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実録根岸鶯啼合せ会絵図 解説文  昭和59(1984)年 根岸小学校開校110年新校舎落成記念 玄関壁画 


(文章 立正大学教授 市川任三)昭和59年11月2日
明治35年前後の鶯啼合せ会全盛絵図
八代将軍吉宗公が御鷹狩りの際、その風景が紀州の音無川によく似ているので、音無川と名付けられた。麓より農地用水として、石神井川より分流され、上野に続く台地の裾を東南流し、田端を経て末は山谷堀より隅田川に落ちる。この田端と三ノ輪の間に、江戸時代より風流閑雅をもって名を得た道灌山、日暮里、根岸の地域が展開する。以下鶯及び鶯啼合せ会を中心にすえて、この地の事どもを流れに従って簡単に紹介しよう。
道灌山は眺望絶佳の地で、近くは尾久、三河島、浅草、荒川の流れ、遠くは日光、筑波、国府台が見渡され、また虫聴きの名所としても知られる地。後述の根岸鶯啼合せ会が廃止された後をうけ、戦争のために中止される昭和10年ごろまで、鶯またはホウジロの啼合せがここで行われた。
切通しを隔てた諏訪神社もまた眺めのよいことで著名。その西一帯の諸寺院がひぐらしの里として世に宣伝された地である。諏訪神社東南の浄光寺はいわゆる雪見寺で、そのまた東南の本行寺とともに太田道灌が防衛施設を置いたと伝える。本行寺前から谷中本を流れる音無川王子街道に下る勾配が御殿坂である。以前は静かであった日暮里駅も、大震災の折は上野駅が焼失したため、ここが臨時の列車発着場となり、大賑わいしたことを知る人も少なくなった。谷中の天王寺から下る芋坂角の羽二重団子は江戸以来の老舗で、文学作品にも登場し材料も作り方も吟味して、その名に恥じない。その前の善性寺門前の将軍橋は由来が古い。
御隠殿は、音無川べりに日光輪王寺、延暦寺、寛永寺を管領する門跡として京都からお迎えし、寛永寺に住職代々の宮様の常住の御殿である。宝暦の頃(1753)上野山の北陰四千平方メートルの地に造営された御隠殿には、数奇をこらした月光殿等の建物を連ね、庭には泉水、中島、朱欄の橋あり、月夜には舟を浮かべて管弦を奏し、その音山岳に響いて仙界の趣があったという。そもそも根岸が鶯の名所とされたのは、元禄(1688-1703)の頃、上野の宮5代公弁法親王が関東の鶯には訛りありとされ上方より数百羽の雛を下して根岸に放させたことに由来し、それより鶯は根岸の各処に巣を掛けるに至ったという。他所の鶯は脚が黒いがここの産は灰色に赤みがあるといわれた。
雀より鶯多き根岸哉 識
鶯の我栖顔なる小里かな 伊藤松宇

鶯を飼養してその啼声を競い合わせる会は文化(1804-1817)以降年々盛んとなり場所も江戸の高田馬場から始まり、向島、晴地そして根岸へと遷った。
春、最初に生んだ雄雛を巣ごと取り、藁ふごに入れ、餌を与え糞を除き、夜は暖房と細心の注意を払い、総て羽全く成ると、一羽ずつ前方のみ明り障子にした籠桶に入れ、摺餌を与え、病気に注意するが特に、発声に配慮し、音色がよい師鳥を雛=付け子の籠桶から一間ばかり離して対置し聞き習わせる。啼く音色は幅があり優美なるをもって最上とし、啼き方は、上・中・下の三音あり、上は、「ヒィー」と高く長く、中は「ホウ―」、下は「ホホホホホ」と低く玉を口に含んでひとつだけずつ並べて出す。この下が肝要で優劣はこれで決まる。
そして最後に法華経と結ぶ。法華経を「ホケキヨオ」ともともと分かって聞こえるのをカナグチというが、「キョオ」と鮮やかに経の字の音で漸次下げて聞こえるをムジクチ=モジ(文字)口と呼ぶをよしとする。
かくして年々春にいたると、鳥屋仲間の一人を催主と定め、引札をもって鶯を飼う家に定日を告げると、当日は催主、補助および専門家が本部の会亭に集まり、同好者自慢の鳥の至るのを待ち、地域の別荘、隠者、農人の大家を前から借り、一軒に一羽ないし二羽を置く。この日は早朝から鳥屋その他愛鳥好者、参会者は各々の手帖を携え、鶯の置く所を巡り、再三その声音を聴いて甲乙を一々細かに記し終わって会亭に立ち返り、声音の三音結句全備したものを江戸(東京)准の一と称する。江戸一と言わぬのは遠慮してのこと。その他は東之一、西之一、三幅対の左右中など段階あり。これを鳥名の傍らに記して壁上に張りだし、同様にこれを書して鳥主に贈る。鳥主より謝儀あり。その金額に定めなく、諸雑費にあてて全く催主が利を貪らぬ。名鳥の世に聞こえるのは、この会あるが故で、出陳する者は遠く関東全域にわたり、また当日には一般に聞き伝えてその地域に雲集したという。まことに太平の一雅事であった。
根岸における鶯の啼合わせ会は、弘化4(1847)年から始まり、幕末に中絶し、明治に至って復興し、毎年盛大に行われるに至った。今、江戸時代はむろん、明治から大正にかけて行われた根岸啼合せ会の状況を自ら体験して知る人はほとんどない。わずかに幼少時に見、あるいは体験談を古老に聞いたに過ぎぬ。ここに、それらの人の話を総合するとほぼ次のようである。会は4月中旬、中根岸41番地にあった鶯春亭を本部として毎年開かれる。当日朝、出陳者は各々の自慢の鶯を籠に入れ、続々根岸に集ってくる。鶯は音無川沿いの西は御隠殿前辺りより、東は御行の松に至る間の両岸の然るべき家に予約して一軒に一、二羽ずつ籠桶に入れ、座敷の中に置かれる。遠方の者は前日から泊まり込んだ。貸した家は、門を開き掃除をし、水を打ち、細かく神経を使っているから、一見して鶯の置かれている家であることが分かった。本部からまた必要な書類を受け取った参会者は、順次右の家々を巡り、各鶯の声を前述のごとく三音が完全に調っているか否かを静かに聴き定めて、それぞれ手帖に記し、最後に本部に帰って投票をする。この投票できる者は、専門の鳥屋仲間であるか、会費を出せばだれでも参加できるものか否かは定かではない。かくて成績のよい順に、東京准一等の格付がなされて掲示され、選に当たった飼育者には、その旨を書き押印した折紙が手渡される。
明治の中頃、もっとも盛んであった根岸の鶯啼合せ会も、根岸自体が俗化し、鶯の姿を見受けること少なくなるのに伴ってようやく衰え、ついに大正大震災により、ここに80年にわたる歴史を閉じた。従ってその行われた規模、方法等にも相当変遷のあったことが推測される。上の図は体験者から戦前直接聞いた根岸に長く住む福田亀之助氏が、往時の盛会をしのぶよすがとして、記憶にもとづき作成したものである。
● 鶯啼合せの家     □ 旧家 著名人 史蹟

一の上野山をもって南の都塵と隔てて、音無川の清流の北に展開する広々とした三河島田圃の彼方に筑波山を遠望するこの別天地根岸には、鶯を始めとして鶴、水鶏、ほととぎす、ひばり、蛍、啼く虫、根岸山茶花、梅、根岸土さては狐、狸、山うさぎ、やぶ蚊に至るまで自然を存し、また培養し作られたものに、夏葱、生姜、肴舎の万年青、江戸時代から名声の名高い笹の雪や羽二重団子、朝倉の煮山椒が挙げられ、いずれもこの地に相応しい名物、名産として世に珍重されきたった。さてまたこうした地を愛して移り住んだ文人墨客を始め各界諸名家あり。今もっとも名を知られる人々の一端を試みに挙げれば、雪中庵蓼太、酒井抱一、北尾重政、亀田鵬斎、平田篤胤、柳亭種彦、寺門静軒、河鍋暁斎、陸奥宗光、正岡子規、陸羯南、岡倉天心、大槻文彦、伊井容峰、宝生新、市川團藏等あり、なお数百の人の名を数えられる。こうした閑雅な環境裡に趣余りある右の鶯の啼合せ会が行われたのである。
前述のごとく大正12年を境に会は消滅し去ったけれども、わが根岸は、震災にも焼けず、戦災にも一部被害あったにとどまり、昔ほどではないが、春ともなれば鶯は今日においてもこの地に飛び来って好音を響かせてくれる。その有力な理由は、上野の山を控え、寺院が多くまた小さいながら樹木を擁する家々がなお多いからである。特に、根岸2丁目の圓光寺=藤寺には、毎年十数羽の鶯が至る。住職の丹精込めた環境作りと特殊な餌付けによるものという。同寺の法事等で読経を暫時さえぎり、鶯声を聴きたいと願う人もあるとか。本年の春は、これを世の方々にも多く聞いてもらいたいと有志の人が計画を立てたがご存じのごとく、雪多く余寒の厳しさがこたえてか、肝心の鶯が少なく沙汰止みとなったのは惜しい限りである。
根岸の歴史は、上野の宮様が鶯をこの地に放って名所になったことに始まった。世相環境は昔とは全く変わったが、鶯と根岸との連なりは、なおかくの如く堅いものがある。都会の真っただ中にあって稀有のことといえよう。星移り物変わっても、このみやびな伝統はなんとしても維持したいものである。

実録根岸鶯啼合せ会絵図 図中の文字情報  昭和59(1984)年 根岸小学校開校110年新校舎落成記 玄関壁画

明治35年前後の鶯啼合せ会全盛絵図    絵:薬剤師 福田亀之助 
(注:図中の文字情報を右から順に記す。□は旧家・著名人・史蹟であることを示し、●は啼合せの家であることを示す。参考資料:2013年9月8日李栄恵発表)

1□谷中天王寺
2●澤野屋酒店 羽二重団子店
3□谷中天王寺五重塔
4□仕立屋銀次
5●善性寺
6□根岸貝塚
7□農地用水堰
8□元三島神輿倉
9□音無川
10●大橋幸蔵
11●野村参事
12□御隠殿月光殿
13●金澤山石堂
14●庄田家
15□御隠殿橋
16□呉竹寮
17●牧野子爵
18□椎の木
19●大竹家
20□うぐいす橋
21□岡田巳之助
22●伊井蓉峰
「(根岸幼稚園の)女の友達で一人覚えているのは伊井蓉峰という新派の頭目の娘の伊井静枝という人だ。御隠殿の踏切の付近にいてある時『芸人で馬車を持っているのは、わたしのお父さんと常陸山だけよ』といばっていたのを覚えている。」(河合勇「根岸の里」八木書店 1967:著者は明治32(1899)年生まれ。凸版印刷初代社長河合辰太郎の息子。上根岸34番地に生まれ育つ。隣家は浅井忠の家)
伊井蓉峰は、この御隠殿の踏切のそばに転居する前に、金杉の澤静さんの家のそばに住んでいたことがあり、6歳の澤さんは男の子と間違えられて「子役にほしい」と望まれたことがあるとか。

23●藤の湯
24□寛永寺連絡萱門 御隠殿坂
25●根岸薬師堂
26●市川團蔵  
七代目(明治44年没)

27□呉竹橋
28●角田家別宅
29●田中一秀
30●白杉宅
31●平井文蔵家
32●陸羯南
33●幸道(ママ 堂)翁
34●中村不折
35●山下表具店
36□子規庵
37●石井徳次郎
38 うぐいす小路
39●碇医院
40□一本橋
41●内田〇三河屋
42 たぬき小路
43●春光堂写真館
「我が家(山下表具店)から一本橋を渡った南東の角は大きな『豊田写真館』、門構えの背の高い家で玄関から入るといきなり広いアトリエになっていた。天井は高く北面はガラス張りだから眩しいほどに明るかった。(中略)もう一軒の豊田写真館が坂本の車坂寄りにあり、この二軒は親族。」(山下一郎「鶯の谷 根岸の里の覚え書き」冨山房インターナショナル 2007:著者は大正2(1913)年生まれ。実家は有名な山下表具店)
子規の最晩年の写真を撮影したことで知られる納屋才兵衛(納屋美算)の写真館、春光堂。豊田写真館ともいった。この上根岸のほかに、坂本町にも豊田春光堂がありました。ホームページ「昭和からの贈りもの」によると、大正から昭和初期にかけて根岸幼稚園や根岸小学校の入学式や遠足などの撮影を手がけていたのは坂本町の豊田春光堂だったとのこと。

44●吉田別宅跡(都立竹台高校)
「吉田雪枝さんのお家は、質屋の総元締とかいう実業家で、お宅は2000坪くらいあった。庭には築山あり、東屋あり、池ありで、鶴も2羽放し飼いにされている。裏の遊び場も1000坪に近い広さだった。テニスコート、ピンポン、玉突き、鉄棒、ブランコ、そしてお花がいっぱいあった。2人の爺やさんが、何時行っても花の手入れをしていた。人力車が2台あって、車夫の住居が通用門を入るとすぐの所にあった。」(澤 静「上野のお山に瓦斯灯の点る頃」サワズ出版 1994より)
澤さんと12歳違いの小浜フサ子さんの聞き取り調査では「吉田別荘って草ぼうぼうでね、どなたがいるんだかわかんないようなところでした」と荒れた空き家状態だったことを証言している。

45●前島銀太郎
46□六花荘茶席
47●吉田家差配人
48□加賀能舞台
49●車宿
50●伊藤三蔵
51□鶴の松
52□八二神社
53●前田家
54●梅屋敷
55●瓜生中将
56●加賀の亀の松
57□初音橋
58●諏訪家
信州諏訪家の中屋敷があった上根岸72番地には、その後、土建業の雄として活躍し、寛永寺陸橋の工事も手がけたといわれている河合徳三郎が邸宅を構えた。いつごろ河合家が上根岸に居を定めたのかは不明だが、大正時代中期から後半と思われる。大正7(1918)年生まれの小浜フサ子さん聞き取り調査によると、寛永寺坂の途中の場所で、河合徳三郎が食にあぶれた労働者に炊き出しを提供していたとのこと。

59●前田栄吉
60□本間八郎
61●笹の雪
62●小泉みのや
63□霜田医院
64□庚申塚
65 三河島に至る道
66●鶯春亭
67●篠富五郎
68●清水建設別荘(当時は清水組)
「時に新夫婦のために新居となったのは、当時の神田区駿河台北甲賀町47番地にあった故の元老院議官阪本政均の邸宅を阪本釤之助から譲受けて、前以てこれを増築し、煉瓦造の二階建てとしたものである。そこに母堂を始め三人の弟妹も横浜から移ってきて、3年ほど一緒にいたが、その後に下谷区中根岸で今村清之助の別荘を譲受け、母堂等はそこに移ったのである。」(清水組内 清水釘吉翁伝記刊行会「清水釘吉翁」1943)
清水組社長(清水家当主として5代目)清水釘吉は清水家の婿養子。明治24(1891)年4代目当主の娘と結婚して清水家に入籍し、同時に分家して駿河台清水家を興し、大正4(1915)年から昭和15(1940)年まで社長を務めた。なお、「清水釘吉翁」によると、釘吉社長の夫人は幼い頃から、根岸に住んでいた高田竹山(根岸人物誌3-61:1861-1946 上根岸庚申塚付近に住む。書家。内閣印刷局で明治、大正、昭和にわたり紙幣金銀貨公債等の文字を担当)の家に通って書を習ってきた。その縁で、駿河台の本宅の蔵には竹山が収集した貴重な古典籍の原本を預かっていたとのこと。小浜フサ子さん(魚屋の娘)の聞き取り調査によると、昭和3(1928)年までには隣接の鶯春亭も清水組の家になっていたとのこと。

69●藤寺(円光寺)
70□岡田養生院
71●山川家本家
72 まじない横丁
73 〇坂家(○は解読不能)
74●ヤマト〇別荘(○は解読不能)
75●松の湯
76□根岸小学校発祥地
77●大槻文彦
「まず、大きな広い玄関にびっくりした。わが家は格子を開ければ、座敷も台所も一目に見えてしまう。沓脱ぎ石の上から板の間で、腰高い障子を開けると真ん中に衝立がある。長押には鎗がかかっていた。左側の四畳くらいの部屋は書生部屋。廊下を隔てて女中部屋。左へ折れると十二畳と八畳が二間続き、その前が広いお庭で、池がある。その庭から『御行の松』が真っ正面に見える。」(澤 静「上野のお山に瓦斯灯の点る頃」サワズ出版 1994より:著者は明治39(1906)年生まれ。大槻文彦邸の近所の金杉279に生まれ育つ。4歳から数年間、大槻文彦の孫娘の遊び相手として大槻邸に通う)

