卓球歴振り返り
世界選手権とかオリンピックとか、卓球の大きな大会があるとSNS等で好き勝手な事言ってますが、一応まるで素人ではないという言い訳を。(長いです~m(_ _)m)
卓球始めたのは小学校の5年生ぐらい、と言っても近所の児童館に卓球台があったので放課後とかに遊んでた程度。当時結構周りでは流行ってたんで中学入学時に卓球部に入ったのが正式には自分の競技のし始めです。
小学校時代はペンを使ってましたが、中学にあがると皆シェイクになるもんだとなぜか勘違いをしていて入部時に用意していったラケットはシェイク(ラバーが貼ってあるもの)。が、周りを見たら普通にペンが多く、というかほぼ皆ペンの状況で、またまたシェイクはカットマンという勘違いをしてしまいカットマンになりました。
通っていた草加市立谷塚中学校卓球部はお世辞にも強いとは言えず、カットマンにはなったけれども指導してくれる人もおらずカット打ちが出来る人もほぼ皆無の中、卓球レポートの記事見て勉強し黒板使った壁打ちである程度の感覚を得ていました。ですが自分らの代になると皆そこそこレベルアップしていって市の大会レベルだと少しは上の方に行けるようにもなり普段の練習もかなりかっこつくように。
自分は当時「裏裏」でしたが、ラバー買いに行ったスポーツ用品店で「フェイント」を勧められ、わけもわからず使い始めたら当時は使っている人が周りにほぼ皆無だったのでかなり勝てるようになり、代が変わった最初の大会、市の新人戦では個人戦で優勝、団体戦で準優勝を飾りました。
※自慢1 その時の大会は自分は全勝。で、卓球競技での個人の優勝は谷塚中学校開校以来初だった模様
その後はあまりぱっとした成績はおさめられずにいましたが(東部地区でベスト8程度)まあそこそこ出来る自信はあったので、埼玉県立越ヶ谷高校入学時には迷わず卓球部に入部しまして。
越高卓球部はこちらもさほど強い部類には入ってはいませんでしたが、中学時代と比べると部活の練習の質量ともに比べ物にならないぐらいきつく、あわせて先輩後輩もまーー色々と大変で入部当初はかなりつらかったです。それも時間とともに何とか慣れては来ましたが、基本1年生は部活の時間は球拾いのみなので朝練(自由)が唯一打てる時間だったので毎朝5時半起きで学校に行き、小1時間ほど練習する毎日でした。
3年生が引退すると2年生が主になりますが、試合するとこちらが勝つことの方が多く1年の間ではとりあえずほぼ負け知らずでしたので必然的に自分がエースになりました。とはいっても大変いい先輩達ばかりでしたから先輩後輩の間はちゃんとはしてましたので。ちなみに1年の後半からラバーはフェイントやめてアンチにし、完全に変化で勝つ戦型へ移行していた時期です。
(余談 当時はラバーの色は表裏同色で良かったので変化で点取る戦型は多かったです)
当時の越校では試合に出るメンバーは学年関係なく実力主義でしたので(中学時代は学年優先)団体戦は1年生も数人いる状況で東部地区大会にのぞみ、一応自身卒業するまで全て団体戦は県大会には行けてました。が、実は個人では一度も行けずじまいで。。
県大会には行けてはいましたが、他の地区のレベルが東部と比べて数段高い事もありまるで勝てはしませんでした。その後は新1年生たちのレベルがかなり高かった事もあって若干レベルアップでき、先輩が引退し自分らの代の最初の県大会では団体でベスト8に入る快挙達成。
※自慢2 この大会は自分は全勝で準々決勝でも相手のダブルエースの1枚を撃破。自分の卓球人生で一番調子良かったのがこの大会でした。
ちなみに、結果を先輩に報告したら「〇〇つぶしてなんで負けたんだ?」と言われまして。ほんとオーダーもっとちゃんと考えたら勝てたかも、な試合でほんのちょっと悔いが残ってます。
