか今度教えてくれない?」
私と三好は顔を見つめあって笑った。
 二週間後、三好は東京に向かった。三好は成績優秀者として学費も免除してもらい、住まいは寮を与えてもらっていたし、お父さんを早くに亡くしているため、奨学金が無利子で提供されることになり、日々の生活に困ることはなかった。少なからず、お母さんが看護師と言うこともあり、留学などの工面は出来ると伝えられていたが、後々聞いた話によると、アルバイトをして留学のお金は工面したらしい。私は春休みに差し掛かっていたため見送りに行くことが出来た。改札前は別れを偲ぶ人たちであふれていた。
「三好先輩、本当にありがとうございました。私、先輩がいなかったら、成績を伸ばすこともできなかったし、きっと志望校にあんな偏差値の高い大学を希望したりしなかったわ」
「そんなことないさ、頼ちゃんは頑張ったし、これからもきっと君は大丈夫。この関係はいつまでも続くだろうしね。これからもよろしく」
「こちらには定期的に?」
「うん、冬休みや夏休みは長いらしいから帰られるときは連絡を必ずするよ。多分、連絡は頻繁にすると思う」
「うん……体には気をつけてね。あまり無理しないで」
と泣きそうになる私の肩を抱いた。
「君を好きになったこと、本当に良かった。これからもずっと好きだよ」
と言って私の唇にキスをした。私はハッと目を見開いて心臓の鼓動が止まらなくなった。ほんの一瞬の出来事だったのに、長い間のことのように思えた。
「私も、ずっとずっと好き!」
と言うと三好は私を抱きしめて、何か困ったことがあってもなくても必ず連絡を下さいと言って新幹線に乗り込んだ。私は涙が止まらなかったが、三好を精一杯の笑顔で送ろうと決めていた。

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