78□西蔵院
79●今井清次郎
80●御行松不動堂

東京大空襲「助けてくれた消防隊」下町っ子の意気 32年目の恩返し 昭和52(1977)年 読売新聞

12月8日付
東京大空襲の猛火の中、消防署員の決死の消火活動のおかげでやっとの思いで難を逃れた町の人たちが、きょう8日、当時の「町の恩人」と32年ぶりに対面、上野池之端の料理屋で小さな会合を開く。当時の警視庁消防署板橋消防署板橋大隊第一中隊の隊員7人と台東区下谷東町会(当時下谷区金杉一丁目町会)の人たち。「どうしてもお礼をしたい」と八方手を尽くしてファイアーマンたちを探し続けた」下町っ子の執念がようやく実ったもので、下町っ子たちは、ささやかな感謝状を贈ってかつての恩人の労をねぎらう。8日はあのいまわしい太平洋戦争の開戦記念日……。
台東区下谷二丁目を中心とする「下谷東町会」(約400世帯)にとって、「大空襲の時に助けてくれた消防署員」を捜すことは、執念にも似た悲願だった。「捜してお礼をしようじゃねえかってのはね、歴代の町会長の申し送りみてえなもんでしてね」。49年に四代目の町会長になった羽場慈温さん(63)がいきさつを説明してくれた。しかし20年3月10日の大空襲当時、下谷区金杉一丁目といったこの界わいの人たちが覚えているのは「確かポンプ車に板橋って書いてあった」ことだけ。それ以外には手がかりがないまま30年以上がたってしまった。
ところが、今年になって、町内に元下谷消防署員だった前野光良さん(61)が住んでいることがわかり、相談を受けた前野さんは二つ返事で“捜索”を引き受けた。前野さんの長男も現役の消防署員。父子協力して消防庁に問い合わせたり、文献に当たった結果、この夏になって、岡さんらの消息を尋ねあてた。捜し、たずねて32年目の快挙だった。
羽場さんは早速、町会にはかって当時の消防士らに感謝状を贈ることに決めた。大空襲当時、羽場さんは南方戦線のジャワ島に出征中。“銃後”を守っていたのは、奥さんの正子さん(54)と両親。庫裏の二階とお墓に焼夷弾が落ちた。「二階が燃えてるっていうんで、バケツを持ってかけ上がっていったら、階段入り口の唐紙が火を吹いていてね。あわてて水をかけましたよ」。幸い焼夷弾は半分不発で、消し止めることが出来た。ところが、今度は天井が真っ赤になっている。「いくら水をかけても消えないんですよね。よく見たら、空が真っ赤になってそれが焼夷弾の落ちた穴から見えたんですね」。周囲はそれほどの火に包まれていた。「だから、本当に恩人なんですよ」。正子さんは繰り返した。
同町内会の副会長、松原正利さん(80)も当時のことをはっきり覚えている。「若いもんもいない時分だから、あたしらだけで押しポンプを引っ張り出して、防火用水から水をまいたんだ。でも夜明けになると、下谷一丁目の方から火が下谷中に迫ってきて、あたしらもそばにいられなくなって…。そんな時、あのポンプ車が来て、まだ燃えてない家に水をかけてくれた。なんたって、うれしかったねえ。その時はごった返してたんで、炊き出しくらいしかお礼ができなかったけど、あとから、なんかってえと、あん時のことが思い出されてねえ」。
「あの時、町会の人たちが炊き出してくれたおにぎりの味は、いまでも忘れません」「今までもらったどんな消火活動の表彰状よりも、今度の感謝状の方がうれしい」--当時の消防隊の面々は、この“33年目の恩返し”に感激しきり。
下町の一町内を救ったのは当時の板橋消防署板橋大隊第一中隊。中隊長だった岡健太郎さん(67)は「32年間の消防生活の中で、大空襲下の下谷金杉での消火活動が最も印象に残っていた。それだけに、こんなうれしいことはない」とニッコリ。
岡さんらはいずれも、長い消防生活の中で総監賞など数多くの賞を受けているが、下町での偉大な功績には全く賞が出ていない。このため戦後編まれた東京大空襲に関する消火活動の公式書類、文書などにも一切記録されず、恩人探しを続けていた下谷東町会がこれまで突きとめられなかった一因にもなった。
岡さんの話から当時の模様を振り返ってみると――。
9日深夜、警視庁消防部から「下町が空襲される。菊屋橋に集結せよ」という指令が板橋消防署にきた。岡さんの率いる第一中隊に出動命令が下り、同中隊約40人はポンプ車10台に分乗した集結地に向かった。もうそのころには下町方面は横一線に紅色に包まれていた。巣鴨―白山―東大前。途中都電の架線がたれ下がって通れない道路があったりして、コースをグルグル代えながら不忍池まで来ると、民家が燃えている。「消防隊が来てくれた」と喜ぶ人たちに苦しい事情を話し、「私たちを皆殺しにするのか」という罵声を背に受け一路目的地へ(この火事は、後発の板橋消防署第二中隊が消火にあたった)。
谷中墓地を抜け、寛永寺裏手に出ると、また民家が空襲で燃えている。人の姿は全然見えなかったが、「これを消さなければ前進は不可能」と判断、急ぎ消火にあたった。「あの時消してなかったら、確実に寛永寺に燃え移っていた」と岡さん。
「入谷の交差点付近で、防空頭布にバケツを持って激しく動く人たちの姿が影絵のように見えた」。早速、応援消火を開始。ホースを持つ隊員の背から、しきりと湯気が立ちのぼる。熱い。岡さんが町会の人たちに思わず「隊員のからだに水をかけてやってくれ」と声をかけた。延焼を食い止めようと大火災の前で消火活動をする隊員。その隊員たちの体に、バケツリレーで次々と水を浴びせる町会の人たち。体にかかった水が一瞬のうちに蒸気になるほどの消火作業だったが、絶妙の二人三脚の結果、夜が白々と明けるころには消火活動を終え、町内への延焼を食い止めた。(了)

解説:【東京大空襲】東京地方への空襲は昭和17年4月18日に始まり、終戦の日の20年8月15日まで計約120回に及んだ。その間、来襲した米軍機は延べ約一万機。亡くなった人は実に11万5千人を超え、15万人以上が負傷した。このうち、最も大きな被害を出したのが20年3月10日のいわゆる「東京大空襲」。
9日の真夜中、正確には10日午前零時8分、B29が深川区(現江東区)木場に第一弾を投じ、惨劇は始まった。火はまたたく間に城東区(現江東区)北砂一帯に広がり30分ほどのうちに本所区(現墨田区)から下町全域を猛火に包み込んだ。当時、北の風、瞬間風速25メートル。警視庁消防部「空襲災害状況概要」には「折柄ノ北風ニ、三十米ノ烈風ニヨリ、発生火災ハ益々熾烈ヲ加ヘ、殊ニ浅草区(現台東区)方面ノ火災ハ隅田川ヲ越エ本所区、深川区、城東区、江戸川区方面ノ火災ト合流、其ノ火災愈々猛烈ヲ極メツツアリ(中略)都内各消防署ヨリ応援隊二○○台ヲ直チニ出場セシムル一方埼玉 神奈川 千葉ノ各県ヨリ消防自動車約一○○○台応援要請シ(中略)必死ノ敢闘ヲ続行シタルモ折柄ノ烈風ニ加ヘ水利不充分ノ為、防御行動意ノ如クナラズ…」とある。
10日午前2時37分、空襲警報解除。被害は全都の40%に当たる29区にわたり、約27万戸の家が焼かれ、約百万人の住民が焼け出された。
このうち下谷区には10日午前零時19分、入谷に焼夷弾が落とされ、二回目は谷中、三回目は池ノ端広小路一帯と広がり、上野公園周辺は火の海となる。被害を受けたのは池ノ端七軒町、茅町、数寄屋町、北大門町、西黒門町、東黒門町、坂町、長者町、仲御徒町1,2丁目、練塀町、二長町、御徒町1、2丁目、竹町、永住町、西町、竜泉寺町、入谷町、下根岸町、坂本一丁目、金杉一、二丁目、新坂本町、万年町二丁目、山伏町、上野桜木町、初音町(いずれも旧町名)に及ぶ。「帝都防空本部情報」によると、この大空襲による死者数は430人、負傷者は2027人、全焼家屋は1792戸に及んだ。また、警視庁消防部の「空襲災害状況概要」には、死者635人、負傷者866人、焼失戸数15024戸とある。
一方、米側発表によるこの日のB29襲来数は296機、投弾量1783トン、死者数は何と10万人であった。
(記載はいずれも、東京空襲を記録する会編の「東京大空襲 戦災誌」から)

岡倉一雄「根岸旧事」 昭和10(1935)  東京朝日新聞

(全三章)
昭和10年5月23日付 (夕刊 4面)

<一>

一重が散り八重が散って、松杉の黒木の間に点綴する若葉の緑が、初夏の景色を整わせる頃になると、上野から谷中にかけての山容が、明け暮れ眼を楽しませた三十余年前の根岸生活がまざまざと偲ばれる。そこにはのんびりとした悠長な古き好き日が展開され、旧幕封建時代の上品な因襲が多分に残存していた。

近頃ゆくりもなく新坂を下って根岸の地を踏んで見ると、全く滄桑の変に驚かされて仕舞った。宛も浦島の子が龍宮から故郷に帰って来た時と一般であった。でも坂本の方面から東西に平行している幾条の道路には、幾分昔の俤が残っていないでもないが、南北に走っている道筋では新たに出来上がったものが可なりに多く、八幡の八幡知らずにでも分け入ったような感じに襲われてならなかった。

現在南北に縦走する幹線の一つになっている寛永寺坂から坂本通りへ出るコンクリート道路と丁字形に三河島方面に走っている幹線道路の上には、古き根岸の住民達が部落の中心としていた庚申塚が僅かにその三猿の石碣を残しているようである。然しややその北方を南北に貫流していた「せき」は暗渠に改修されて、音無川の俤は全く湮滅して仕舞った。そしてその市の畔りに立っていた鶯春亭とか、「笹の雪」という名物も昔の形態をとどめていない。「せき」の音無川は昔は鶯春亭の一二丁下流で一折し、更に大槻文彦先生の住居の辺で再折し、「御行の松」の境域を一めぐりして箕輪田圃の方へ流れ去ったものであった。

「御行の松」は既に枯死して昔の俤を留めないが、三四十年以前は「時雨が岡」と称へ、なんでも東奥の修行地から、弘法大師とやらが五鈷を擲ち、そのとどまる所に堂宇を築いたという荒唐な縁起をもったささやかな御堂があった。住民たちは昔の部落の関係で、ここを中村の鎮守と思っていたらしい。弘法様に縁のある御堂を一村の鎮守と崇めることは、いささか平仄が外れたようだが、恐らく旧幕時代の両部崇拝の名残りでもあったろう。

私の宅が根岸へ移り住んだのは明治二十三年の頃だが、その時分は全根岸が四つの字(あざ)に区分されていたようである。御隠殿方面の杉崎、上根岸一円の元三島、中根岸一帯の中村、それに下根岸界隈をくるめた大塚が即ちそれで、私の父なぞはよく下根岸の大塚を、八犬伝の犬塚に付会し、信乃、荘介を語っていたものである。

なにしろ上野の宮様の息がかかった時代と、あまり隔たらない時分のことだから、大路小路の異称なぞも頗る雅やかに称ばれていた。今に其の名を残している鴬谷をはじめとして、御下屋敷、中路、御隠殿、鶯横町さては山茶花の里なぞと数え立てて見ればきりがない。正岡子規の草庵が鶯横町にあったために、此所の名前は今なお後輩の日本派俳人の間に膾炙しているが、当時は加州候の下屋敷の裏側に当たる黒塀と、竹藪との間を走っていた辺鄙な場所に過ぎなかった。

今なお文学史上にその名をとどめている小説家の連盟、根岸党の全盛時代は子規の名が世に謳われるより遥か以前にあった。御隠殿に近き二階家に納まっていた森田思軒、それと裏腹に「せき」に畔りして居を卜した饗庭篁村、同じに家替り住んだ幸堂得知、笹の雪横町が田圃につきる辺りに家を構えていた宮崎三昧、谷中天王寺畔から時々姿を現した幸田露伴、それに根岸に家を持っている関係から員外に加わった判官の藤田隆三郎氏、亡父の天心などが一所になって、連夜「いかほ」や「鶯春亭」と飲み歩いたものである。一党は他を「御前」と尊称し、自らを「三太夫」と卑下し、且つ各自表徳のようなものを持っていたらしい。例えば三昧道人を「田圃の太夫」とか、露伴博士を「谷中の和尚」とか、天心を「馬の御前」とかいったように。併し考えてみると物価の安い当時でも、よくあれ程の豪遊が続けられたと思う。

<二>

自恃居士で知られていた当時の官報局長高橋健三氏もまた根岸党の有力な員外者であった。そんな関係から同氏の外遊にあたり、根岸党の面々は、その送別の宴を御下屋敷の天心の住居で催したことがあった。その時に祖父勘右衛門の七十の賀筵を兼ね催したので、宴会は連続三夜にわたって行われたのであった。そして招待の客種がそれぞれ異なっていた。

第一夜は高橋氏の送別会で、とても壮大にかつ最も洒落に催されたものであった。あらかじめ世界を忠臣蔵と定め、各夫人連は揃いの赤前垂れで一力の仲居に扮し、由良之助に見立てた高橋夫妻を歓迎した。高橋氏夫妻は無双の洒落者で、夫人のごときは晩年一中節の家元になる位の人であったからわざと大星の定紋水巴の揃いでやって来られ、一同をあっといわせたものであった。得知翁の采配で離れの茶室に「早野勘平浪宅」という名札が掲げられ、浮世絵を貼り混ぜた煤けた二枚折の腰屏風の中で栄螺の壺焼きの模擬店が開かれていた。「一寸さこいの内緒事」という通り文句をきかせた洒落であったらしい。二日目、三日目にどんな客が招待されたか今記憶にはないが、三日目の晩に蕉雨という俳名に隠れていた大本間小本間として聞こえた輪王寺の宮付の高格の士の隠居が、福禄寿の逆さ踊りをやったことを覚えている。

こんな宴会は中根岸四番地に移ってからも、今一度あったように覚えているが、その時の記憶は彫刻家の竹内久遠氏が泥酔して、臨席して居られた坪内博士に絡まり「小説家では春廼舎先生(訳注:坪内逍遥の号)、彫刻家では天下の竹内だ」と怪気焔をあげていたことをやっと覚えているに過ぎない。

今の鴬谷駅の真っ下の線路沿いに、鶯花園という細長い庭園があった。園の中には芙蓉とか菊とかが確かに栽培されてはあったが、七分は自然のまま放置されていた向島の百花園式の庭園であった。そこもしばしば根岸党の催しに用いられていた。藤田隆三郎氏が東京から奈良地方裁判所長に栄転される際も、川端玉章翁が何かの賀筵を催した時にもここが利用されていた。前者の場合にはいろいろな模擬店があり、また各種の地口行燈が掲げられていた。そして後者の時には、床几を連ねた毛氈の上で村田丹陵、山田敬中の諸画伯が狂言の「千鳥」を舞ったことを覚えている。

今では加州候の下屋敷が分譲されてしまったので、昔のあり様を偲ぶよすがもないが、元三島神社の社殿をめどとして見ると、上根岸の大部分と中根岸の一部は著しく改変されほとんど昔の面影は消え失せている。しかし中根岸の大部分と下根岸の一部とには、やや旧観が残っていないでもない。例えていえば永称寺、西蔵院前の通り。世尊寺、二股榎前の小路の如きものである。こう繁華になってきては二股榎の前で丑三つ時に転んでも、狸の化けた「おかめ」にお茶を出されることもあるまいけれど。

三十年前までは入谷の朝顔が盛んであったにつれて「笹の雪」の豆腐料理が、夏の朝まだき麗奸を競うこのとりどりの花を賞する騒人の朝食を認める場所であった。豆腐料理のほかには焼き海苔くらいしか出来なかったこの店も、星移り物変わった今日では、縄暖簾が撤廃され、箱が這入ると聞いては全く開いた口がふさがらない。

笹の雪横町から、三昧道人(訳注:小説家宮崎璋蔵の号 子に大正期の少年向け小説家宮崎一雨がいる)の家居のあった方面は、元金杉と称えて真実の根岸の領分ではなかったが、日清戦争の終わる頃から、家がびしびしたち込んで、そのけじめが判らなくなってしまった。しかしその以前までは三河島の本村まで一望目を遮るものなく水田が続いて、好個の凧揚げの場所を我々に提供していた。私が中学生になった頃も、その水田で鴫(しぎ)や鷭(ばん、クイナ科)やさては鴨なぞの銃猟をやったことを覚えている。

<三>

根岸一帯の祭りは、若葉がようやく青葉と緑を増す六(ママ:五の誤り)月十四、五日に行われる。花車や踊屋台こそ出なかったが、元三島、中村の御行の松、大塚の石稲荷で催される里神楽は、他に比類を見ないほど盛大を極めたものであった。おそらく現在でも旧を追って年々挙行されているに相違ないが、昔通りの三百八十五座といった大掛かりのものではあるまい。

根岸党の大人方や、子規はじめ日本派俳人の諸先生方とは、ほとんど何の関係もなかろうが、当時子供であった我々には、見逃しがたい年中行事の首位に位していた。殊に元三島神社に行われた里神楽は、三河島の神職何やら要さんという男を座頭に、十人足らずの同勢をもって組織されていた一座であった。中にも馬鹿踊の名人常さんというのが、一人で人気をさらっていた。
彼らはおそらく上六番町の里神楽の総家吉田家の支配を受けた三河島派の面々であったに違いない。総帥の要さんというのは長身な男で、得意とした「退治」の主役に最も適していた。彼が弓矢を携え、もしくは長剣を振って舞台を活躍する様は、たしかに素盞嗚尊を、そして日本武尊を巧みに再現していた。それでその従者とか対手役に回る常さんの馬鹿が、とても滑稽で我々子供達の腹の皮をよらせたものであった。従って我々は元三島の神楽を礼讃し、渇仰するにいたったものである。同じ根岸小学校に席を並べていた田中芳雄工学博士の如き、二三級下にいた漫画家池部釣、水島爾保布の両君の如きは、必ず元三島党であったに違いない。池部君の如きは「畑にしようか、田にしようか」の馬鹿踊のかくし芸に、天才常さんの衣鉢を伝えている。

御行の松で催された神楽も、元三島のそれに負けず劣らず壮んなものであったが、此所のものは面の中で台詞をいう里神楽道の外道であったようである。従って出し物も「桂川力蔵」とか「石井常右衛門」とかいう神楽としては目新しいものであった。大塚の石稲荷の神楽も元三島や中村のそれに劣らぬもので、なかなか贔屓があったようである。歌人の川田順君なぞはこの方面に在った乃父剛先生の別宅に起臥されていた関係上、石稲荷党であったに違いない。

輪王寺の宮様が御引退後に住まわせられたという御隠殿は、私が明治二十三年に見た頃でもその面影を偲ぶべき一宇も残存していなかったが、唯二百坪ほどの瓢箪池が濁った水を湛えているに過ぎなかった。私たちはよくその池で鮒を釣ったものであったが、見かけほど沢山は釣れなかったようである。祖父からの談に聞いた新光琳派の巨匠酒井抱一の雨華庵(うげあん)の跡を大塚方面に探してみたが、ついに見当がつかなかった。
無極博士の父君である明治書道の大家成瀬大域翁の住まわれた中道の角から、左に這入った通りには、風流な隠宅とか、閑雅な寮が邸を接していた。そしてその一軒一軒が苔むした広やかな庭を持っていた。その頃でも旧幕時代の匂いが最も高かったのは、おそらくその界隈であったろう。異称を山茶花の里といったのも、たしかにふさわしい。

藤に名を得た藤寺が顰まり、根岸の草分けともいわれた篠氏の邸跡も亡びてしまった。今ではわずかに芋坂の搗抜団子が、稍々昔の面影を偲ばせるが、こことても亡き天心が名月の夜陰に馬を停めて、酒を買った時代の姿はとうに消えうせている。(終)

煙突男関連記事 昭和7(1932)年 東京朝日新聞

9月10日(土)付

見出 東京市庁舎に煙突男 サブ見出 十月一日まで頑張ると叫ぶ
本文 ▽東京市庁舎裏の暖房用高さ百尺のコンクリート煙突上に九日午前十時頃 突如二人の煙突男が出現した。「七万の町民と十八万の下谷区民の熱望、下谷日暮里を併合せよ!」ほか三項目のスローガンを白布に墨痕鮮やかに書きつけた大旗をつるし、煙突の避雷針には日の丸を掲げるという奇観   ▽市役所も府庁も吏員は仕事が手につかず煙突男を見あげる騒ぎ。十時四十分頃ようやく丸の内署の交通巡査がよじ登って旗を千切ったが、この二人は大東京出現について町名改正のデモの目的で大煙突によじ登ったもの  ▽記者は市庁舎の屋根へ登って大声で呼びかけた。「名前はいえないが年は、二十二と二十八の二人の男だ」「君等の運動本部はどこだ?」「煙突の上だ」「いつまで登っているか?」「十月一日の大東京実現まで頑張る」   ▽両人は多量の食料と布団などを用意しており、折からのにわか雨に煙突の穴に板を敷いて頑張っているが、場所柄この珍風景は大変な人気である。

