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3日間泣き続けた後に

昨日新たな記事を書こうと思った際に、下書きに当時の私の心境が書かれたものを見つけた。
今とは考えていることも違う部分もあるが、当時の自分の記録として投稿したいと思った。(7月に書いたものらしい)

三浦春馬 という人間の死に関して、考えているようでどこか気持ちがふわふわとして結局何も考えられない。そして現実ではないのだ、と思うこと、いや現実だ、じゃあ死とは何なのか。生きるとは何なのか。こんなことをぼけっと思うこともあった。さらにいろんな情報が錯綜する中で、なんで今自死を選んだのだろうか。その原因、背景に何があったのだろうか。ニュースではここをすごく気にしていることに疑問を抱いた。確かに、突然の死にあまりにもびっくりして受け入れることはまだできていない。何があったのか、知りたい気持ちもある。しかし、好きだった(今も好き)だからこそそこを追求するのではなく、彼がこれまでにどんなことを成し遂げ、どのような考えのもと素敵な作品を生み出してきたのかをたくさんの人に知って欲しいと思った。

アミューズからの正式な発表が出た時に、彼は本当に亡くなってしまったのだと頭の中では理解ができた。ものすごく悲しくて、でもアミューズの彼がずっと事務所の宝だという言葉に救われた。茫然自失という言葉を見た時に、全くその通りなのだろう、ファンですら、こんな心境にずーっとそばで見守り、ともに闘ってきた仲間はどうやっても、理解はできないしもちろん考えをまとめるなんてできないだろうと思った。その中でも、ファンのことも考え温かなメッセージを出してくれたことに本当に救われた。
と同時にこんなにも温かい言葉が出てきたのは、まさに三浦春馬という人物の人柄なんだろうなとも思った。彼は本当に誰からも愛され、みんなから優しく、誠実で真面目と評されている。こんなにもファンが見ていた彼と、プライベートが同じ人がいるだろうか。それだけこの世界に真摯に全力で向き合っていたのだろうと考えざるを得ない。

今書いていても一つの出来事から考えはあちこちにいってしまい、到底書ききることもまとめることもできないし、きっと矛盾も生じてくる。今はそれでも自分の感じたこと、思ったことを書き留めておきたい。そんなふうに思った。いつか私がふと思い出してこれを読んだ時どう思うのだろう。恥ずかしいと思うだろうか?若かったと思うだろうか?それとも今でもこの考えは存在するのだろうか?でも今まとまらない様々な感情をとりあえず殴り書きにでもしておきたい。

どれから書こうか、どれも纏まってないが…

自死についても考えた。
今まで自殺はいけないことで、やってしまった人は可哀想だが、その人にも原因があったんじゃないか、なんて考えてしまっていた。しかし彼の行動でその考えは一変した。彼の仕事は今後もたくさん決まっていたし、一般的な視点で見れば仕事も順調、成功している。と言えただろう。
情報によると彼の母親との関係なども色々とあったとか出てくる。ここを追求する気もないが、もし本当であれば本当にどうにかならなかったのかと思ってしまう。そんなことを他人が口出すことではないとはわかっているし、それが原因でということもいう気はない。そんなことは本人にしか分からないのだから。


 でもこの情報が本当なのであれば、この親子関係という部分もどうにかしていかなければならない部分なのかもしれない。子役からだったからというのもあるかもしれないが、30にもなって親が子の金銭面などに口出ししたり、人生について決めようとするのは違うのではないか。そんな権利はないのではないか。これについては海外などなら、一人の個人として扱うというところがある分良いのだろうが、どうしても日本では昔から”家族”の成り立ちがそうでない分、難しい。
これは以前歴史で習ったが、西洋型家族と日本型だったか何かがあったなと今思い出した。この成り立ちの違いの中、world wideになってきたことで、日本型?かなんかの型だと対応しにくいのは色々とある。が、ここを考えていくことも必要なのかなと今回思ったのは事実だ。ここはまた詳しく今度考えるときの種になればと思い書き残しておく。

