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居場所の正体 続編

↑だいぶ前ですが、前回の居場所についての記事

友人が運営している居場所を5日間手伝ってきた。
コーヒーの焙煎をして、その売り上げで居場所の維持費を賄っているのだけど、
スタート当時いた子どもたちはもう大きくなり高校生に。

新しい子どもたちも出入りして、
子供だけではなく地域の方や小さい子のママさんもいたりする。

いいなぁゆるい感じが、と思って憧れて
私も自分のアトリエで居場所的な時間を作ってきたのだけれど
実はこのお手伝いに行く1ヶ月前くらいから、
自分の中で異変があって。


こちらの居場所とは全く無関係の話なのだけど、
自分の中の「居場所」の定義が揺るぎまくって、
「私にはそんな資格がない」と思い始めていたところだった。

それで、「しばらく、休もう」と決意して、
決意したから時間ができて、
5日間のお手伝いもできた。

5日間、こちらの居場所の人間模様を観察して
「ここは憧れる」「ここは違うんじゃないか」
「ここは私にはできない」などなど感情が揺さぶられることがたくさんあって
結論、「やっぱり自分には”みんなの居場所“はできない」ということに至った。

やっぱり、前回書いたように「まちかどアトリエNeiroは居場所もやってますよ」というスタンスではなく、利用する方が、勝手に「ここ(アトリエ)は私の居場所だ」と認定してくれる方が
私のやり方にあっていると思う。

「誰にでも、まちかどに、居場所があったらいいな」と思って始めたのは、
このモデルとなった居場所があるからなのだけど、
自分がそうなりますよ!というのは、私の性分からは無理だとはっきり自覚。

「自分自身のキャパが狭い」ということもありますが、
それに落ち込んだわけではなく、むしろただ、事実を認めた感じです。

「そうか、私には難しそうだ」

だからダメなんだ、という気落ちはありません。
私の分野ではなかったのだ、とただそれだけ。


自分なりの「居場所」のあり方、方向性がはっきりして、
5日間のお手伝いは、いい社会勉強になった。

何より、うちの長男も2日ほど手伝いに行き、
いろんな人間関係の刺激を受けて帰ってきた。
帰宅すると、よく喋る。
あ、そんなところも見てるんだ、と思うようなこともいう。

親の知らないところで、ちょっと大きくなってるんだな、と思うと
なんとなく、息子のことを信頼したいと思える。

居場所ってこういう安心感のことだと思う。
自分自身が直接その場に行っていなくても、
子どもを見てくれている人がいるという安心感

1人じゃないという希望


アトリエのことに思い当てはめると、
教室の子どもたちと遊ぶ私との関係性に
「うちの子を見てもらえている」という安心感を
保護者に与えたい。

つみきや造形の活動以上の関わりが
自分の「居場所」としての価値だと感じます。

安心して過ごせる、
心が十分満たされる教室になりたいと思いました。


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