(三項目のスローガンとは、前記事に紹介されているもののほか、
「一個人の選挙地盤のため衆望を阻止する醜徒を葬れ」
「下谷百年の大計を前にして我等は死を以て頑張る」であったようだ)

9月11日(日)付

見出 煙突二人男 下界へ サブ見出 風雨に疲れて
本文 猛烈な豪雨に打ちたたかれ雷鳴電光に脅かされて煙突上で一夜を明かした市庁舎裏の煙突二人男は十日午後六時二分頃、警戒中の丸の内署員の足もとに袋入りの缶詰をドサリと落としたので見上げると、今しも一人がノコノコ降りはじめるところ。まもなく残りの一人もみこしをあげて下降。先に降りたのは飯田彦太郎(二八)であとからの堤卓雄(二二)と共に同夜は留置のうえ家宅侵入で送局されるらしいが、両名の申し立てによると
去る四日合併陳情団の野次馬として一緒に府へ押しかけた際知り合いとなり、九日午前十時自動車で乗りつけ上がったもので、飯田がすっかり疲れて降りるといいだしたのである。
両名をそそのかした小型政治家がある見込みで取り調べている。

野見濱雄「根岸八景」 昭和2(1927)年

雑誌: 江戸時代文化 1927(昭和2)7月 第1巻6号より
根岸八景 
(著 野見濱雄:剣術士 直心影流。浅草公園で明治15年から44年まで常設で撃剣興行を行う。上根岸在住。父の野見鍉次郎<錠次郎>で剣術士。その師は榊原鍵吉で直心影流講武所剣術師範役。根岸住)

根岸は現今では三根岸即ち、上、中、下の根岸に分かれているがその昔は、全体を金杉村と称した。ここ(三島前)を根岸~山の下の意~と云い、御行松の辺りを中村、今の下根岸が大塚であった。
根岸は古くから文人墨客の庵を結ぶ地として知られた通り、土地の百姓の外には、宮様士と称する、輪王寺宮様の家来が住し、江戸市中の大店の隠居、旗本の隠居などの隠居所や妾の圍所が主であった。何時と限らず、あっちでもこっちでも歌澤(*三味線音楽の一種。幕末の江戸の端唄大流行時の流派)や長唄の聞こえるいきな所だった。
その宮様士の中には勘定奉行もあれば、同心もあるという工合に、役割は幕末のそれとほとんど同じであった。加賀の屋敷のところに出羽の本間の分かれがいたが、その本間が大本間、小本間と二つに分かれて、大本間が万事宮様の御用をしていた。宮様士であった友達もたくさんいたが、みんな他界してしまった。輪王寺宮が仙台にお落ちさせ給うた時、最後までお供した阿蘇幸之助も今いれば八十になるが、数年前なくなった。
今手元にある酒井抱一の弟子其一(*原文は「喜一」)の書いた根岸八景をもとにして、昔を偲ぶことにする。

○天台暮雲
坂本一丁目の方から上野の山を望んだ雪景色である。昔は坂本通りを車坂へ向かってゆくと坂本一丁目のところに新門があった。今は鉄道で無くなってしまった。ここから信濃坂へ通じており、この門の上に大きな松が茂りかぶさっていた。この門は朝早くはまだ閉まっていた。そこで所用のものは、車坂の方を廻って行った。今鉄道の構内になっているが今の市電の線路にそって四軒の寺があった。その寺の前を堀が長く続いていた。水草の咲いた朝なぞ誠に趣深き景だった。

○尾久帰帆
荒川の景色である。
飛鳥山下を通ってこの里に流れてくる音無川の向かう一面は広々とした田圃であった。音無川には関が作られていた。それはこの土地の百姓どもが、田んぼからとりあげてきた作物を洗うために作られたもので、俗に洗い場と称していた。今も残っているがあの笹の雪は、朝から昼までしか店を開かなかった。
百姓どもが、暮れに田圃から上がってきた時、笹の雪がやっていると、とかく飲んだり食ったりして金遣いも荒くなり、中には真昼でも、入り浸って仕事ができないので、百姓仲間で昼過ぎまでの営業はやかましく云ってさせなかった。笹の雪の一番の顧客は、谷中から駒込あたりの御家人の次三男が吉原へ女郎買いに行ったのが、朝早く帰ってきてここで朝食をすましたものだ。夏なんぞは吉原から入谷の朝顔を見てここへ立ち寄ったのである。それで「今朝は入谷の朝顔を見に行ったが、実に見事だった」なぞといいもした。笹の雪の向こう角に鶯春亭という会席があった。

○芋坂晴風
芋坂の団子屋といって、だれもご存じの団子屋のところの坂で、上りつめると天王寺の裏門へ出るのである。しごく寂しいところで昼中でも追いはぎが出そうであった。吉原帰りの三男達も朝早いことゆえ、気味が悪くても、腰のもののため多少気が強かったろう。またこの近くに御隠殿と称して、輪王寺宮様の隠居所があった。彰義隊の戦争の時、宮様が三河島へと落ちさせ給うた。が一旦ここへお立ち寄りになったのである。
今の日暮里駅のところに乞食坂というのがある。坂を上がる右手の下に乞食小屋があった。そこに根岸から谷中にかけての乞食の取締がいた。小屋は十四五軒もあった。江戸中の乞食の総取締は車善七といって、吉原の京町のはし、おはぐろ溝の外にあった。今の米久の少し先のところから、小松橋を渡ってづづと行った。幅九尺位の道路のつき当りに衛門があって、その中の玄関構の立派な家に住んでいた。源氏車の定紋のついた高張の提灯を玄関にたてていた。日暮里のもその配下であった。
また町内、町内の番太郎もいくぶんかは善七の配下になっていたようだ。田圃の米久の家に向かって右側に、その家を境にして徳川のためというのがあった。それは伝馬町の牢の病人が「おためへさがりたい」と願って、お許を得てそこで療養したものであった。が、病死したのは善七が始末した。

○大沼群禽
今の日暮里の改正道路を三河島の方へ進んでゆく途中、右へ曲がっていくと、カンカン森と称する森があって、そこに猿田彦の碑がある。その碑を石で打つとカンカンと音がした。で俗にカンカン地蔵と称していた。それより二町(*200m)ほど行くと大沼があった。そこら一帯、荒川までは殺生禁断の場所であった。ここで将軍のお鷹狩りがあったが、一応輪王寺の方へ断ってからでなければ出来なんだ。百姓の中には餌撒きとて餌をまく役があった。今の南千住に住んでいたが、なかなかやかましいものだった。禁断の場所とて群禽を狩るわけには行かなかった。でもあまりに耕作物を荒らすので、金杉村の百姓どもは、竹で作った「ぶつばい」というもので雁などをとっていた。二間半位の竹の一方を畑の一部に杭を打って止めて置き、一方に三間位の綱をつけて引っ張ってしなわせて置いて仕事をしていると三間位離れたところまで雁がきて餌をあさる。すると、その綱を離して雁を引っぱたいて殺すのである。百姓等はこれを時々やる。箕なぞの中へ入れて持って帰った。途中百姓仲間に会ってもうまく取ったといえぬから「病気と見えて死んでいたから拾ってきたよ」といった。鷹狩の布令が回ると大火がたけなかった。二階家はみんな目張りをした。

○御行松時雨
御行の松に時雨の景で今とは違って昔は格別であった。新聞等で盛んに書かれたからはぶいておく。
御行の松の石橋を真っすぐ行った突き当りに、町名主勝田三左衛門の家があった。これは金杉町から坂本三ノ輪へかけての名主で、根岸の金杉村のは糸川某(*糸川伊三右衛門)であった。勝田と糸川と向い合せになっていた。今穴地になっている所。勝田の裏に聖堂御用という看板をかかげた江川八左衛門という板木屋があった。その向こうが御嶽という社で前が一帯原であった。その先が石稲荷、その向こうを廻ってつきあたりに一番最初種痘をした大野信斎という医者がいた。その医者はでっぷり太ったにこやかな人で、両方の袂へ菓子を入れて近所を歩いた。子供をおぶっている人に出会うと、袂からお菓子を出して子供に与えてあやしながら「この子は疱瘡は済みましたか?まだでしたら私が予防してあげますから宅まで連れてお出でなさい」と親切に言葉をかけた。今青木金七という表札があるところがその家の跡である。稲荷の手前、今学校のところに、林清左衛門という徳川の御用達があった。その向こうに江川権左衛門という百姓があったが、それは大塚中村の百姓の口利きであった。それから向こうへ突き当たると「比丘寺」というのが小高いところにあった。湯島霊雲寺の隠居所であったという。その下に「醤油蔵」といって大きな醸造所があった。名高い酒井抱一は下山中天という人のところにいた。雨華庵抱一とこちらではいった。植木屋で喜三郎というのがいたが、茶庭師として有名であった。御影石の地材を見分けるのはなかなか難しいことだそうだ。親仁の喜三郎に、敦盛の墓(*平敦盛の墓は神戸にある)の地材がよいよよいよ、覚えろとて江戸から三度、連れて行かれて見せられたと話してくれた。この里は茶人が多くて、喜三郎は非常に可愛がられたものであった。

○元三島秋月
今私の居るところであって、元は茅葺の社であった。森は、田舎へ行くと今日でも見られるようなこんもりした鎮守の森であった。この辺は寒竹の竹藪があった。そして茅葺屋根の人家が二三軒あった。昼なお薄暗い所であって淋しかった。私は子供時分は下根岸(大塚)に住んでいたので、お祭りのころなぞ「根岸へ行こうじゃないか」と言って友達を誘ったが、「さびしいからいやだ」といって一寸来兼ねたものであった。今は鉄道に、昔の社地もよほどとられて何の俤もない。お祭りには、宮様士も百姓も、隠居もみんな一緒になってお祭りをした。五月十四五日が祭日である。

○護国院晩鐘
東叡山の護国院であって、大黒様をもって名高い。

○感応寺桜花
今天王寺というのであって、あの広い道路の左右にはほとんど桜は見られないが、昔はたくさんの桜で、実に見事なものであった。感応寺の法華往生といえば、皆さんご存知であろうが、お若い方に一筆とれば、感応寺で大きな蓮の花を作った。その蓮の花の中へ入れば安々と往生できるというのである。往生したいという者があるとその蓮中に入れる。すると花が自然としぼんでしまう。しぼむまで周りで太鼓をたたいて経をあげている。花がしぼんでしまう。やがて花を開けてみると中へ入ったものは真っ青になって往生しているのであるが、実はこれは花の芯のところを下にかくれていて鎗でついて殺してしまうのである。尻をつかれてもその血は花の芯から流れて他へは出ない。往生希望者は女が多かった、と聞いている。これが幕府に知れたと見えて、奥女中が往生を所望した。中へ入るときは何物も所持することはできないのであったが、その侍女は女のたしなみというて鏡を持って入った。寺でも鏡を所持して入るのを大いに留めたそうだが、その侍女はどうしても聞かなかった。中に入った侍女はその鏡を尻の下に敷いていたため遂に往生できなかった。このことは老中の計らいであったらしく、それで幕府の詮議きびしく遂に感応寺はつぶされてしまった。その後、天王寺と改称し、改宗して総ての事を寛永寺が取りあつかうようになったのである。その事は天保年間である。今でも谷中辺りには法華寺が多いがこれはその昔感応寺の末寺であった。この感応寺の法華往生は様々な書物にも書かれており、芝居にもあるようだから、その方を見て、詳しいところはご承知ありたい。

水島爾保布 「根岸夜話」大正15(1926)年 時事新報

時事新報 大正15年7月31日から8月8日までの全7回連載
根岸夜話 水島爾保布

その1)根岸から西ヶ原に移った。新築落成とでもいうんだとだいぶ景気もいいが、鉄道線路が広がるので居たたまれなくなって諸氏方々にうろつきまわった挙句、ともかくも・・・・・・ときめた塒(ねぐら)なんだから振るわないことおびただしい。飛行機墜落で爆死したり、自動車と衝突して大けがをしたり、転覆した電車の下敷きになったりしたのと同様、いわば文明の犠牲ってわけである。もっともこの犠牲者、あいにくのことに家も庭も鉄道省技師が策定した拡張区域には一間(*1.8m)ばかりの差ではずれていた。だから先からは決して引っ越せとは言ってこない。もちろん引っ越し料は百も貰っちゃいないんだから、犠牲は犠牲でも少し分が悪い。
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一間向こうは線路の敷地。家屋とっぱらい跡の惨憺たる空地だ。便所の跡がそこら中に散らかって、欠けた七輪、口のもげた貧乏徳利(*長めの口をつけた円筒形の陶器の徳利。酒屋で1升以下の酒を売るときに用いた)、トタンの屑、壁の骨のコマイ竹(*木舞竹。木舞壁に使う竹。真竹や篠竹しのだけを縦割りにしたもの)、坊主になった棕櫚(*ヤシ科の常緑高木)の木、切り倒された芭蕉、ゴム靴の片々、ぶっ壊れた車の輪。~そんなものがバラまかれた中で時々出船の合図のようなやかましい鉦を叩きのめして支那人の豆蔵(*江戸時代、こっけいな身振りと早口で人を笑わせてかせいだ大道芸人)が蛇をつかったり、とんぼ返りをしたりしている。弘法大師ご直伝真言秘密の法なんて冊子ひけらかして勿体らしく並べ立てている大坊主がある。盗みものと見せかけ慣れあい喧噪を景物にコソコソ商いの万年筆屋がやってくる。とにかくに世態萬般斜に見ても縦に見て楽じゃない。
その合間には砂利が積まれている。ゴミクタ交じりの泥が山を築く。ゴロタ石と切り石が運ばれてきては運ばれてゆく。二財三財の手数がのべつに繰り返されている。その手数と手数がのべつに繰り返されている間に砂利は妾宅の酒の下物(さかな)になり、泥は板新町へ長提灯に化けて這入っていくんだなどど、とかくにろくでもない事ばかり考えさせられる。どうも風紀上はなはだよろしくない光景だ。なにしろ近頃の日本の官僚の内容は上大臣をはじめとして一般の公吏公僕おしなべてすっかり支那化してしまったからなア。今更らしく支那を理解せよも誠にチャンチャラ可笑しい。
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毎夜午前の二時ごろから夜の白々明けにかけて、決まって線路工事のチャンガラカツカ、チャンガラカツカだ。時に工夫諸君声をそろえてバクレツ弾のような喊声(かっせい)をあげる。革命でも起こったかとブルジョアがってビクビクするとたんにガラガラズシンと凄まじい音。とても大きなとても重い何かが投げ出されたらしい。震源はつい一間先にあると、いった状態、にもかかわらず鉄道省のヤツ、誠にお喧しゅうございましょうとも吐さない。まったく人付き合いの悪いことこの上もない。しかもチャンガラカッカがお終いになると、今度は汽車って順だ。現在でさえその非文明極まる咆哮と煤煙とにホトホト閉口しているところへ更にそいつが目前に迫ってくるのである。たいていのコケでもまいっちまう。~~とまアいったわけ合いで引っ越すことになったのであります。

その2)根岸は小生の生まれ在所、親父以来三島様の氏子兼貧乏神の氏子として暮らしてきた土地だ。旧居の地を離れるということには多少の感慨も伴わぬではないが、さてその感慨を何にかずけた(*人のせいにする。転嫁する)ものか。周囲の状況実に凄まじい変わりようだ。今の根岸にはもはや「根岸の里」を代表する何ものもない。しいて言えばお行の松くらいなものだが、それとても今ではマッチ箱のような貸家のなかに取り込められて、すっかり意気消沈の体だ。あいつももう長かアかアせんな。あの根回り尺二寸がどこ切って火鉢にでもくらせたらこいつ面白うごずせーなどと、今からもう狙いをつけている手合いがあるんだから、名木も回り合わせた千年目が甚だよくない。霊ってものでもあったらさしずめ補精強腎の薬にでもされて、どっかの雑誌社が通信販売でもするだろう。
小生の家が神田から移った当時の根岸は、北豊島郡金杉村の一部だったそうである。いくばくもなく市内に編入されたが、それでもちょっと出ればすぐに田圃、筑波山まで見通しだったことが子供心に覚えている。

石神井川の枝流れ王子のドンドン堰を落ちて道灌山下から根岸へ這入ると名もここに音無川と改まる。川沿いは即ち当時の文化村だ、寒竹の小垣や山茶花の生垣、土橋板橋が梅松柳それぞれの目印をもつ枝折り戸や冠木(カブキ)門にへとかかっている。宮様士の住宅、旗本の隠居所、造り酒屋の寮、材木問屋の別荘、文人の蘆、墨客の庵、こじんまりと数寄屋作りのくず家の中に納まっているお妾もあったそうだ。年に一度王子の大滝で江戸中の刺青(ホリモノ)比べというのが行われた。星馳雲集した倶利伽羅紋々の勇み手合いが洗い流した腋の下のあぶら汗が、流れ流れてここの囲いの窓の下を訪れたなんてことに持ってゆくと、話の手順は少し狂いを生じるが、兎に角に呉竹の根岸の里の風雅風流ってものは、いつもこの小さな流れ一重を基調にして営まれていた。~~らしい。

