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自分で決めて自分で撮る

なんで自分は写真を撮るのだろう、なんで楽しいのだろう
そういうことを、ふと考えることってよくあると思う

いま考えていること、気づいたこと、定期的に言語化しておきたい
写真を撮るということについて


考えた時には、その時々それなりの答えらしいものを
見つけたり、出てきたり、それを掴んで納得できたり、いまいち掴みきれていないような、隙間からこぼれていたり、芯の部分では捉えているような気がするんだけど、それは実態ではないんじゃないかという疑心だったり、それでもけっきょく楽しいことには変わらないんだけど
より鮮明に、解像度上げていきたいし、造形深く知識を持ってにじみ出る表現をしたいなって思うわけだし

つまりはこんなかんじで、毎回まとまりはしない、けっきょくのところ

漠然、とまではいかないんけど、いまいち捉えきれないモヤモヤとした感覚は付き纏い続けている


自分は何者になりたいのか、とか、そんなチープな表現でしか形容できないもどかしさを感じつつも、まさにその状態の解が出せない日々を送っている
きっと、そういう人は少なくはない、と思いたい

そんな中で、前からたまに見てたYouTubeでカメラのこと発信している人の動画で
けっこう自分の中でこれかもって思えた写真を撮ることが好きな理由
自分なりに咀嚼した結果、これがすべてってわけではなくて、多面的にある自分の感覚のひとつの側面に当てはまるなって感じなんだけど



自分で決めて能動的に行動したっていうことの価値に
尊さを感じているんだなと
束縛がなにもない中でそれを自由に実現できること
普段写真を撮ることが、しかも、誰のためではないっていうところも

能動的に行動しているけど、それは誰かのためにやっているわけでもなく、自由でしかない


普段の仕事では考えられない動機とモチベーションが、ある意味新鮮であったり
仕事の場合だと、いまの会社の環境的な問題もあるけど
能動的に行動したとて評価はされないし、動いた人が負けるみたいな風潮があるし、それでいて、そうしたことによって責任は発生するからね

そういったなかで消極的に、あるいは、見て見ぬふりや気づかぬふりをしていく習慣が染み付いて行ってしまって、結果、自信もなくなっていくって連鎖の中で
自分は主体的に行動することができない側の人間なんだな、とまでラベルを貼ってしまいそうな状況すら考えたけど

写真を撮ることで、それを払拭しているっていうことに気づけた、だから楽しいんだ
自分は、自分で決めて、自分の意志で行動して、成果物を生み出しているんだって
能動的に行動することができないってわけじゃないことを
自分自身で証明することができていたんだって


他人に見てもらうってこともできるし、自分の中だけで完結することもできる
その選択すらも自分ができる
その選択は周りを巻き込んでまでの責任は発生しない

よく撮れたなって思う写真は、たくさん見てもらいたいって当然のように思うし
それの反応がよかったらとびっきりに嬉しいし
特に最近では、言葉も添えずに淡々と写真をあげているだけだけど
それに対して反応がもらえるのって、普通に働いて生きてるだけじゃ感じることができない肯定のされ方かなって思う


こういった思いも言葉にするのは、恥ずかしい、というか、おこがましい
なんなら斜に構えるスタンスの自分がどっかにいて、きっしょいのう、なんて、嘲笑う目が内側だけならまだしも、外からも向けられたら、とか、ふつうに考える


けど、大切に磨いていくには、好きを磨いていくには
向き合って、整理して、言葉にして、って
一番貴重な時間だって気づいたから、こういうことしてる
こういうことをしながら、写真を撮る、繰り返し、楽しい

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