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自分の過去を受け入れ、活かすために、僕は仏道を志すことにした。

お久しぶりです。
初めての投稿をしてからもう季節が2つも巡ってしまいました。
すっかり紅葉の季節になりました。バイト先のお庭には、真っ赤な柿の葉の絨毯が出来ていました。美しいものを眺めていると時間がゆっくりに感じますね。

さて、久々に重い腰を上げて書くことにしたのは、最近自分の中の大きなモヤモヤがすっと腑に落ちたからです。良ければお付き合いください。



突然ですが私、仏道はじめました。


いきなり?と思う方もいるかもしれませんが、最近仏教について学び始めました。

仏教に関するWeb記事・本・雑誌を読んだり、講座に参加したり、お寺を巡ったり、お坊さんの法話を聞いたり、お話したり、木魚体験をしたり、朝に瞑想もどきを実践したり・・・

ちなみに僕が、「仏教」ではなく「仏道」だと言っているのは、インターン先のNPO法人グリーンズでお世話になっている兼松佳宏さんと、9月に行われた兼松さんの講座「空海とソーシャルデザイン」でお会いしたとある僧侶の方からの影響です。

仏教というのは、単なる教えや型なのではなく、ブッダの悟りや智慧を数々の僧侶達が色んな形で受け継いできたものを理解し、それを自分に合った形で実践しようとする精神である。よりよく生きるためには?という問いのもとで、自分に正直に歩いていくための「考え方」や「生き方」である。だから「教え」なのではなく、「道」であると、色んな方のお話から僕はそう理解しています。

休学中に頭おかしくなったんやない?と思われる方もいるかもしれませんが、僕が仏道に辿り着いたのは、自然な流れだと感じています。元々公園やお寺などの自然の感じられる開かれた場所が好きだったこと、そこから都市の公共空間の機能や利用に興味を持ったこと(大学では公園の回復的機能についての研究をしていました)、僕の実家には仏壇があり、小学生の夏休みは毎日の様にお経を読んでいたこと…。今までの人生を振り返ると、いくつも伏線はあったのかなと感じています。

一つ目の記事で書きましたが、僕が大学院2年目という非常に中途半端なタイミングで休学を選択したのは、自分に正直でいたいと強く感じたからです。嘘ではなく本音を以て“今”を真正面から過ごすことで、生きているという実感をもっと得たかったから。



“生”の実感を強めるために、自然や人とのつながりを取り戻す


その想いを叶えるためには、「自然や人など、身の回りにある命とのつながりを取り戻していくこと」が必要なのではないかという仮説を立てました。

経済成長は僕たちに便利な生活をくれた一方で、人と人、人と自然のつながりをお金という資本で代替可能なものにしてきました。しかし、その多くは、そのつながりを切り離すことで人々が儲かるというシステム。ファストフードはその典型で、それまでは自分や知り合いが育てた食材を自らで調理して食べていたものを、育てた人や調理した人の顔は見えない状態で、出てきたものを「食べる」だけ。提供してくれる店員さんとの会話も必要最低限。

確かに、人や物が過剰な都市部だと、つながりは無い方が楽なことも多いのが事実です。6年間の東京生活からそれは実感しています。しかし、つながりの失われた世界は脆いとも感じています。大きな災害に直面する度に、そのことに気づき始めている人達は増えているのではないでしょうか。

そのような社会の変遷の中で、僕という一人の人間も、人とのつながりをどこか避けてきてしまった様に感じています。本来人と意思伝達を行い、繋がるための言葉を、自己防衛のために使うことで、自分が傷つくことを避けてきました。(理由については一つ目の記事でも触れています)

しかしそんな使い方ばかりをしていると、その時は楽かもしれないけど、人は独りでは生きていけません。僕も皆も、つながりの中で生かされているということに気づき始めました。だから僕は、まず自分の身の回りの人や自然とのつながりを取り戻していきたい。

そのヒントをくれる、と思ったのが仏教でした。

仏教は「自分とのつながり」を取り戻すための「手法」だと僕は考えています。
お経や座禅、写経、掃除など、それぞれの体験を通じて、ありのままの自分を感じ、自分に正直になることを学んでいく。そして自分のことを受け入れることが、他の人や自然とのつながりを取り戻すことに繋がるのではないか?と感じています。



「過去の自分」を活かすということ


仏教は「さんげ」から始まるといいます。「さんげ」とは、「懺悔」と書きます。キリスト教で出てくることの方が多い言葉ですが、実は仏教にも存在します。その意味は「反省すること」ですが、「今までの自分を認めること」が必要とのことでした。

その時、僕はハッとしました。「過去の自分」にコンプレックスがある僕は、「今までの自分を受けいれたい」から仏教に興味を持つ様になったのではないかと。時々、自分にも他人にも嘘をつかずに正直にいられたら、どんなに楽だっただろうと、過去を悔むことがあります。自分言いたいことを言って、やりたいことをやる。そうすればもっとメリハリのある楽しい人生になっていたのではないかと心のどこかで感じていました。

そんな過去は誰にも変えられない。けど、その過去を受け入れることはできる。(なんだかジブリみたいですね)過去の自分も、自分の確かな一部として背負い、またそれを活かして生きていく。その覚悟が僕には足りなかったのだと思います。

もしかすると、僕が休学を選択した本当の目的は、この覚悟を身に付けるための準備だったのかもしれません。

そのことに気づいた僕は、肩の荷がスッと降りたような安堵感を覚えました。同時に、仏道を学び、実践することで、「あの時の自分がいたから今の自分がいる」と思いたい。そう強く感じました。

今までの自分を活かしていくために、これからも自分のペースで仏道を学び、実践していきたいと思います。


最後まで読んでいただきありがとうございました。


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