数寄風流にもいろいろあるが、江戸人の理想といえばまず抱一好み、種彦(*柳亭種彦)好みの粋と寂とが四分六、三七ないしは半々になっている。といったようなものらしい。たとえば根岸の里のわび住まいというのにしたところで、膝前には三ツ輪くずしの年増盛りがつま外れも尋常に幾分くの字になっていなければならない。古代写し折敷型梨地つや消しのお重のなかには土産の竈河岸の笹巻(*元禄15年(1702年)に初代松崎喜右衛門が日本橋人形町二丁目付近で創業。今も神田小川町で「けぬきずし」として営業している)でも這入っているはず、輪島の高足に南京古渡り八稜の小鉢と伊万里の中皿が走りものと終わり初ものと何かあざらけき(*新しく生き生きしている。新鮮である)ものを乗せて納まっている。掘出し唐津の小片口が箸休めで一口椀の蓋をかえすと中には沈金の梅一輪。例の花林胴の小長の上には尊春亭へあつらえにあぶら気抜きの鍋ものが薄っすらと芳しい湯気立っている。女が取り上げた赤絵唐糸の小徳利をカチリと受けた猪口には道八の小蝦がピチリと跳ね返っていようという寸法、夕あがりの雨のあと行燈にはちっと早い。窓をあけると前の小川は縦しぼ縮緬のようなせせらぎを見せて光っている。それに沿って蓑着て笠着た洗場通いのお百姓が紅さし美しい茗荷の一束を担ってゆく。飲んだくれの面うち、ジマンコ讒山(けんざん)が会津の朱の盤坊(*妖怪の名)みたいな顔にベッカンコをして芋酒屋の丁稚をからかっているすれ違って中通りの煙草屋の姉娘が片手で小褄で路を拾ってくる緋鹿子の結い綿を少し仰向け伏目になっている横顔が、すんなり延びた襟筋とともに、斜めにかざした紺蛇の目を背後にくっきりと白い四分一を一丁はずもうかなんて当座の冗談の下から、前のくの字が字余りといった要領でめり出して、たおやかな指先が膝の上でお狐さんになろうとする。~とまアいったような趣向のものだったろう。なんだか奉書漉の伊豫植へ手刷りでかけた木版に申しわけほど生毛(うぶげ)立ちして一しほ調子を柔らげたかの気持ちが携う。とにかく昔は所がらも人がらもたいぶ味に気が利いていたには違いない。蛙の声まで爪弾きに乗ろうってものだった。

その3)音無川~~土地の人の間には堰という名で通っていた。川沿いの野路を隔てて一側(かわ)ならびに並んでいる家の背ろはすぐに田圃、稲荷(とうか)の森にカンカン森が丘陵のようにこんもり盛り上がっていた。はるかに遠く千住の榛(はん)の森が帯のように横たわる。それの向こうに筑波の紫がほんのりと匂いを浮かせる。大路の大曲りからあっちは漬菜の名所の三河島村、川に沿って少し上は谷中生姜の産地の谷中本、季節になるとカンテラつけて夜市が立った。川の水だって今からみればそれこそ涓々(けんけん *小川などの水の細く流れるさま。ちょろちょろ)玉を咽(むせ)ばしていたといってもあながちならぬ感がする。底には清らかな小砂利が透いていた。ところどころには葉の長い藻草がゆらゆらと縞のように靡いていて、その間を小蝦や鮠(はや)っ子が抜けつ潜りつ泳ぎ回っていた。めだかなんかは川のどこへ行ってもむやみやたらと調練をしていたので手拭でも五匹や十匹わけなしに掬えた。挿秧(そうおう *早苗の植えつけ。田植え)の時節になると緑鮮やかな新藁が束のままいくつも幾つも流れて来た。新藁がけの投げ島田―といえば当時の根岸の女の美しい色どり・・・だったか何だか知らないが、そういうことにしておいてもどこからも苦情は出まい。初夏の根岸の寮にはぜひともなくてはかなわぬ特徴の一つだ。
貝塚の洗い場、一本橋の洗い場、笹の雪の洗い場、お行の松の洗い場などという洗い場が川のうねりうねりに板流しを張り出してあった。上野の森の真上にカラスが群がり騒ぐ頃から、時には夜へかけて提灯やカンテラがせせらぎの上に光を乱すこともある。畑から運ばれ市へ送り出される漬菜や生姜や大根や芋やネギやがその流しの上に山と積まれる。姉さんかぶりにたすき掛けの女手合いに、頬かむりの若い衆も立ち交じってとても賑やかにとても忙しい。今ならさしずめ浪花節ってところだが、その頃はおいとこそうだにからくり小唄、葛西回りの麦搗き唄なんてものが、洗う手のさし引きに節度を合わせていかにも楽しげだった。
夕立ちあがりかなにかで水かさが増すと、きっと蓑笠でたちで四つ手を張る人が、あっちの橋こっちの橋と点々とした。千切れた雲間から射す夕日の金色が濡れ映えた生垣から生垣に煌めきを刷きつける。その反照の中に蓑が光り綱が光りそうしてそこにかかって跳ね返る魚が一しほ鮮に光かがやく。胴回り一尺耳の生えている大鰻がかかったことがある。目の下二尺八寸なんて真鯉が漁れたこともある。(*水島「愚談」(1923(大正12)年5月)の根岸の記述部分にも同じ記載あり)
その音無川も今日では名も大溝(おおどぶ)と変わって、根岸日暮里の境界に浅ましい残骸を横たえている。汚濁混濁に徹底し抜いた中には恐らく丹毒とチフスと、その他いろんな病毒素や病菌が百鬼夜行といった姿でうようよしていることだろう。たまには溝泥(どぶどろ)を浚いあげて多少とも水はけをよくしたら、せめては発散する悪臭だけでも幾分薄らごうものを、小生が知ってから以来、ついぞ一度の溝清掃を見たことがない。市と府との境界線上の存在なのでお互いに責任のかづけっこでもしているらしい。病菌ってやつも府市の吏員のように杓子定規を頑守していてくれると誠に始末がよろしいが、厄介なことに国籍もなく国境もない。まるで芸術とそうしてラジオみたいなやつである。

その4)笹の雪の豆腐と岡野の汁粉、この二つが往時、根岸名物として並び称された。入谷、朝顔(団子坂の菊とともに明治時代の東京名所花暦の筆頭(ふでかしら)、どちらも明治末年相次いで亡びてしまった)見物の戻り、大半は豆腐か汁粉を目的に根岸へとやってきたのだ。上野の森が残んの(のこんの *まだ残っている)朝靄で篭ってお納戸鼠にぼやけている頃からして、坂本口からうねり込んだ狭い往来は衣香扇影で賑わいぞめいた。その間を縫ってせんざいものを満載したおそ出の車が一つ行き、二つ連なる。露ながらの芋の葉裏に寂然としていた雨蛙が、なにかの拍子でいきなり通りすがりのそれ者出らしい意気な御新さんの紫印金の帯を狙って飛びついたなんて漫画振りの即興も時にあろう。
文壇に根岸派という名が唱えられたのも多分この朝顔汁粉の全盛当時だったろう。誰だったかよくは知らないが、後年子規を中心にした俳句の根岸派とは全然意義も内容も違う。たまたまこの台北の一衆落にとりあえず卜居(ぼっきょ)している人々をただかりそめにそう呼びなしたまでのものらしい。とにかくその頃の根岸にはいわゆる文材の遊士に向きそうな小体(しょうたい)で気の利いた家は至るところに残っていた。
~草双紙好みの柴垣に草屋根の小びらき、表札には松花堂がくすぼれていたり、あけびの中垣をへだてて濡れ縁ついた小座敷にその昔江戸の誰かが使ったという因縁付きの文台(ぶんだい)を据えていたり、真菰河骨の生いかぶさった古池に囲んだ中二階に、良寛短冊 其人と狐村合作の扇面 蜀山が妾の許へ送った狂歌入りの艶書 恵斎ざれがきの大津絵振り 光孚(*みつざね 土佐光孚 土佐派の日本画家)が際どいとろテンゴ書きした調伏の文反古、了阿、夷振り鶯邨の小裂れ~といった類を貼り交ぜた寸づまり、二枚折を背に、和漢の珍本を雑載した文車(ぶんしゃ)をきしらせていたり、・・・その合の景物には枳殻(からたち)横丁の先生の奥さんが素足に吾妻下駄カラリンシャンとやって来て、今日やどが網打に誘われましてとの口上、せいごの二才三才かいつと鯔(いな)のきびきびとしたやつを取り交ぜて十一本、芝蝦二十程を副えものに、鍋嶋皿へ青笹しいて持ってくる。お礼の一札は唐紙の詩箋、当座の一勺もあって尚おうつりには昨日到来の葛飾小豆を目分量で五ン合程~といった交流(つきあい)がお互いの間に繰り返されていたかにも想像される。とにかく今の郊外新開の赤土の上で物干竿のアンテナを突っ張らせ、郵便や箱の下へ「何々新聞お断り」なんてやって居るのから見ると全く当時の太平さが思いや見れる。
殊に今時分、晩涼のひとときほどは団扇片手にお隣同士が各々前の土橋と板橋に立ってよもやま語り、昨夜から坂本の寄席へかかった怪談噺の評判なんかも出る。蚊遣の煙が靡いて絡んだ山茶花の垣を隔てて牡丹燈籠のお露のような高嶋田が狩野派の先生で石州流の宗匠の子の新三郎にお手製の蛍籠へ一筆何かをこっそり頼んだり何かしている。竹の涼み台に釣瓶形の煙草盆、國分と水戸を交換しながら入谷の朝顔園朝涼みの一時を取り込んで若旦那と芸者の粋筋をからめ、お静礼三(*歌舞伎狂言。本名題「契情曽我廓亀鑑(けいせいそがくるわかがみ)」。世話物。9幕。河竹黙阿弥作)をぐっと陽気にいきたい。~なんて昨夜浮かべた趣向の話なども出る。
こんな時代と思いくらべると実に凄まじい変わりようだ。今では、医者もいれば待合もある。町会の役員連が区から配給の乳剤を私したり、区会の亡者が活動写真館建設の運動をやったり、小学校児童の家庭協和会というのが二派に分かれて鴉の雌雄を争っている。どうも根岸の里もひどく浅ましくなった。音無川の泥溝(どぶ)になるのも道理こそである。

その5)根岸うちでも随分諸々方々と引っ越しまわった。その間二度まで化物屋敷というのに住んだことがある。初めの家はそういう噂を百も承知で借り受けた。家賃が格外に安かったからである。その怪談というのは昔その家の誰かが井戸へ身を投げて死んだ。その怨霊が今にその井戸の底にこびりついていて、時々籠り音に咽び泣く声が聞こえる。その水で洗濯したものは、日中はどんなにさっぱりと乾いていても夜になると必ずじとじとになる。~というのだ。
もとは茶人が住んでいたとかで、母屋六間(ま)のうち三間まで炉が切ってあった。茅葺の軒には低い霧よけの庇が出ているので、どの部屋もどの部屋も常に雨の日夕暮れといった薄暗さだった。別に三畳の数寄屋が一つ、用材は元より露路のつくり、前栽(せんざい)の配置すべて申し分ない寂びを持っていた。むろんこれも天井が低くあかりは北に突き上げが一つ切ってあるだけなので、室内にはいつもうっとりと影が籠っている。とにかく陰気だ。化物屋敷としての委曲(*詳しく細かなこと)は遺憾なく尽くされているといってもいい家だったのである。
居は心を移すなんて言葉もある通り、幸い持ち合わせの旅つかいの仕込み籠に茶碗、中つぎ、茶杓、蓋ぬき、茶巾、錦紗の一通りは揃っていた。それを炉の前にならべ梅が香につつじの小枝を折りくべなんかして小霰に松風の通うのを待ったものだ。まずまア青黄粉にムクの皮といった納まりようで、かれこれ五か月も過ごした。
元よりお化けなんかの気もなかった。洗濯物もよく乾いた。泣き声なんかは似たものすら聞こえては来なかった。すると第六か月目に家主から家賃引き上げの通牒が来た。本月から倍額にするというのである。交渉すると今まで悪い噂があったので法外格安の値で貸しておいたのだが、既に五か月も居て何事もないとなると何も斟酌には及ばない。世間の相場通りを申し受ける~というのだ。なんだか馬鹿な破目になったような気もしたが倍は到底払えぬ。でとうとう越してしまった。しかしその家は私が出てから一年あまりも空き家になっていた。その後方位占考の名人といわれた人が買い取ってすっかり面目を改めたがこれも一年足らずでまた主が変わった。この方位見の先生は本所へ移って地震に遭い、被服廠跡へ難を避けて家族残らず惨死した。その家に雇われていた女中に神田から来ている者があって、いよいよ主家の一同被服廠跡へ避難することになった時、その女中親の生死が気になるから、ひとっ走り行って見舞ってきたいと申し出た。と先生、お前の星に神田の方角は大凶大悪に当たる。ことに今日のお前の運命は水を渡れば、難に遭うことになっている。~と止めた。けれどもどうしても聞かない。是が非でも親兄弟の安否を見極めさせてくれといった。結局みんなから馬鹿呼ばわりされながら水を渡って親元へ走せつけた。おかげでその女中だけは死を逃れた。

その6)二度目の化物屋敷というのは今の西ヶ原へ移る前までいた家、怪しい噂は界隈誰知らぬ者もないとのことだが、この方は借り入れる最初から移り住んで足かけ二年の間、私は元より家の者誰一人としてついぞ一度そんな評判を耳にしたことがない。這入る前ならともかくも、現在住んでいるその人にまさかにそんな話は聞かせたくない。だから今まで黙っていたが、実は・・・・なんて、そこを立ち退いた今日になっていろんな人から告げられた。なんでも番地で尋ねるよりは御隠殿の化物屋敷ときく方がよほど判りがいいんだそうである。町中で知らぬは何とやら、とかく、世間の物事はこうしたものらしいから恐れ入る。しかしお陰で私も町内には名をあげた。
家は根岸のどんづまり、裏の小溝が日暮里との境界だ。大槻文彦先生の旧居で後二三度代替わりがあって、今は東北某市の料理屋のお妾の持ち家になっている。周囲の状況も屋敷回りも庭回りも全く当年の面影はないが、でも離れの茶室と表座敷と裏の小座敷だけはもとのままだと、とある一日大槻老先生わざわざ故宅の跡を訪れてのお話だった。当時は庭の半(なかば)が大蓮池、池の真ん中どこに乱杭打って四ツ目に結んだ竹垣を渡しそれを隣との中仕入りにしてあるとのこと、その垣を中に取り込めて太藺(ふとい)や真菰が生い茂っていた。更闌け(こうたけ *夜が更けて)人静まって後などはそこらあたりの水草がくれに、おりおり水鶏の叩くのもきこえた。~と、もの静かな声音の下に銀髯がゆらぐ。して敷島がぺろりと舐められた。その頃の先生は言海の校訂に日に夜をついで精励されていたのである。
大槻博士言海陳述の所、いうまでもなく文化史蹟として資料として子規庵とともに根岸が持つ最大な誇りに相違ない。それがいつの頃からかお化け屋敷という名によってより有名になってしまったんだから~いやまだある。私の借りる前には阪神地方の会社を相手に二十何万円からの詐欺を働いた男が住んでいた。それがこの家から召し上げられて行った。爾来詐欺師の家とも呼ばれたそうだから、~どうも歴史ってものも見方によっては変なものになる。
ところで、そのお化け屋敷だが、その家の中で特に怪しいというのが離れの四畳半とそこへ通う廊下~すなわち大槻先生の水鶏の亭だ。庭に面した壁には詐欺師がしたか子分がしたかはしらないが、生新しい鉛筆で芸者の名とも覚しいものが三つ、小気味のいい悪筆でなぐりつけてあった。~なんだそうだが、そこには移って以来、一年あまり私が常住寝起きしていた。しかも夜ふかしが常癖で床に就くのは早いときでも十二時一時、夜を徹することも珍しくはなかった。だがお化けにも鎌鼬にもとんとお目にはかからなかった。

その7)とはいえ、今にしてそういう評判をきくと思い当たることがないでもない。移った当初離れに寝た翌朝は妙に腹が痛んだ。池に近いせいで他の室よりは幾分●もするらしい。そういえばあすこの隅に積み重ねておいた座布団の下の一枚畳に触れている片側が、いつもしっとり水っ気を含んでいる。しかも畳の面(おもて)には別段に露の気もない。訝しなことだなんて女房がいう。注意するとそこの母屋の間の空地へ落ちる雨水がことごとくこっちの床下へ流れ込む。畳を上げて床を剥がすと下はまるで井戸端か流しもとのようにじめじめしていた。土台の栗丸太には白っ茶けたきのこが生え、床板の裏も表も黴でぬらぬらだった。いかさまこれじゃあ腹も痛もうってわけで、結局床下へは瓦斯がらを敷きつめ、空地はセメントで叩いて落ち水は外の下水へとさばきをつけた。それかあらぬか以来、私のお腹にはなんの異常もなくなったが、何をいうにも家が古い。そのかみの根岸の里の文化家屋の様式を辛うじて留めているとはいうものの、すでに貸家となった今日根つぎにも手入れにもできるだけ銭を悲しんである殊には先度の大地震ですっかり緩みが来たうえに毎日毎晩汽車でひっきりなしにいたぶられている。ちょっと見はともかくも住んでみると毎日のホコリ丈けにでもうんざりする。
そこへもって来て鉄道線路の拡張工事のドガチャガ騒ぎが始まった。結局根岸落ち文字の通り蒙塵(もうじん)って段どりになった次第だが、いよいよ明日は家移りとなった最後の晩にたまたま親爺が怪しい夢を見た。
夢話しは移転を終わったその日の晩餐後に出たんだそうだが、ちょうど引っ越しの前後、私は仕事の都合で鎌倉へ一人別居していたので、直接には聞いていない。女房からの伝聞だ。
・・・・・枕もとへ幻のような人影が座っている。紛れもなく男の姿ではあったが、どんな顔だかはまるっきり判らない。誰だといった。返事がない。起き上がってもう一度誰だ、といった。と、その影はすうっと立ち上がってしきいの外へ出た。そうして廊下伝いで離れの方へ歩いていく気配だ。その夜離れには私の弟が寝ていた。その名前を呼んだ。怪しい奴が行くから捕らえろと叫んだ。そうして急いで電燈をつけようとしたんだが、どういうものかスイッチのありかが判らない。電気をつけろ電気をつけろと繰り返し呼んだ。ふと足元を見ると、切りほごした風呂敷包みが一つ結び目が解けて、中から人間の手だの足だのが転がり出ていた。びっくりして思わず飛び退く。先前の影は廊下の向こうへ行ったり戻ったりうろうろしている。もう一度、弟の名を呼んで早く捉えろといった。ところへその弟がシャツ一枚でやってきた。何ですか、何ですかとキョロキョロしている。そこにいる影のような奴が見えないかといった。そんなものは居ませんよと平然として立っている。とかくしてやっと電気を捻った。・・・・と思ったら夢が覚めた。~というのである。
その日の引っ越しの手伝いにいた女房の姉なる人(*女房の福子の姉 孝は画家 高屋肖哲(狩野芳崖の四天王の一人)に嫁ぐ)が、お父さんもとうとうご覧になったのですね、といった。姉なる人の説によるとこの家は久しい以前からお化け屋敷と噂された家で、お化けというのが親爺の処に訪れたような影なんだそうである。今まであの家に住んだ者で一人としてそれに悩まされない者はない。そうしていつも必ず廊下から現れて離れへ消えるか、離れから出て廊下へ消えるかするのだそうだ。お化けにしてはいやに規帳面である。おまけに永の一年出そびれ抜いて、いよいよ今夜限りという最後に義理ずくか意地ずくで現れたところなんかすこぶる滑稽だ。がとにかくにこういう古風な怪談をもった家が今日までも残っているところなんかはさすがに根岸らしい(完)