彼は3月に大型バイクの免許を取ったばかりであったらしいし、ブロードウェイも目指していたし、これからもやりたいこともいっぱいあっただろうと思う。だからこそ突然の自死には驚いたし、いろんな人が様々な憶測や意見を言ってしまうのもわかる。
だから矛盾はするが、なんらかの事故ではなく、自分の意思で考えた結果なのであれば、彼がしっかりと考え抜いた後に導き出した答えならばこちらもその彼の決定を受け止めなければならない。と考えもする。
もちろん自死は駄目だと思う。ただ一つ言いたいことは、何も知らない人が軽く批判するように"命"を軽く考えていたわけではないということだ。
彼は23歳の時にALSの患者を全身全霊で演じきった。自分から命についての題材を希望し、患者さんの気持ちなどを理解しようと彼なりに全力でやった末にできた作品である。その辺の医療ドラマとは違い、重みがあったし、それは視聴者にまで伝わってきた。それを伝えようとした、そして丁寧に細かい細かい部分まで拘って作ってきた人が、命について考えていなかったわけなどないのだ。その後も様々な作品で命について考えたり、たくさんの人の話を聞いて彼は彼の考えを醸成してきていただろう。そこら辺の人よりも、”命”について考え”生と死”に向き合ってきた人なのだ。(と思う)
私はただのファンだから、彼のことを知っているのかと言われれば知らない。でもきっとそうなのだ。彼と近しかった人も言っているのだから。そうでないとしても私はそう信じている。ただのエゴかもしれないが、私の目には彼はそう映っていたから。
その上で彼は自死を選んだ。彼の考え抜いた先の答え決定がこれだったのだとしたら、私たちはそれを受け入れるべきなのではないか。そう思ってしまった。自分の人生なのだから、自分で決める権利がある。もしかしたらこれは生きていくということを前提に考えられているのかもしれない、いやきっとそうである。だけれども、彼の「生きる」ということが「=俳優であり続ける、表現者であり続ける」ということであったのだとしたら…私は最初、人生を終わりにしないで、芸能界を引退してどこかでまた新たな生活を送ってくれてればよかったなと思った。(スローライフを送りたいと昔から望んでいたし、その道もあったのかもしれないけれど)でも彼はプライベートも俳優業に注いでいるとも言えるような人であった。だから俳優としての三浦春馬は一人の人間としての三浦春馬であったのかもしれない。自分はそこまでしてのめり込むことができずしっかりと分けたいタイプであるから、なんとも言えないが、もし三浦春馬がそのようなタイプであったのなら。
俳優ではない三浦春馬として生きていくことは、彼の中で選択肢になかったのかもしれない。
話は戻るが、彼がそのような状況の中で、考えに考え出した決断であるのなら、それを私たちが受け入れてあげることも大切なんだろう。
悲しみというものは消えないし、私たちはその感情を無理に消す必要もないだろう。ただ彼を責めるのは違うと思う。今回、彼の人柄から責める声も非難の声もほとんどないと言っていいと思う。
もちろん私たちの心にはぽっかりと穴が開いているし、近くで彼を見てきた人たちのことを考えたら、絶対に絶対にしてはいけないことだとも理解している。
最初にも言ったが、私は今まで人の自殺報道を見て、なんでその会社を辞めなかったんだろう。なんで死を選んだろうと考えていた。それを思った一件に関しては、今考えてみてもやはり他の場所でもっと活躍したらよかったなとは思ってしまう。しかし私は彼女のことを何一つ知らない。だからもし会社のことだけでなく死を選んだのならその生き方を尊重してあげるべきだと思う。自死についてそうさせてしまっている環境や社会が悪いからその選択肢が出てくると思っていたが、彼の死を知り、私の中で何かが変わった。一生懸命に生き切ったのであれば良いのではないか。まあ彼女も彼も何を思い死を選んだのかは結局のところわからないし、誰も知ることはできない。
ただ今回の一件で、自死についても種類があるのだと感じたのは事実である。

その中で今日ALS患者に頼まれて、安楽死をさせたということで医者2人が逮捕された。というニュースをみた。
尊厳死というものが考えられる中で、命をどう扱うのかはとても難しい問題だが、患者のそばにいて気持ちがわかる医者と患者の関係性からの行為で捕まってしまうことに少し、なんとも言えない感情になった。

私はALSについてもしっかりとわかっているわけではない。しかし、自分で体を動かせなくなって、話すこともできなくなって。それでも生きるのかと考えた時に判断をするのは患者、その人自身であって他の誰でもない。その状況に置かれなければわからないことがあるのだから。知った気になって色々ということは違うのではないかと思ってしまう。
そして生きると決めたとしても、それがあまりにも辛くて、苦痛で死にたいと思ったかもしれない。その時にその人は自分で死ぬことすら許されていなかったとしたら、どうなのか。それを医者に頼んだとしてそれでも医者は絶対に生かさなければならないのか。救うことが医者の仕事であったとしても、結局は人と人とのつながりの中で、生まれる何かを超えることができないのは何か残念な気がしてしまう。
「どんなに辛くても生きていればきっといいことがあるから」私はこのフレーズを信じている。ただもし私が病気になりどうにかなってしまいそうな時にそう言われても信じることができるだろうか。たとえ信じたとして、その命が終わる時によかったと思えるだろうか。思えたらとてもいいなと願いながらも、必ずしもそうではないのかもしれないと思うとなんだかどうしたらいいのかわからなくなる。
それでもこの言葉が本当だと示せるような世の中にしていかなければならないのだなとここまで書いてやっと気がついた。
そのためにはやはり人と人との関係の中で、お互いがどう支え合って生きていけるのか。そんな部分をもっともっと研究していかなければ、そして優しい社会になっていかなければならないのだなと感じた。
大切なことはしっかりと伝え、優しくありたいと改めて思った。



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