県ベスト8後の高校時代最後の東部地区大会は県の成績が反映されたトーナメントだったのでくじ引きせず越高は第2シードに。したらばなんと練習試合でも1度も勝った事がない越谷北高校が1回戦の相手になってしまいまして。
こちらの高校はダブルスで関東予選まで行ったペアがおり普通にいけばシードなのに前回の大会でやらかしてたせいで今回ノーシードとなってました。
なにせ負けたらそこで高校時代の試合は終了、なんでまたよりによって1回戦で当たらなきゃならないのと、ほぼ絶望感しかない気持ちで大会にのぞんだんですが、ま~~奇跡的に1回戦は突破(1、2番取られてからの逆転)あれよあれよで同じく練習試合では勝ったことない相手に準々決勝、準決勝と勝ってしまい決勝では完全に力負け(鷲宮高校)でしたが準優勝を勝ち取りました。この大会は自身の卓球人生で一番嬉しかったです。
※自慢3 この当時の顧問の先生は卓球はどちらかと言えば素人。なもんで前日も呼び出されて「浅井、明日のオーダーどうする?」と聞かれるぐらいで。なもんでこの大会時のオーダーは全て自分が考えたんですが、1回戦は半分あたり半分外れでしたが、準々決勝準決勝と大当たりでこれ以外だったら勝てなかったかも、でした。
そんなめちゃくちゃ(部活は)充実してた高校時代、結構上のOBの方が不定期で教えに来てくれていたのですが、自身の卒業時に「今度はお前が見ろな」となりまして、卒業後もコーチみたいな形で越高には月に何度か通ってました。(3、4年通った後体育館の改装で部活ができない時期ができ以降は自然消滅的に終了)
あわせて教えいただいてたOBの先輩も所属していた、越谷の大袋にある「TKOクラブ」にも無事いれていただき(当時は簡単には入れませんでした)ほぼ毎日練習、各種大会にも参加してました。
このTKOクラブには、自分が入った時にはまだ中学生だった「大野知子さん」がおりました。会長の娘さんなんですが、いわゆる全国レベルの子で、試合やってもまるで勝てないんですが、カットマンが他にいないという理由でカット打ちの練習相手に指名され、通常の一般の練習時間より少し早めに行き練習相手をつとめてました。が、自分のレベルが低すぎでほんと申し訳なく。。
この大野知子さんですが、福原愛さんがでてくる前は、全日本の最年少ランク入りの記録持ってたりとか、インターハイ2連覇とか、今の女子チームの渡辺監督とのペアで全日本の混合ダブルス3連覇とか、同じく混合で世界卓球出場とか、完全な全国区の選手で、となると必然的にかなり上のレベルの選手も練習にきたりとかがあり、特にジュニアレベルでは色んな選手と練習もさせてもらってます。自分のレベルは大した事ないなか、環境はものすごく良かったです。
余談 知子さんの旦那さんは、元ナショナルチームのコーチでもありTリーグ中継の解説でもおなじみの渡辺理貴さん。実は昔三郷のオープンの団体戦で一緒に出た事ありまして。
TKO時代の自身の卓球ですが、ルールが変わったのでラバーを裏裏に変え、変化では勝てなくなったのでオーソドックスなカット主体と比較的攻撃も多めの戦型でした。そこそこ勝てる事もありましたがやはり周りのレベルが上すぎてましてまるっきりの方が多く、そんな中でも越谷の大会ではベスト4ぐらいまでは行く事もあり、ダブルスでは準優勝は1回あります。
で、優勝経験者とかが出れない会長杯の2部でや っと優勝できましてはれて上位の仲間入りとなりましたが、実は今も引きずってる坐骨神経痛の悪化と(当時は立ってられないほどで)結婚を機にTKOをやめる事となりました。
高校時代、全日本選手権を見に行った帰りの信濃町の駅の券売機で切符買おうとしたら、その日の女子の決勝で惜しくも敗れた和田選手が隣で切符買ってたという状況を体験してる自分なので今の卓球競技の置かれてる状況はほんと夢のようです。
あーピンポンしたい。
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