水島幸子 「根岸のたより」 大正14(1925)年 婦女新聞

大正14年4月5日および5月17日の全2回連載
カンカン森の今昔 ~根岸のたより~ 水島幸子

その1)過ぐる3月18日の日暮里町の大火は、アノ恐ろしい大暴風の中を6時間も燃えて居た。近頃にない火事で、焼失戸数二千に余ったと伝えられる。10日も経ったきょうび(*今日日)根岸辺りの店屋に続く出窓の格子や、しもたやの門などに張り札がされて、「火事の時お預かりした夜具二枚受け取りにお出で下さい」とか「ここにあった布団の包みは家にお預かりしてあります」とか書いてあるのを見かけたり、上の方から泥などの落ちてくるのに気づいて見上げると、瓦を踏み壊されたらしい大屋根の手入れをしているところがチョイチョイある。焼けあとから一丁も離れているところでさえこんな風では、焼けどまりのお隣に当たるお行の松の松風屋のおじいさんなんぞは、あの不自由な体とあのきゃしゃな風流な店と住居とがどんなにあぶなかったことだろう。(*人物誌3-21 辻 暁夢1850?-1927 名物松風煎餅)そしてまたさぞ混雑続きに悩んでいることだろう。幼友達のお歌さんのお母様の再縁した家で、妹の友達のお若さんの生まれた家、門の柳はもう芽がもえたか、蠣がらを乗せたこけら屋根は無事だろうかと、ふと思い立って尋ねたのは26日のひくれがた。未だきな臭いにおいのただようなかに「お行の松」は辛くも火をのがれたドス黒い色で余命いくばくともなさそうな葉ぶり枝ぶりをうすぐらく見せたその下に、焼けあとから運び込んだらしい欠け皿や、こわれ道具、半分焦げた屋根板だの、石だの泥だのが山と積まれて、ふだんは人の行き来さえ禁じて名所保存につとめた張り縄の姿などは、見るべくもない。当の松風屋の小さな柴折戸の壊れているのはもちろんのこと、まばらに結った生け垣は、荷を運び出す人達の努力に呪われて形も止めぬまでに踏みにじられたまま、まだ手もつけず、「辻暁夢」と書いた名札だけはデモ取り残されたほそい門柱に残って、肥った身体をみうちのものに助けられながら風流三昧に世に送っていたお若さんのお父様は、無事に寝室の中の布団の上に座っていた。今日から店をはじめたとか言って、若い人達は皆松風や紅梅焼をこしらえにかかって、お歌さんのお母様がひとり背中にちいさい孫を負って、かいがいしくも片付けものしているあたりは、なにもかも片付け切ることの出来ないものだけであった。「まァもうすこしサキへいらしてごらんなさい。よくもこうして残してくれたと思うように際どいくぎりまで、日暮里は焼けて根岸は残っておりますよ」と松風屋で教えられた通り、根岸病院の手前は三尺足らずの溝一つを中にして根岸の境は焼け残り、日暮里の町は無惨にも火になめられてしまっていた。焼け跡はちょうど20年、30年目の田圃(そのころその所はこの焼原よりも広く、ことに東に広く延び、その広い田圃の真ん中に小さく2,3本木が生えているように見えたのがカンカン森であった。)そのままに広々として、大方はすでに板囲いをしてあり、バラックも点々と営まれてはあったが、焼ける前のようにぎっしりとつまった人家とは似ても似つかぬ変わり方をした中を二丁ばかり来て、カンカン森のあとへと出る。「おうたや、あなたがたが、つみくさでおなじみのカンカン森は焼けなかったって事ですよ」と今きいて今見に来たこの森、ここも幸い焼け残りの焼け止まりである。
カンカン森。森とは名ばかり、数本の杉檜、それさえ先日の火にあって葉はあかあか焼けただれ、枝まで細くやせたように見える傍には、それでも高さ三尺ばかりの屋根をしつらえた下に猿田彦大神と刻した石が台石の上に立って、前には線香を備えるくらいの設け(もうけ)がある。
「奉造立庚申供養、享保十三戌申十一月吉辰日講中」とわずかに読みえる墓石形の石がある。これの台石には十人ばかりの人の名が、伊兵衛とか長左衛門とか太郎兵衛とか半左衛門とかほりつけてある。そのまわりの空地は十坪あるかなし、往来から猿田彦の石までゆく一間半ばかりの間へキリ石を敷いたほかには、草一本生えていない名ばかりの森である。こころみに小石を拾って、猿田彦の石へ投げつけてみても、その昔、田圃の真ん中にあったカンカン森のなかで聞いたような、カンカンという澄んだ色音は聞かれない。どうしてこのカチンという音が昔はカーンと聞こえたのか、確か自分も子供の頃、近辺の言い伝えのままに小石を投げてみた時に、こんな薄とぼけた音は聞かなかったように思う。四周(ししゅう)の樹木も今少し多く、見上げるような榛(はん)の木や、葉の下は少し暗かったかと思えるような椿の何本かや、欅(けやき)や槇のかなり太いのに交じって楓の若木と花の咲いたのを見たことのない桜の木、それに交じって八つ手というのもあったように思う。そして何本かの枯木の間には名を知らないつるくさが伸び伸びして、蔦の葉に交じったり雑草へからんだりしていた。北の方を近く常磐線の汽車は通ったけれども、その先は遠く筑波山がうすくかすんで、西の方は谷中の森が形のいい枯木の間へ五重の塔をはさんで上野へと連なるあたり、それこそ絵にある通りの鳥の幾羽がねぐらに帰るのが見えて、いまごろはもうあっちの田にもこっちの水にもうるさいほどの蛙が鳴きたてる。ほんにこのあたりで鳴くゴイサギの声はよく上野近くまでも聞こえたものだったそうな。夏は蝉を捕える男の子のいい遊び場で、摘み草の頃は籠を下げては寄ってくる女の子達の格好な休息場となっていた。そうしてその頃は猿田彦大神の石はむき出しのまま林の奥まったところにあったように覚えている。も一つの石は、森の口もとの方にあったような。広い広い田圃の中にポツンと立った目印みたいなこの森は、秋の九月の強い日光を浴びながらイナゴ捕りなどに出かける子供たちが、暑さをよけたり休息したり、ちょうど砂漠のオアシスだなどいうものもあったほど、森の形は保っていた。そうした樹木の立ちあんばいや、四周は田圃で水があり、ことにこの森の近くには蓮根をつくる水田が多かった関係から、立石にあたる小石の音も山彦のように響いたものででもあったのか。何にしてもこの懐かしいカンカン森が、町の真ん中の三等郵便局をお隣にして、境内であったところには消防ポンプの倉庫ができ、樹木の茂っていた森の入り口が人通りの多い往来になってしまうとは二三十年前には、誰も思いもよらなかったことであろう。活動写真というものさえ知らなかった三十年前の子供の一人は、ここにこうして焼止まりとなった幸福な森を後に、少し離れた金美館とかいう活動小屋を訪ねつつ、暮れるに遅い春のたそがれをガラスのこわれの散らばったなり踏みつけられた焼残り途に、しのぶよしもないその昔の、そのあたりの田の畔(あぜ)で摘んだよめな(*万葉集に春の若菜摘みとして最もよくうたわれているのがヨメナである。若苗が5~6cm伸びたころ摘みとり,ゆでて浸し物,あえ物,いため物にされる。春の若菜の中で美味で,花の美しいところから嫁菜の名がつけられた)の小包を手に下げて、同じ年ごろの子供たちと連れ立って家路をいそぐ自分をかえりみた。ふと又人目を避けたげな彼と彼女が、静かにあの森のかげへと姿を消した二十年前のある夕べを事あたらしく思い出した。

その2)このあたりでは毎年若葉の頃になると蚊が出てきます。殊に「せきのはた」という、これは土地っ子の使う言葉ですから今どき余り知られないかもしれませんが、むかし音無川と称(たた)えた細い流れが、上根岸から中根岸の北、下根岸の西を流れて三ノ輪から山谷の方へと下って行ったので、上流は石神井川の支流だということですから、元はどんなにかきれいな水であったでしょう。私が子供の頃、三十年も前でさえ、てるてる坊主などを流した時は、見る間に下へ流されてゆきました。ですから、この流れに沿った道路のところどころには、洗い場がこしらえてあって、その頃その近くの田や畑でとれた野菜類を、お百姓さん達がよく洗っているにを見かけました。お行の松の下には二か所も、この流れの前へ板を張り連ねてこしらえた洗い場がありまして、その洗い場の前後には流れに浮かぶ塵や木の葉を塞く(せく)仕掛けがしてあったように覚えております。その後その流れを堰、堰と呼んで、それで通って(とおって)おりましたのは、こうした関口がつけてあったためでもありましたろうか。月日の流れにおされて、この堰の水は、とうとう流れも悪くなり、幅もせまくなって、当今では誰も彼もみな「どぶ」という名で呼ぶようになりました。その「どぶ」のふちが「せきのはた」でございます。この「せきのはた」くらい蚊の出が早くて、蚊の多いところは根岸にも少ないのです。すでにどぶと呼ぶほどの流れですから、町会の組合でも申し合わせて、石油でも撒いて下さったらなど、この頃この辺りで言い交されます。がまた近くこの流れを広くして水運の便を計るたくらみもあると聞くと音無川の復活などということも思われます。
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住み慣れた土地を退くのもいやですが、根岸にはもう根岸らしいところがなくなってきました。春が長けて(たけて)蛙の声にきける夜は、数えるほどしかございませぬ。朝朝都会へ出る荷馬車の馬子が、鼻唄気分で空車へ腰を掛けながら、申し訳ばかりに手綱を手にしたのが、何十台となく通るその響きのせわしさと、家の近くの青物市場へ荷を持ってくる、近在農家の牛車の牛を、ちょうど門の前へ、午前中はほとんどずっと置かれるのがイヤで、根岸らしいところのある家を探していますが、なかなか見当たりませぬ。家を買おうとする人さえ、家を新築しようとする人さえ、思うままの家や土地を自由には得かねるというのですから、借りあるく宿無しどもはうるさくとも、臭くとも、病人の神経にさわろうとも、屋根の下なら、畳の上なら我慢しないじゃアならないものかもしれませんが、一日も早く、も少し静かなところへ住んで、身も心も落ち着かせたいと毎日毎日念じております。
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三年前にこの家へ逃げ込んだ時も、ちょうどこんな気持ちでした。もとの家のすぐ隣家は鳴り物のお師匠さんが越してきたころ、もう一方の隣家へは、二階の貸間へ義太夫好きの人が住みついて、夜も昼も精を出されたので閉口したあげく、この家は、隣家は寺院で、裏はその墓地、前の往来は幅が広くて、例えばいずこの隣でどのような賑やかな催しがあっても、うるさく聞こえてはこないという申し分のない家であったのに、永く住み続けられないで、又もほかを探すのは、借家人根性の一種のようにも思われて、わが身ながら気の毒でなりません。誰かいずこかで、いまに住むところがなくなるぞと言われているようだ。


水島爾保布 「根岸夜話」 大正14(1925)年 雑誌「郊外」

大正14年8月号
◇また居を移した。やっぱり根岸のうちではあるが、裏の小溝一つを境に日暮里谷中と隣り合わせになっている根岸北際のどんづまりで、里俗御隠殿と称してはいるが、果たして当時の御隠殿なるものの一部であったか、圍い外の田圃であったかは詳らかでない。それはとにかく今度のところは今までと比べて地の利はだいぶ悪い代わり、昔の根岸といった趣の幾分かが残存しているだけが目っけものだ。わずかばかり庭らしいものがあり、ちっぽけな池もある。八つ手に青木にあじさいに萩、ムベ(*アケビ科ムベ属の常緑つる性木本植物)のからんだ四ツ目垣、ブリツキ屋根(*ブリキの屋根)ではあるが茶席がかった離れが一棟ついている。客来らば折り戸を開いて庭伝いに招ずるといった要領で、先まぁ金閣銀閣に使唆(*シソウ:人に指図して、悪事などを行うように仕向けること。指図してそそのかすこと)された往年の文化意識の遺伝と形式とがどうやらこうやら、この一角に保存されているとでもいうところなんだろうが元より本物じゃない。文句をいえば、ぐるりは新時代バラック建ての貸家でことに庭に背を向けた一軒なんかは二階建ての破目一杯に地震当時応急手当にブッつけた四寸抜きの筋交いがまだそのままに、椎と冬青(ソヨゴ:モチノキ科の常緑低木)と楢の葉の間から切に危険と警戒の高唱をやっている。かてて加えて汽車の線路に近い。荷物列車が通る時なんかは家中の建具障子がリズム的に震動を始める。わけて離れのちゃちなのに至っては、移った当座なんかその都度、心機頓(トミ)に新なるを覚ゆといった具合で、なんのことはない昔の文化生活が近代科学の力で年がら年中いたぶりたてられているわけだ。つまり時代そのものの一つの姿ともいえよう。
◇家は復軒大槻文彦博士の旧居で在住二十何年の間、先生は言海の編集とその改訂に昼夜なき精進を続けられていたのである。であるからこの時代と汽車とにいたぶりたてられている過去の文化遺跡も大槻先生言海完成の家だとすれば別の意味での文化史的価値は大いにあるといわなければならないが、こいつ吾輩の名誉にはあまり関係は及ぼしようもないんで、どうも張り合いがない。で先生の卜居(ボッキョ:この地と定めたうえで、住むこと)当時はあたりの状況ももちろんいまと大分に違う。庭も広く池も大きくそこには蓮や真菰(マコモ:イネ科マコモ属の多年草)や河骨(コウホネ:スイレン科の植物の1種)が一面に生い茂っていた。汽車だって今のようにのべつには通らなかったし、隣はあってもこんなにひっついてはいなかった。その頃の今時分には夜更けて稀に水鶏(クイナ)の訪れてくることなどもあったとは、先生自身の話であるが、当時先生が筆の手をやめて、叩く水鶏に耳そば立てていたこの離れでこの無駄話の原稿を書いているなんかは一寸愉快だ。もっとも水鶏の代わりに日暮里駅を離れる電車の汽笛に続いて庭となりの家の時計がハイスピードで12時を打つのがきこえる。でもその間、蛙の声が交わるところなんかはさすがにまだ根岸らしい。-で、大槻博士の後へは誰々が入った知らぬが、その間幾変遷(イクヘンセン)かを経て、今度我輩が借り受けたわけだが、我輩の前には神戸大阪の会社や銀行を対手(タイシュ)に二十万円からの詐欺をやった男が住んでいたそうだ。二十万円からの詐欺をやろうという男にも似合わず、大家はもとより近くの商人米屋酒屋から簾屋下駄屋新聞屋まで片っ端引っかけてしかも去年の7月から今年の3月、刑事にフン捕まるまで足かけ9か月の間のんべんだらりと暮らし続けていたんだそうだから実に痛快極まる野郎だ。そしてなお残った家族は少なからぬ引っ越し料をせしめた上に、池の金魚は根こそぎ、電燈のかさから天井板まで引っ剥がして持って行ってしまった。畳も建具も庭も縁の下も申し分のない住み荒し方で離れの壁へまで芸者の名前や性の研究者なんて手合の喜びそうなヘンテコレンな物体を書き散らしてあるという体たらくだ。そいつの繕いに大家さんもだいぶな入り物だったそうだが、後へ飛び込んだ我輩までが少なからぬ損をしたんだから少し痛快すぎる。のみならず大家の爺さん、二言目には前の詐欺師が詐欺師がとぼやくのはいいが、それが度重なるとまるで我輩が詐欺師の紹介でもしたかのようにも受け取れる。こうなると少し手に負えない。往年の根岸文化が詐欺師の保護色に使われ、その詐欺師をさらに大家が保護色に使おうというんだから文化の内容、だいぶ複雑だしだいぶ世知辛い。
◇江戸名所図会の説によると花になく鶯、水にすむ蛙もこの里に産するものは自ら一節(ヒトフシ:他と異なって目立つ点)あるそうだ。往年の文化村あるいは文化住宅地帯であったわが根岸の里の生活ってものは、鶯と蛙を中心にして営まれたものばかりではまさかあるまいが、とにかく当時の文化人の文化意識ないし生活意識およびその道徳意識ってものは、今のいわゆる文化生活者とは少しわけが違う。少なくともラジオとダンスと赤瓦とカフェと、そうしたものの放射線をたてのかぎとし、よこのかぎとして解決しようとする手合いからみれば、よほど精神的であるともいえようし、自然に対する観念、趣味、感覚、造詣、理解等についても今の文化人が常にもっともらしく口にし、また耳にしているところを、最も簡明に具体的に行っていたともいえよう。で、この文化生活と文化住宅とが自然との了解の下にあるいは茶梅の生垣に囲まれまたは小川と土橋と寒竹と枝折戸によって営まれたところに、根岸の里ってものが形作られていたんであるから、この間の消息状況ともにとてもハンチク(はんぱなこと)な美語じゃア説明できない。
◇往時の根岸文化村の主要な色彩をあずかっていたものは「せき」すなわち石神井堰から引いた用水で一つに音無川なんて呼ばれた。底には金魚藻なんかが生(は)え、靡(なび)いてとても綺麗な水が石を鳴らして流れていたとことだが、今は見るさえむさくるしい溝っ川で、何と何との化学的変化を示しているのか察しもつきかねるほど、真っ黒く濁りかえっている上面にはデキモノのような泡ぶくがゴミ屑と一緒に浮かんでいる。ばい菌はとにかくゲンゴロウだって蚊の幼虫だってとても生息できそうにない水の色だ。太陽の光だってあんなのへ射したが最後、ついに腐ってうじゃじゃけて(熟したり腐ったりしてやわらかくなって形がくずれる)しまいそうな頗るつき非衛生な姿をさらけ出して、我輩の家へ通じる板橋の下を流れ、昔御隠殿の正門があったという石橋の下を流れ、守田勘彌君の堂々たる門前から根岸梅屋敷の遺跡である野田九浦君の区画整理の影響ですっかり弱りかえっている門前を流れ、流れ流れてついに郊外主筆岡野知十先生の茶席の下をかすり、八つ手を植えこんだ門のそばをよぎった挙句、大うねりにうねってさらに御行の松根方で半円を描いてのべつ不断に臭気を発散瀰漫(びまん)させながら悠々と下根岸から三ノ輪へ落ちて行くんである。実に失礼千万な溝っ川だ。根岸文化の研究資料史的記念も全くその末路の惨憺(さんたん)さ目もあてられない。根岸文化といえば、いや根岸文化というより江戸資料の記念ないし史跡に、御行の松および御隠殿跡へ東京市が石標の一本くらい立てないのは嘘だ。東京市がやらなければ町会でやるがよろしい。乳剤をまくことも必要だろうが、お互いの町がもつ歴史や文化資料についても注意と理解をもつことも大いに必要だ。(写真はお行の松)

もうひとつ
水島さんのおはなし、いちいちごもっともである。災後(*関東大震災後)の悪化は、ことにはげしい。日暮里から間断なくつながってくる荷馬車の列になやまされる。どうにかなりそうなものだと思う。庚申塚、魚長の前、四つ角の馬方と車力の喧嘩、待たされる人の群れ。高速度喜劇は日に幾回となく繰り返される。乳剤をまいて、根岸資料史的記念物の保存をしてからでもいい。とにかく荷馬車の輪にいためられる角々の電柱が倒れないうちに、荷馬車を征伐してほしい。ト朝湯帰りの人の話をちょっと・・・(野歩)

水島爾保布「愚談」大正12(1923)年 

本文29ページより
▽江戸名所図絵(ママ:正しくは「会」)であったか或は外の本であったかは忘れたが、長谷川雪旦風の細密な風俗画に、「根岸の里」をかいたのがあった事を思い出す。(訳注:「江戸名所図会」にある絵であり、雪旦画である)清らかな小流れがあって、土橋が架かっている。低い寒竹か何かの生垣をめぐらした瀟洒な藁屋作りの家がある。開け放した座敷には有徳な(訳注:裕福な)町家の隠居ででもあるらしい主人と、本家から隠宅見舞いにでも訪れて来たらしい客とが碁を囲んでいる。縁の向うには小さな柴折戸(訳注:折った木の枝や竹をそのまま使った簡単な開き戸)があり、石の手洗鉢などが見えて、そこに茶室があることを示してある。庭の向うは一面の田圃で遥かに村社の森や人家が散点している。
▽流れを隔てて橋の側には竹の子笠(訳注:竹の皮を裂いて編んだかぶり笠)をかぶった豆腐屋が荷をおろしている。茅屋根をつけた小さな門があって、半開きになっている竹の扉からいきな年増が錦手(にしきで 訳注:赤・緑・黄・青・紫などで上絵(うわえ)をつけた陶磁器)ものらしい鉢をさし出している。門の側には古柳が新芽を烟(けむ)らせた長い枝を垂れ、垣を越して老梅が花の枝を流れにかざしている・・・・・・とこんな風にかいて、要所要所へ想像を挟むとそんじょそこらの文展(訳注:文部省美術展覧会の略称。1907(明治40)年創設の最初の官展。1919(大正8)帝国美術院展覧会(帝展)に改組)批評になっちまう。たとえば頃は旧暦2月の半ば過ぎ鴬が枝うつりして高音を囀る頃であろうとか、その豆腐屋は笹の雪で仕入れて来たのであろうとか、その梅は折られて客の家づと(訳注:いえづと 土産)になるのであろうとか、柔かき早春の日向には快き迄淡々(あわあわ)しい哀愁が漂っているとか……と早々脱線だ。
▽それはそれとして、これが今私の住んでいる根岸の過去の姿であると思うと、何だか特別な懐かしみを覚える。画にある流れは当時音無川と呼んでいたものである(年寄りの話にも以前は大層綺麗な流れであったということだ。水上は北豊島の石神井川から分岐して末は千住付近で荒川へ注いでいる)(訳注:誤り。末は浅草の山谷堀になって隅田川にそそいでいる)私の子供の頃(訳注:明治27年頃か)はもう音無川などとそんな風流な名前を呼ぶものはなく、付近の田圃の用水として所々に堰が設けてあったところから普通「せき」とばかりで通っていた。その堰の辺には野菜の洗い場があって、いつも手拭をかぶって襷をかけた農家の女たちが、畑から取ってきたつけ菜(訳注:三河島菜であろう)や大根や葱などの泥を洗っていた。そして夏の夕方など大夕立のあがり際に「せき」の水が増すと、きっと蓑笠でたち(訳注:いでたち)の人が、上下の橋の上で四つ手網(訳注:四角い網の四隅を、十文字に交差した竹で張り広げた漁具。水底に沈めておき、コイ・フナなどを捕る)をおろしていた。目の下(訳注:目から尾の先までの長さ)二尺(訳注:約60センチ)なんて大鯉のかかった事もあった。それから耳の生えた大鰻が取れたという話などもあった。切れ上がる雲の間から斜かい(訳注:ななめ。はす)に射して来る鮮やかな夕陽が、濁った大雨のあとの水に烟(けむ)り、そこの橋から橋に立並んだ蓑笠の人にきらめき、あげおろしする網にきらめき、その網に躍る魚にきらめきするさまは、子供心にも何ともいえず嬉しいものであった。
▽その「せき」がいつの頃にか「どぶ」という名に変わってしまった。今の子供はもとより現に住んでいる人達の間にも、「せき」などというそんな旧式な名称は全く忘れられてしまった。もちろん名に示す通りゴミクタだらけの汚い溝である。
▽汚い溝であるがそれが音無川時代にはいわゆる根岸の里の風雅だか文化だかを預かる主要なものであったのは紛れもない。根岸名物の一つであった妾宅なども、船板塀(訳注:船板の古材で作った塀)に見越しの松(訳注:塀ぎわにあって外から見えるようにした松の木。下枝から二番目の枝を壁の外側にわざわざ出す)なる条件に代わるに、流れに臨む山茶花(さざんか)の生垣という好みをもってしつらえられていたらしく、浮世離れてこじんまりとした恋愛の世界が松風(訳注:松林にうちつける風)と十七文字(訳注:俳句のこと)とに関係してとにもかくにも存在していたのである。旗下の隠宅、それから富有な町人の寮、いわゆる文人墨客などの庵、そんなものが、すべてこの音無川に沿って、板橋ないし土橋を控え、柴折戸は茅の門を設けて並んでいたのである。
▽今でも名だけは残っているが、鴬春亭という料理があって、そこらの風流人の詩歌俳諧その他の会に仕出しもすれば、またそのための席の設けもあった。やはり音無川に臨んで低い四つ目垣(訳注:竹垣の一。丸太の柱の間に、竹をまばらに縦横に組んで、四角にすき間をあけたもの)をめぐらし、座敷からは三河島田圃が見渡せたという話である。その三河島へは折りおり鶴がおりたそうで、ときおり公方様(訳注:将軍のこと)が鷹狩りにやってきた。で、根岸の里の人家に限って二階を作ることが禁制であったという事である。「そこから見ちゃいけない」なんて野暮をいわずに初手から、高いものをこしらえさせない方が徹底していてむしろ気が利いている。
▽その鴬春亭で年々鴬啼き合わせ会というものが行われた。遺風(訳注:後世に残っている昔の風習)はつい最近まであったようだが、何でもその時は江戸中はもちろん、遠近各地から名鳥が集まってきたもので、それが寮といわず別荘といわず農家商家といわず軒別に配置される。その日一日は音無川沿岸の家屋敷は全部ないし一部開放ということになる。「ます鏡」「千代の魁」「朝緑」などと花魁のようなお菓子のような又は相撲取のような名前のついた鴬籠が、各自数奇をこらし(訳注:建物・道具などに、風流な工夫を隅々までほどこす)贅を尽くした台に載せられ、上がりがまち(訳注:、主に玄関の上がり口で履物を置く土間の部分と廊下や、玄関ホール等の床との段差部に水平に渡した横木)にあるいは玄関に各一個ずつ据えられる。蓑と笠とが干からびた烏瓜と一緒にかけてある荒壁の百姓屋の上り口に屏風の金砂子(訳注:金箔を粉にしたもの。絵画・蒔絵・ふすま地などに用いる)が烟(けむ)り、水仙香る籠花活(訳注:はないけ 花を生ける器)が飾られるのもその時だ。また札差し(訳注:江戸時代、蔵米取りの旗本・御家人に対して、蔵米の受け取りや売却を代行して手数料を得ることを業とした商人)の隠居所の切戸(訳注:茶室のにじり口の戸)が開かれて奥の茶室に緋の毛氈が敷かれるのもその日である。黄八丈(訳注:八丈島に伝わる草木染めの絹織物)ずくめの白髯の老人が、面打ち(訳注:能面をうつこと)のモデルになりそうな顔をして、妾宅の門口に杖を停めて耳を傾けているかと思えば、小紋の長羽織を着た、豆本田(訳注: 江戸時代に粋人の間に流行した男髷、本多髷の一種)の薄痘痕(訳注:天然痘にかかったあとで、あまり目だたない軽い程度のもの)が町与力の別荘の玄関で感に堪えて聞き惚れている……こういう悠長な時代と、質屋の親爺(訳注:竹台高校付近にいた「大質」の吉田丹左衛門か、上根岸123にいた石井徳次郎か)が区会議員の運動にペコペコして歩いたり、煮山椒屋の禿頭(訳注:上根岸17あった「このみ庵」の藤澤碩一郎?)が高橋何とかいう砂利泥棒の先馬を走ったりしている今の根岸とを対照して見ると誠にいうに云われぬ面白さが感ぜられる。
▽名高いお行の松というのは今でも半死半生の体で辛くも残っているが、その昔の一里塚の名残だといわれた二股榎は全くあとかたも無くなって、その跡には渋澤某の家来の金持ちが(訳注:渋沢栄一の甥にして女婿だった尾高次郎のことと思われる。終始、渋沢の下で銀行家として活躍する)、堂々たる土壁を築いてしまった。私たちの子供の事には夜その二股榎の前で転ぶと、おかめがお茶をもってくるなどといった。それから腫れ物か何かのまじないに噛んだ飴を幹にふきつけ後ろを見ずに帰るといいという伝えもあった。
▽鎮守の三島神社の祭礼には、三河島から神楽師(訳注:里神楽を舞う人。江戸里神楽は東京を中心に関東一円で行われ,仮面をつけ,神話や神社の縁起を無言劇で演じ,ひょっとこ,おかめの滑稽(こつけい)もからんだ)が来た。その中に常さん、かなめさんという二人の名人がいた。常さんは馬鹿、かなめさんは大将を得意とした。京都へ行っている成瀬無極君(訳注:なるせ むきょく、1885年4月26日 - 1958年1月4日ドイツ文学者、京都帝国大学名誉教授 「シュトルム・ウント・ドラング」を「疾風怒濤」と訳した人)、漫画家の池辺釣君(訳注:池辺均 いけべ ひとし 画家、風刺漫画家。別名に池辺釣。妻は岡本一平の妹。俳優池部良は息子。 藤田嗣治とは親友だった)などと会えば必ずこの話が出る。全く両君はじめ私たちの子供の時に常さん、かなめさんに対する尊敬は非常なものであったのである。今日の私が乃木大将(訳注:1849(嘉永2)年- 1912年(大正元) 陸軍大将)にも市川左団次(訳注:初代 市川左團次 1842年(天保13)-1904(明治37)年 歌舞伎役者)にも少しも尊敬の念の起こらないのは、たぶんその時、常さんやかなめさんにことごとく支払ってしまったからであるかも知れない。この三島神社の祭礼について子規の句に「この祭いつも卯の花下しにて」(文意:この祭りはいつも雨なのでウツギの花を流してまうのだ)というのがある。祭礼は5月14、15日の両日で、いつの年もたいていは雨降りだ。覚えてから二日とも晴天ということはほとんどあったためしがない。
▽町内共同の飼犬にマルという大きな狐色の毛をした牡の日本犬がいた。根岸中の犬の王様という格でしかも至るところで可愛がられていた。あえて犬種的敵愾心というものが強かったというわけでもなかろうが、どういうものか西洋犬と見ると常の柔順さとは打って変わった獰猛な態度になってこっぴどくやっつける。某という鉄道へ出る人(その頃今の上野駅を基点とした鉄道は日本鉄道会社というのが経営していた。そこの重役だ)(訳注:金杉153に住んでいた白杉政愛のことと思われる しらすぎせいあい 1842(天保13)年-1921(大正10)年 熊本藩士、西南の役で熊本鎮台にて西郷軍と対峙。その後、鉄道へ転身。白金興禅寺に墓。長男は国鉄経理部の白杉次郎太郎)の愛犬にポインター種の大きな奴がいた。名をヘンリーといった。どういう機会かでそいつがのそのそと外へ出て来たのを、たまたまマル君が見つけた。例の通り猛然と噛みついた。そして頬と耳とに大傷を負わせた。重役さんの憤りというものは非常なもので、何でもマルを見つけ次第殺してしまわなければ腹が癒えないというのである。と、いうことを漏れ聞いた一方の町の人たち、特に町内の鳶頭と酒屋の隠居と漢学の先生とこの3人が承知しない。「殺して見やがれ。うぬが家はただはおかねえ」というのである。
▽ところで重役の方にはもう一人加担者があった。やはり愛犬をマルのために散々にやっつけられたのを遺恨にしている判事の古手(訳注:一つの仕事に長く従事している人。古株)か何かで、その二人が相談をして、どう筋を辿ってしたのか犬殺しにマル征伐を頼んだ。ところが根岸のマルの名は犬殺しの仲間にも既に伝わっていた。かえってその犬殺しから町の人の方へ内通して来た。頭の爺さんと酒屋の隠居と先生はいうまでもなく、町の人たちが一斉にマルのために忿起した。「さア、おらが町内のマルに指でもさして見やがれ、役人だろうが裁判官だろうが、ただしは大臣が華族だろうが容赦はねえ。家ぐるみ叩きこわして焚きつけにしてやるから」という鼻いきである。私はある夜の銭湯で、赤薬缶にとうすみとんぼ(訳注:糸蜻蛉。体が糸のように細いトンボ)程のチョン髷をくっつけた頭の爺さんが、皺くちゃだらけの体に浪裡白跳張順(訳注:ろうりはくちょうちょうじゅん 水滸伝の登場人物の一人。梁山泊南西の水塞を守る水軍の頭領で大変な泳ぎの達人。七日七晩を水中で過ごすことができ、四、五十里(約20km)を泳ぐことができるという。水中では無敵であり浪間をくぐる鮠(はや)のようであることから浪裡白跳というあだ名がついた。刺青の絵柄として人気がある)を踏んばらして、マルのために大々的気焔をあげているのを見た事がある。
▽結局この喧嘩はそれきりで何事もなく、重役の家や裁判官の玄関へ、三島様のお神輿が舞いこむなんて事もなく済んだが、その後しばらくして判事と重役とは相前後して根岸を退転してしまった。マルは相も変わらず日あたりのいい町内そこらの店先を選んで大きな体を臥そべらしていた。そして何でも2月下旬のある一日酒屋の土間で眠るが如く大往生を遂げた。「てめえの方がおらより先に行っちまやがったか……」と、そこの隠居は我が子の死でも見るように、この死骸を撫でさすってさめざめと涙を流したそうだ。頭と漢学の先生とその他の人々が集ってその夜その酒屋の隠居所でマルの通夜を営んだ。
▽このマルについてはまだいろいろの記憶がある。そのうちにこの犬の喧嘩一件だけでもまとめて見たいような気がないでもない。(85ページ了)

正岡子規「病牀六尺」明治35(1902)年7月11日  と寒川鼠骨「根岸物語」大正7(1918)年9月のリンク

太字は子規、細字は鼠骨
余はこの日あたかも看護の当番で、居士が病床に侍りし、居士と共に近況を語りかつ筆記してこの原稿を作ったのであった(根岸物語 一より)

○根岸近況数件
一、田圃に建家の殖えたる事

(根岸物語 三)根岸の町から音無川を越えると日暮里の田圃が開け、それが直ぐ漬菜に名を得た三河島田圃に続いて居た。「ところどころ菜畑遠き枯野かな」「汽車道の一段高き枯野かな」「溝川に梅ちりかかる家鴨かな」など、閑のある毎に此のあたりを漫歩して写生句を作った居士が、其処等に殖えて行く家を珍しがったのは無理もない。其の田圃も今では殆んど家で埋まってしまった。一つの立派な下級住宅地と化してしまった。

一、三島神社修繕落成獅子用水桶新調の事

一、田圃の釣堀釣手少く新鯉を入れぬ事
(根岸物語 三)「釣手少く新鯉を入れなかった釣堀」もすべて埋立をされて宅地に変じ、その上に賑やかな町が建設されて村は町に、町は市に編入された。
(注:深読みすれば上記は、明治22年に発足した日暮里村が大正2年に日暮里町となったことを指すか?ただ、日暮里町が東京市に編入され荒川区ができるのは昭和7年)

一、笹の雪横町に美しき氷店出来の事
  (根岸物語 三)従って其処へ行くべき途の笹の雪横町には、氷店どころの騒ぎではない。米屋、薪屋、風呂屋、八百屋、酒屋、肴屋、肉屋などおおよそ日用品をひさぐ店は一つとして備わらざるはない。小料理店さえ出来、一時は白首将軍さえ徘徊したほどの盛り場となった。
  (子規句集より)遠くから見えし此松 氷茶屋(M35)

一、某別荘に電話新設せられて鶴の声の聞えずなりし事
(根岸物語 三)「電話新設せられて鶴の声の聞えずなりし事」と居士が記した別墅なども、鴫の立つ冬枯の田を眺めた別荘らしい気分ははやくの昔に無くなって、ただ普通の町中の金持の住家になってしまったのである。鶴はおろか、今は恐らく蛙の声さえ聞かれまい。
(*根岸夜話<大熊利夫>P60には、スリの親分仕立屋銀次が営む待合料理屋「橋本屋」が御行の松にあったという記事がある)

一、時鳥例によりて屡しば音をもらし、梟何処に去りしか此頃鳴かずなりし事
(根岸物語 二)梟も「何処へ去りしか、此頃鳴かずなりし事」どころのことではない、居士の在りし時尚折々は音を洩らした時鳥さえも、ほとんど滅多に鳴かずなったのである。

一、丹後守店先に赤提灯廻燈籠多く並べたる事
(「散歩」M40鼠骨)盆石を並べている店の爺さんは却々のお世辞ものだ。何でも丹後守とかいう旧旗下のなれの果てで、伏見戦争のときに、両刀が重いからとて、それをすてて逃げたと迄はわかっているが」、その後の事は知らず、今はこの場末に、このささやかな店に安んじている。
(根岸物語 五)(美術)床屋の隣りには剝製屋があった。(中略)剝製屋の向側が「赤提灯廻燈籠多く並べたる事」の丹後守の店であった。旗本の家柄で丹後守の位を持っておったのであるが、維新の革命時に慶喜公に従って静岡にも移らずに、此処に平民に伍して店を張ったものと見える、ささやかな玩具店で、春が来れば雛を売り、夏には廻燈籠、冬には凧といったふうに際物的の玩具を並べていた。

【その後のストーリー】
60~70歳の品格のある老人夫婦が店を運営
その後、老人はよそへ移り、代わってその子息で役所つとめをしていて体を壊したという、鬚をはやし立派な威厳のある50くらいの人が主人になる
代替わりしてからは、玩具だけでなく店の片方に静岡自慢の饅頭やはじけ豆が置かれるようになる
2~3年後、主人はいなくなる(病気が重くなって静岡県下に転地したという噂)
まもなく店は鎖されて、取り壊される

一、御行松のほとり御手軽御料理屋出来の事
(明治41年2月11日写の山本松谷「根岸御行松」<新撰東京名所図会収録か?>の絵に描かれている画面左脇の藁葺きの家が、この料理屋と目される)

一、飽翁、藻洲、種竹、湖邨等の諸氏去りて、碧梧桐、鼠骨、豹軒等の諸氏来りし事
藻洲は牧野 謙次郎(まきの けんじろう、文久2年11月30日1863年1月19日) - 昭和12年(1937年3月24日) 高松市出身の漢学者。『日本新聞』記者をつとめ、早稲田大学教授。東洋文化學會理事
種竹は、本田種竹(ほんだ しゅちく1862-1907)徳島県出身の漢詩人。京都で江馬天江(てんこう)らに詩をまなぶ。明治25年東京美術学校(現東京芸大)教授となり歴史をおしえる。文部大臣官房秘書などをつとめ,退官後,39年から自然吟社主宰。名は秀。字(あざな)は実卿。通称は幸之助。詩集に「懐古田舎詩存」など。
湖邨は桂五十郎(かつらいそお 1868~1937)。新潟県出身の漢学者、早稲田大学教授。『漢籍解題』(明治書院)。

一、美術床屋に煽風機を仕掛けし事
(「夕涼み」M31子規)名高き床屋の前を過ぎつつ見ればあるじの自ら彫刻したりという肖像うつくしき椅子に並んで兜に植えしという葱(しのぶ)は見えざりき。石像に蠅もとまらぬ鏡かな
(根岸物語 四)「煽風機を仕掛けし事」とある美術床屋は、「仰臥漫録」中にも其床屋が贈った草花鉢の写生画があるほど居士に縁が深かった。そこの親方が絵画が好きで。浅井黙語画伯の門に入って、業餘にカンバスを手にして静物の写生などをして、出来上がった画を幾つも壁にかけて飾っていた。黙語画伯の描いたものが一つ二つ掛っていた。そうした趣味を持った男であるから、床店の装飾も万事美術的であった。殊に草花の鉢などは美しく並べたてて、いつも清洒した趣を見せていた。居士が美術床屋ちいう名を与えたのは甚だよく当たっていた。その名の与えられたために俳人仲間では根岸の一名物に数えていたが、或る日の朝突然おらなくなってしまった。

【その後のストーリー】
美術床屋の親爺Aと女房Bの間に40過ぎて子ができず、郷里から若者Cを連れてきて修行させた
2~3年で腕も一人前に顔立ちも良くなり、C(清)は一人前に
Aは、日露戦争直後(M39頃か)縁故のある海軍の長官のつてで旅順の鎮守府で床屋をすることに
Aの留守中、Cは女房Bの妹Cと結婚し、若親方に
Aは旅順にいっても金を蓄えず、家族の帰って来いの手紙もあり、1年足らずで中国の内地を見物して帰ってくる
帰ってみると、若親方はさらに職人を一人雇い、Aの居場所がなくなっていた。また年のせいか腕も落ちてしまったことを自覚し、釣りや映画にと遊ぶAと、少しは手伝ってもいいじゃないかと思うCの間の葛藤
その後1年、働いても働いても貯えができずその日くらしのCは、店の大改装を決意。三脚、大理石に
C、客の間の住家の売買の仲介に成功し大枚の謝礼を受け取り、それを元手に知り合いが浅草で成功しているという洋食屋をしようと決意
床屋の2階を改装し洋食屋にしオープンするが、2~3か月後には廃れ、床屋の客も義理で洋食を食わされるのを恐れて減少
そして夜逃げ!
<運の神が来たと思ったのは、禍の神なのであった。膨張を欲して征服を始めた邦国の亡ぶるように、美術床屋は発展を欲して却って破滅へ陥ってしまった。それは養子は勿論親爺も養母も誰一人予期せぬ運命であった>(根岸物語 四ラスト)

一、奈良物店に奈良団扇売出しの事
(根岸物語 五)丹後守の店から半町(50㍍)ばかり東の向側に「奈良団扇売出しの事」の奈良物店があった。奈良の名物をいろいろ並べ、塗物など美しゅう飾り立てて、頭が禿げてデブデブに肥って、布袋様よろしくの格好をした親爺が坐っているのが、新店のこととて道行く人の目を留めさせた。

【その後のストーリー】
特に変わったことも聞かず、子規が亡くなったM35ごろ他所へ移ったとか。

一、盗賊流行して碧梧桐の舎の靴を盗まれし事
一、草庵の松葉菊、美人蕉等今を盛りと花さきて庵主の病よろしからざる事

その他
(根岸物語 五より)美術床屋や、丹後守や、奈良物店のあった町は、根岸唯一の日用品を供給する町であった。それが奈良物店先ず移り、丹後守次で亡び、美術床屋陥り、剝製屋も没落して、昔し在った店の今に残っているのは数えるほどもないのである。
【剝製屋】美術床屋の隣。床屋にはここの親爺がつくった白鷺の剥製が石膏の半身像とともに置いてあった。夫婦に子供がいないので親戚の男の子を育てていた。暢気な顔をしてニコニコしてお辞儀をするので好かれていた。酒好きで酔えば歌う。時に夫婦喧嘩もして、床屋に厄介になったりしたことも。
床屋の夜逃げ後、2~3か月町に姿をみせなかったが、或る日肋膜を病んだ青白く痩せた姿を見せた。半年ばかりその後も剥製の仕事で上野公園に通っていたようだが、その後死去。店も間もなく閉じられた。
【鰻天婦羅店大和田屋】子規が時々注文していた店だが、とくに他へ移る。
【八百屋】現存。子規もおなじみであるが、店は改装した。(子規句集より)雨に友あり八百屋に芹を求めける(M35)
明治40年ごろ、親爺さんは娘に養子をもらって隠居し、孫2人できる。そして妻死去。
養子は、店の外にも遠くまで担ぎ売りをして商いを拡大。
親爺、妻を亡くした悲哀から覚めて、後妻を迎える気になり、酒屋の主人も交えて養子夫婦にその必要性を説明
養子夫婦反対せず、酒屋が候補の女性として近所の49歳の「老いた寡婦」を似合いとして紹介。周りは勧めるものの親爺はもっと若いのがいいと言い出し破談に
その後親爺が自ら見つけてきた、30歳あまりの若い達者そうな女を後妻として迎える
後妻はひと月もたたぬうちにお店を仕切り出し、養子夫婦を叱咤するようになる。親爺も若返って朝早くから買出しにいき終日店頭で立ち働くようになる
自分の代が来ると思っていた養子は、拍子ぬけし商売への気力を失い、売れ残りの果物を自分で食べたり、ただで上げたりするように。
その養子の行為が親爺にばれて、大喧嘩して、養子は妻子を置いて家を飛び出す。
養子は遠くの町で別に妻を迎えて店を開いているとのうわさ。
根岸のお店は、親爺と後妻と娘で切り盛りしている。
(根岸物語 六より)
【萬清】元は荷を担いで歩いた微々たる魚屋だったが、万年青で数十万円も儲けて大邸宅を構える。
隠居は好きものだが、その倅はなお更に妾狂い
夜は徹夜の番人も抱えるほどで、これといった事業の失敗もないのに次第に左前に
ついにその屋敷も手放して離散することに(「妾事業で失敗」)
二代目夫婦は目も当てられぬ落ちぶれ方だが、隠居のほうは「昔に帰っただけのことじゃ」と化粧品の行商を楽しそうに(「今紀文じゃ」と感心)
二代目は荷を担ぐ覚えもなく、妾の多少の蓄えにすがってその日を送っている
 
【上野の山】
「坂は木の実乞食この頃見えずなりぬ」と子規居士が詠じた御院殿の昼なお暗き坂道も、日がてらてらと照って明るくなってしまった。杉を始めとし、松も樅も、徳川氏草創時代に植えたと思われるほどの大きな木は皆枯れ朽ちてしまった。(中略)そこは平らな地面に均されて、家が建ち町となってしまった。

特集「人類の最大暗黒界 瘋癲病院」 のなかに描かれる根岸病院 明治36(1903)年 読売新聞

(*以下、文章は現代仮名遣いするなど、文意を変えない程度に読みやすさに配慮して文字起しした)

第1回<明治36(1903)年5月7日>~第3回
精神病およびその東京府における収容状況概観
現在の東京市の瘋癲病院は府立巣鴨病院、東京脳病院(田端)、東京精神病院(庚申塚)、戸山病院、王子精神病院、根岸病院、小松川病院の7院のみで、その収容患者は1000人に満たず(記事では精神病患者は東京市で3~4000人いると断じている)、精神医学を修めた専門医は、東京医科大学教授医学博士の呉秀三、同助教授の榊保三郎、京都医科大学助教授の今村新吉、同島村俊一その他東西両大学の助手ら十数名に過ぎない。
稀には家庭の風波により、無病のものを瘋癲と言いたて、医師の診断書を乞い受け、瘋癲院へ送り込み、世間体を誤魔化す者あり。一時世を騒がせたる相馬家の疑獄、花井阿梅(おうめ)の箱屋殺し等、普通の医師にして精神病学の知識あれば、あるいはこれを未然に防ぎしや知るべからず。
全国十余萬の精神病者は、至る所に散在していついかなる椿事を演出するや知るべからず、危険千万の次第なり。去る24年にはロシア現皇帝がまだ皇太子として我が国にご来遊あらせしに際し、大津に於いて危害を加え奉りし狂漢あり、昨年赤十字社の大会に出てかしこき式場において不敬を働きたる男あり(注:1902年10月21日に起きた三上益吉の事件。彼は根岸病院に入院した)
巣鴨、根岸、小松川三病院のほかは、いずれも明治33,4の両年に創立せられ、目下また青山付近において帝国脳病院とかいえるもの設立の計画ありときく(*明治36年8月開設。青山脳病院。齋藤紀一<斎藤茂吉の養父。北杜夫の祖父>が開設。昭和20年買収されて都立松沢病院梅ヶ丘分院となり廃止。その後、平成22年東京都立小児総合医療センターに統合)
(瘋癲病院の)設立者は患者の資財を貪(むさぼ)り、血を吸い肉を喰らい、骨を舐(ねぶ)らずんば飽き足らず、ああ現今の瘋癲病院は一種の魔界なり、暗黒界なり、あるいは1,2やや病院の体裁を備えたるものありといえども、いまだ社会の要求をして満足せしむべきにあらず。ゆえに吾人はこれら病院の真相を暴露して、世人の警醒を促し、さらに完全なる瘋癲院の設立せらるるを期待し、かつ精神病学の研究を医師社会に普及せしめんと欲す。

第4回~第12回 府立巣鴨病院(小石川区駕籠町/ 明治12年上野公園に東京府癲狂院として開院。その後巣鴨に移り、大正8年に世田谷区下北沢に移転し松沢病院として今にいたる)
第13回~第19回 戸山病院(牛込区若松町102 / 明治32年設立。昭和2年(1927)東京医学専門学校に譲渡され廃院。昭和4年(1929)2月16日、失火焼失、患者11名が焼死)
第20回~第26回 王子精神病院(滝ノ川西ケ原899/ 明治34年開設。後に王子脳病院、瀧野川病院と改称。昭和20年(1945)4月、瀧野川病院焼失。廃院)
第27回~第30回 東京精神病院(西巣鴨町庚申塚/明治34年開設。明治39年に保養院と改称。昭和20年4月14日、戦災により全焼、廃院)
第31回~第36回 東京脳病院(滝ノ川大字田端 / 明治32年設立。大正11年田端脳病院と改称。昭和18年戦争激烈となり、院長健康を害し、廃院)
第37回~第40回 根岸病院(下根岸52/ 明治12年設立。昭和13年府中市武蔵野台に国立分院を開設。昭和20年戦災で根岸本院全焼。昭和21年国立分院を根岸国立病院に名称変更し移転)
第41回~第43回 小松川精神病院(小松川村字新田/弘化3年(1846)に狂疾治療所として開設。小松川癲狂院、小松川精神病院と改称。明治41年1月、南葛飾郡亀戸村に移転。加命堂脳病院、加命堂病院と改称。昭和19年廃止)

第44回 七病院の分類
第45回<明治36(1903)年6月20日> 焦眉の矯正策 にて終了

◎「根岸病院」についての記述
第37回 根岸病院
▲最初の設立者 根岸病院は下谷区下根岸町52番地にありて、設立の由来を尋ねるに、明治12年9月越後の漢方医 渡邊道順(ママ)(注:正しくは道純)の発起にて、金主は巣鴨町1丁目の煙草商 石場文(ぶん)右衛門(えもん)なり。今は二人とも鬼籍に入り、岡山県人松村清吾が院長となり、大いに面目を改めたれど、最初渡邊時代には、いうまでもなく草根木皮(そうこんぼくひ)の薬剤にて、患者を治療せしことなれば、設備の不完全も知るべきのみ。
▲漢方医と法華経
維新前瘋癲病院として世に知られたるは、京都及び越後に各一ケ所、双方古き歴史を有するものなるが、渡邊道順は越後の人にて、該病院に関係せることありと見え、石場煙草店のわきへ開業せる頃しきりに瘋癲患者治療の経験ある旨を吹聴したれば、家主たる石場文右衛門は、元来法華経信者にて、世にも不幸なる瘋癲者の身の上を気の毒がりおる折柄、ここに両人の相談一決し、下根岸なる現今の場所へ、本院を設立するに至れり。草根木皮の漢方医といえば、今日まったく廃れ物(すたれもの)となりたれども、早くも精神病学の必要を知りて、本院を設立せる熱心は、今のハイカラ医師がその病名さえ知らぬ迂闊に比すれば、一概に漢方医として侮るべからず。また文右衛門が団扇太鼓の迷信者なりとて、莫大の費用を投じ、渡邊の志を助成したる志のほど感ずべし。さればこそ迷信も無信仰に勝ると、宗教家の套(とう)言(げん)(常套句)もまた味わうべし。
▲松村の僥倖
かくて本院は設立せられたるものの、入院患者甚だ少なく、20人を超えることなし。かつ渡邊も追々老衰して、自ら診察の労をとることあたわざれば、今の院長松村清吾を雇い入れて、自己の代理となしたり。本院に初めて西洋の薬種を用いしは松村なるが、当時は本院の命脈旦夕(たんせき)に迫り、入院患者わずかに5,6人、係員は9名という情けなき境涯、石場もいよいよ見限り、解散して跡を貸長屋になさん計画なりし。しかるに松村は何か見込みありて、そのまま譲り受けたる時が明治21年、爾来14,5年を経て、今日にては府立巣鴨を除きては、瘋癲病院中屈指のものとなれり。松村の僥倖また珍し。
▲院主すなわち医師
数ある瘋癲病院中、地所建築を自己の所有として、院主すなわち医師たるものは、本院と小松川の2院のみ。他は院主と医師との地位、雇主と被雇主の関係にて、医師が理想の如き設備を望むも、院主が経済上の都合より、素人考えをもってこれを拒絶し、その間自然円滑を欠く、これ本院および小松川が、他の病院ほど紛擾(ふんじょう)なき所以(ゆえん)ならん。されども昨年(*明治35年)の患者縊死事件につきては、さすがの松村も大狼狽、大失態を極めたり。

第38回 根岸病院(つづき)
▲松村の大狼狽
昨年3月の末なりしが、茨城県人の桜木某(昨年21歳)本院に入りて治療中、4月23日の夜看護人の隙を窺いて、突然縊死を遂げたり。所もあろうに松村の自慢の西洋室、かかる間違いなきよう工夫して作りたる場所なれば、全院の騒動ひとかたならず、ソレというより宙を飛んで現場へ馳せつけたる松村は、顔色さながら七面鳥の如く、青くなり赤くなり、目玉を白黒して、うーんと唸りしまま一言も発せず、患者が縊死せし時の苦悶の状態もかくやと思うばかりなりし。にわか出来の病院なればいざ知らず多年の経験を積みて、平生の注意もなかなか周到なりとの評ある本院にて、この大失態を出だしたることなれば、その狼狽は道理(もっとも)なれども、松村の当時のあり様、実に気の毒とも憐れとも評すべき言葉無かりき。
▲松村の鎮撫策
右の縊死事件は、本院にありては何よりの大打撃にて、松村は早速患者の遺族に対し、あらゆる言葉をもってこれを慰撫(いぶ)し、莫大の香典をあたえ、一方は警視庁に向かって、百万弁疏(べんそ)(弁解)を試み、ようやく無事に治まりたれども、一時は寝食も安んぜざる模様にてありし。
▲園内の池
本院の庭園はすこぶる巧みにできて、敷石植込の配置なかなか面白けれど、後ろに大いなる池ありて、患者が投身などを企てる時は、またも前件同様の大狼狽とならん。されば警視庁にてもしばしば警告し、近来病室の増築とともに、いくぶん埋めたれども、なおその半ばを余せり。不慮の災難なきうちに全部を埋むるこそよけれ。
▲病院の責任
瘋癲患者のことなれば、往々危険の所業をなし、自殺を図るのは当然にて一寸の隙も目を離されず、注意に注意を重ぬるも、絶対的にこれを防止すること、人為の力にかなわずといえばそれまでなれども、入院料の支払いを受けて、人命の保管を託されたるものなれば、どこまでもその責任を負わざるべからず。然るに田端脳病院のごとく、設立後間もなきに、焼殺し事件、縊死事件、腕折事件等間断なく続発○○○○○○之に比すれば本院の縊死○(以下一行欠落)。

第39回 根岸病院(つづき)
▲医員及び薬局員
本院は院長松村清吾自ら診察して、その下に後藤麟三郎、中村致(ち)道(どう)、千葉郷一らあり、最初渡邊の院長時代には漢方医のこととて、草根木皮一点張りなりしが、今はその名残を留めず、薬局員は薬剤師石山元之助、岡部行雄、實(じつ)成(なり)梅三郎ほか一人にて宿直は輪次逓番実直に勤め居れり。
▲事務員及び看護人
事務員は下井勘助、木谷梅吉ほか一人、看護監督長は赤尾清長、勝木繁にして、看護人は男39人、女は31人、5部に分ちて各自部長あり。男子の部長は川鍋伊三郎、笠原某、河村恭之助、女子の部長は細田アイ、飯田ヨソにて、なかんずくアイは本年61歳の老婆なるが、患者に親切なるより院内の評判者となりおるよし。
▲看護人の待遇
独り瘋癲病院のみならず、普通の病院といえども、非難の最も多きは看護人が患者に対して不都合の点なり。しこうしてその原因を尋ねるに、第1 採用の節その身分経歴を調査せざること、第2 薄給にしてその生計いかんを顧みざること、第3 宗教道徳の観念を修養せざること等なり。本院は第3の点において欠如たれども、第1については、前にも記せるが如く、おもに地方人の質朴なるものを採用し、身分経歴をも十分注意せる模様なり。第2は薄給ながら院長松村が家族的観念をもって、どうやら糊口に差し支えないき程度まで心を用い、食料は一ヶ月2円と定めて、食すると食せざるとにかかわらず、これを俸給より差し引きて、徴収するより、患者の食物を奪うが如き弊害なし、されども松村の目をかすめ往々不都合を働く者あり、かかる輩を取扱う者の苦心想うべし。
▲非常報知機
本院には一種簡便なる報知機ありて、各病室より監督室へ非常の事変を報じ、また深夜といえども、看護人の怠惰を知る用に供せらる。されども昨年のごとき縊死事件ありて、患者が死を遂ぐるまでそを知らざりしは迂闊至極、看護人の怠慢によるとはいえ、院長たる者の責任また問わざるべからず。この事変ありしより、院長はぜひその前科を償わんと、一生懸命改善の工夫を考え、病室も増築中にて、現在すこぶる利益あるにも拘わらず、さらに取込主義を拡張する覚悟と見えたり。

第40回 根岸病院(つづき)
▲入院料
本院の入院料は一日分2円50銭、1円50銭、1円、75銭の4等に分ち一等は一室一人、二等は二人、三等は三人という規定なれども、四等もしくは市町村委託患者は一室内に数人群居し、喧騒狂呼の体、治療の効果いかがあらんかと思わる、たとえ入院料に次第あるも、最も憐れむべきは、下等細民にしてこの病に罹るものなれば、むしろ博愛的にこれらの患者も人数に制限を置き、十分の治療をするこそ、医は仁術の本意に適うものなれ。
▲貧富の懸隔(けんかく)(*へだたり)
地獄の沙汰も金次第という世の中なれば、資財の多少によりて、その取扱いに厚薄あるは、社会一般の物事につきて免れざる所なるが、精神病者のごとき、相当の地位と富を有すれば、たとえかかる所に入院すといえども、家にはそれぞれ管理する人ありて、はなはだしき差し支えなし。これに引換えその日暮らしの細民にて、一家の生計を負担する者など、入院の不幸に遭遇せば、遺族の困難果たして如何、思うてここに至れば、市町村委託患者の如きは、最も心力を尽くして、介抱を加え、一日も早く退院しえるよう為さざるべからず。しかしいずれの病院も、金持ちをのみ大切にして下等の患者は厄介視する風あり。経済の点よりこれを許さずと言わば、各病院の院主院長たるもの率先して、国家の補助を受くべき方法を講ずべきなり。彼らにしてもし一片慈悲の心よりこれを唱道せば社会は決して黙視せざるなり。単に自己の利益のみを打算して、その眼孔おのれが管理せる院内に限られたるは惜しむべし。これ独り本院について言うべきものにあらざれども、筆のついでに記して反省を促す。
▲市町村委託患者
本院にも市町村委託患者ははなはだ多く、松村が機敏なる運動によりて各区役所より取込たるものなれども、四等の入院75銭に対し、市町村委託の60銭にては、損益上より打算して、必ず十分の取扱いを為さざるに極まれり。市町村委託患者にして、速やかに平癒して退院する者はなはだ少なし、これ吾人の前論ある所以なり。
▲院内の取り締まり
院長松村は至極用心深き男にて院内の取締りも厳重なれども、午前10時ごろ出院して、午後5,6時に帰宅すれば、その時間以外すなわち夜間の取締りは十分ならず、男女の看護人に一種の関係を生じること往々これあり、既往に遡りてその実例をあぐれば、一、二にして足らず。将来はすべからく注意して、かかる失態なからしむべし。
▲本院の将来
とにかく松村は6人の患者より引きうけて、今日私立の瘋癲院中、収容患者の数最も多き地位に至るまで、こぎ着けたる手並みは感ずべし。さらに鋭意改良の緒に就かば、将来の見込み十分なり。ゆえに吾人はその欠点を恕(じょ)して(*とがめずに)望みを他日に属す。(根岸病院 おわり)

◎病院の評価(第44回 七病院の分類 より)
●七病院を大別すれば、左の三類に帰す。
(1)官(かん)衛(が)的の積弊増長して、医局、薬局、会計、看護人ら各自職掌によりて党与を結び反目嫉視の極、互いに責任を譲り合い、甚だしきは院外の者より賄賂を貪り、己が管理する病院の盛衰を度外に置き、院規をしてますます紊乱せしむるもの、巣鴨病院すなわち是なり。

(2)社会的組織にして、もっぱら営利を主としてその他を顧みざること、田端・庚申塚・戸山の如きこれなり。田端が巣鴨病院の医局に取り入り、庚申塚がその事務員と気脈を通じ、戸山が警視庁の庇護を受くる等、御用商人が諸官省の吏員に賄賂を贈り、不正の私利を営むを同一手段にて、現今社会の腐敗により感化されたる弊害なれば、単に病院をのみ咎むべきにあらざれども、等閑(*なおざり)に附すべきものにあらず。王子の如きは最初この系統に属せしが、今は小峯善次郎一人が、下宿屋的に営業せるものなり。

(3)一種の開業医にして、院主すなわち医長たるもの、根岸、小松川の2院これなり。前同段営利を唯一の目的とするものなれば、その院主が献身的の慈愛心に富むよりほかに、諸種の弊害を杜塞すること能(あた)わざるべし。

根岸美術工芸家の三奇人 明治34(1901)年 読売新聞

4月15日と16日の朝刊より
▲茶ばなし
◎根岸に美術的工芸家の三奇人が居る。一人は堆朱楊成と云って堆朱細工(注:中国漆器を代表する技法である彫漆<ちょうしつ>の一種である。彫漆とは、素地の表面に漆を塗り重ねて層を作り、文様をレリーフ状に表す技法を指すが、日本では表面が朱であるものを「堆朱」、黒であるものを「堆黒」と呼ぶ)の名人。苗字さえ堆朱というくらいだからいづれ来歴のある家であろうが、技術にかけてはなかなか巧いそうである。
◎次は豊川揚渓と云って、螺鈿すなわち貝摺細工に名の高い男である。見たところでは真につまらない老爺(じじい)のようであるが、腕は立派なもので、一枚の櫛で百金くらいの価ある品物をこしらえるそうだ。
◎ある人が細い筆の軸へ漢隷(注:隷書の一種)で、七言二句を嵌れさせたが、精巧緻密、ただ感心の外はない。そのくせ極の無学で、筆を持たせては羊角菜(ヒジキ)を喰いこぼしたような字を書くが、細工にかかるとどんな字体でも原形(もと)ままチャンと仕上げる。
◎日本橋あたりの大問屋から、櫛笄(くしこうがい)などの注文でずいぶん忙しいが、そんなものは時の流行(はやり)があって、永代伝わらないで、せっかくの名手も後には世間に伝わらずに廃れてしまう。それよりか文房具のようなもので、十分の腕をふるったがよかろうと、忠告したことがあるが、ただヘイヘイと頭を下げてばかりいる。
◎細工に取りかかっている時、他人(ひと)が来ると風呂敷のようなものをちょいと載せて、肝心なところを隠してしまうが、なんでも貝を断(き)るのに秘伝があるらしい。
◎明治の世になってから、機械的工芸は追々盛んになるが、こういう手先の仕事になるとどうも名人が少なくなるようである。もっともどんな良い品をこしらえたからと云って、手先では一日に何ほどの仕事もできるものではない。それよりか機械責でやってしまったほうが早手廻しだから、誰も根気よくまだるいことを稽古するものがなくなったのであろう。
◎しかし何とか保護の方法を設けて、こういう美術的工芸は一代限りで断絶しないようにしたいものである。
◎次に紹介しようと思うのは髹漆師(きゅうしつし:漆を塗る職人)の青山周平、号を碧山と云って漢学もかなりに出来て今日の世に珍しい気骨にある男だ。いま入谷に住んでいる。
◎元は越後の人で、楠本正隆(注:肥前大村藩の武士、明治期の政治家。男爵。大久保利通の腹心。東京府知事)君が東京に呼び寄せたという話であるが、髹漆師としてはなかなかのものだという評判。
◎町田久成(注:旧薩摩藩士。東京国立博物館の初代館長)君が世盛りの頃、いくばくかの手当をしていたそうだが、当年取って62歳。茶筅髷を頭に載せて、見たところからしてよほど風変わりな男である。
◎この男が閻浮提金(えんぶだこん:閻浮樹<えんぶじゅ>の森を流れる川の底からとれるという砂金。赤黄色の良質の金という)の観音様を持っている。丈三寸ばかりの立像でその来歴というのが大変なものだ。
◎この観音様について面白い話がある。(第1回 おわり)

◎(つづき)この碧山というのは書画骨董の鑑定(めきき)が出来るので、時々市中をふらついて、掘り出しものをえることがある。ある日つまらない骨董商から、僅かな対価で買い入れたのが、前に話した観音様である。この観音様は元大和某寺の宝物(?)であったものということ。
◎しかし初めはまさかそんなものとは思わなかったが、いずれ来歴のありそうなものと鑑定(めきき)していた。
◎彫刻師の鉄斎というがこのことを聞きこんで、行ってみると全く元大和某寺にあったらしいので、どうかこっちへ捲きあげようと思って、それとなく相当の代価で譲り渡してくれと交渉してところが、なかなか手離す気色(けしき)がない。その後も様々に手を変えて掛け合って見たが、到底望みを達することはできなかった。
◎碧山はますますこの観音を大切にして朝夕礼拝することになった。どこかで似つかわしい厨子(注:二枚とびらの開き戸がついた物入れ)を買ってきて、観音様を安置したが、この話が好事者仲間へ知れると、どうかご秘蔵の観音を見せてくださいと云って行く人がある。ところが見せない。
◎私の家には拝ませる観音様はあるが、見せる観音様はないといって腹を立てる。それではどうか拝ませてくださいと頼めば、よろしい体をお清めなさいと、自分も一緒に手を洗い口を漱いで、香を焚きながら、例の厨子を床の間へ安置して、恭しく普門品第二十五(ふもんぼん:法華経の観世音菩薩普門品第二十五。観音経。観世音菩薩が、私たちが人生で遭遇するあらゆる苦難に際し、観世音菩薩の偉大なる慈 悲の力を信じ、その名前を唱えれば、必ずや観音がその音を聞いて救ってくれると説く)を読誦(どくじゅ)(注:声を出してお経を読むこと)したうえ、さあご礼拝といって厨子を開ける。
◎そのくせ自分は非常に生活に窮している。屋根は壊れて雨が漏るというより降るというくらい。流し元は腐って夏はやすでの倶楽部になっている。着物は垢と漆で縞も地も分からないようであるが、一向平気なものでどんな注文があってもオイソレとはこしらえない。
◎職人とはいいながら見識が高くて、注文に来た人をどんな者でも一度は断る。その断り方が面白い。そのような品は坊間(まち)でいくらも売っていますから、そこでお求めになったほうがよいでしょう。私などに特別に誂えてこしらえたところが、工手間(くでま:職人などが物を製作する手数。また、その工賃)がかかるばかりでろくな物はできませんからという調子である。
◎その時こっちがたってと懇願すると渋々ながら納得するが、気に向かない時は決して仕事にかからないから日限(にちげん)は分かりませんと前もって断わっておく。その代わりに気に向くと注文以外な細工をして。客にびっくりさせることがある。
◎例の観音様もある人が若干金で売れと云ったが、たとえ幾万円でも金には代えられないと云って、明日の生活(くらし)に困るのも頓着しないでいる。
◎それから、も一つ奇妙なのはこの男が仙術を修めていることである。仙術というと可笑しいがいわゆる吸気道引(注:導引術か。呼吸法と体の動きを組み合わせてツボを刺激し、全身の気の流れを活発にしようとする健康法)の法で、平たくいえば自分按摩だ。朝早く起きて人のいないところに行って、頬を膨らましたりつぼめたり、肩をたたいたり、胸をたたいたり、さまざまな真似をする。蒙求(もうぎゅう:8世紀に唐の李瀚(りかん)が編纂した初学者用の故事集。「蛍雪(けいせつ)の功」や「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」などの故事はいずれもここが出典)にある華佗五禽の戯れ(かだごきん:後漢末に華佗という名医が「五禽の戯れ」という動物の動きを真似た健康法を編み出した)のようなものである。
◎これは藤沢の白隠禅師(注:1686-1769 臨済宗中興の祖)の遺法だというが、華山(かざん:中国内陸部にある険しい山。道教の修道院があり、中国五名山の一つ。西岳。 西遊記で孫悟空が閉じ込められていた山)の道士陳摶(ちんたん:872-989。五代十国から北宋にかけての道士)の仙術もこんなものであったろうと思う。早くいえば支那流の体操である。
◎また心越禅師(しんえつ:1639-1695 明の僧。曹洞宗。明がほろびたあと、1677年長崎興福寺の明僧澄一道亮(ちんいどうりょう)にまねかれて来日。のち徳川光圀にむかえられて水戸天徳寺(のちの祇園(ぎおん)寺)の開山(かいさん)となる。詩文,書画,七弦琴にすぐれた)の琴法と伝えて、七弦琴を巧みに弾じる。禅師が琴法の秘訣を伝えているのはこの男の外にないという事であるが僕のような素人には分からない(卯太郎)

第1期根岸倶楽部(根岸党)のこと 明治32(1899)年 自恃言行録

高橋健三が根岸に住まって居た時、同じ根岸党の藤田隆三郎、岡倉覚三、饗庭与三郎と都合4人で重箱肴を拵え、大きな瓢箪を提げ、闇の夜に上野の杉の森の中に往って、提灯も点けずに祝宴を開いた。すると誰が言ひ出したか「今夜は実に佳人の奇遇だ。それ与三郎だろう、隆三郎だろう、覚三だろう、健三だろう、四人の名に残らず三の字が附いて居るナンゾは、頗る妙ではないか」という話から、大いに興に入って皆んな酔ふて仕舞ひ、帰りに饗庭篁村などは墓地道の崖っぷちから落ちて、手や顔へ怪我をしたことがあった。(*明治18年ごろと思われる)

第2期 根岸倶楽部関連記事 明治31-35(1898-1902)年 読売新聞

明治31(1898)年9月28日

(根岸からす)世に歌われし根岸党の名残は得知翁一人となりぬるも新しき第二の新党は根岸雀が数え立てるにてもなかなかに多きが、さかしき雀も見落としはあるならい、朝夕はもとより月夜にも浮れ出でて根岸の里のくまぐま(訳注:すみずみ)アホーアホーと鳴き廻るわれ鴉が目には、此の里は党人のねぐら軒を並べ一々に誰の彼のというて尽きねど、知らば補えとある雀の言葉に鳴き立つることまずは左(訳注:ここでは下)の通り。
老画家には*鍬形恵林(けいりん 注:文政10年生まれ。狩野雅信(まさのぶ)に入門し,万延元年江戸城普請の際,雅信のもとで制作に従事した。明治42年死去)、*狩野良信(注:嘉永元年生まれ。狩野雅信にまなぶ。博覧会事務局,文部省などにつとめる。明治15,17年の内国絵画共進会に出品し受賞。作品に「孔雀ニ牡丹」「武者」など)、*高橋応真(注:日本画家。弟は円山派の画家高橋玉淵。次いで山本素堂・山本琴谷に画を学び、のち柴田是真に師事して同門の池田泰真・綾岡有真らと是真十哲(四天王とも)の一人に数えられる。内国絵画共進会・パリ万国博覧会など国内外の共進会や博覧会で活躍。明治34年(1901)歿)、*岡勝谷(しょうこく)(注:文久3年に『象及駱駝之図』を描いている)、*酒井道一(どういつ 注:弘化2年生まれ。鈴木其一に琳派の画法をまなぶ。酒井抱一の画風に傾倒し,酒井鶯一の養子となり、雨華庵4代をついだ。日本美術協会,帝国絵画協会の会員。大正2年死去)、

青年画家には*尾竹竹坡(ちくは 注:明治11年生まれ。尾竹越堂の弟,尾竹国観の兄。4歳で笹田雲石に,のち川端玉章,小堀鞆音(ともと)にまなぶ。文展では,明治42年の第3回展で「茸狩」,第4回展で「おとづれ」,第5回展で「水」が受賞。昭和11年死去)、*尾竹国観(こっかん 注:明治13年生まれ。尾竹越堂,尾竹竹坡の弟。小堀鞆音に師事。明治42年文展で「油断」が2等賞となり,以後おもに文展で活躍し,歴史画の大作を発表した。雑誌や絵本の挿絵もえがいた。昭和20年死去)、
文人画家には*黒沢墨山(ぼくさん 注:天保14~~没年不詳。北画を鑽硯渕に、南画を相沢會山に学び、山水画を能くした)、

模古彫刻家は*加納鉄哉(てっさい 注:弘化2年生まれ。安政5年に出家したが,明治元年還俗し,上京。日本,中国の古美術を研究し,東京美術学校で教えた。退職後,木彫,銅像,乾漆像などの制作に力をそそいだ。大正14年死去。作品に「三蔵法師」など)、
書家には*新岡旭宇(にいおかきょくう 注:天保5年生まれ。陸奥弘前の人。晋の王羲之の書風をまなび,草書と仮名で名声をえた。明治37年死去著作に「筆法初伝」「仮字帖(ちょう)」など)

漆工家には*亀井直齋(じきさい 注:代表作「雪月花螺鈿蒔絵膳」(芸大美術館所蔵)1861生まれ、没年不明)、
鋳鉄家には*立松山城(注:江戸時代、幕府の御用釜師を勤めた釜師、堀山城9代目に師事)
捻土家には*服部紅蓮(こうれん 注:人物不明)
准鑑賞家で*太田謹(きん 注:根岸及近傍図にも登場)
准考古学者で*若林勝邦(かつくに 注:1862年生まれ。人類学の草創期を支えた一人。1885年に日本人類学会に入会し、1887年8月には、坪井正五郎と一緒に埼玉県の吉見百穴遺跡の調査を行う。1889年に理科大学人類学研究室勤務。亀ヶ岡遺跡(青森県)・三貫地貝塚(福島県)・新地貝塚(福島県)・山崎貝塚(千葉県)・蜆塚遺跡(静岡県)・曽畑貝塚(熊本県)等、東北から九州まで精力的に調査。1895年に、東京帝国大学理学部人類学教室助手から帝国博物館歴史部(現・東京国立博物館)の技手に移籍。その後、1902年には博物館の列品監査掛に任命されるが、1904年死去)
抹茶宗匠連は*大久保胡蝶庵(訳注:大久保北隠。江戸千家に属し明治の大茶人といわれる。上根岸在住)、*小谷法寸庵(注:人物不明)
雲井に近き華族様に準じたるは岡野此花園、篠万年青屋、山下経師屋
さあかく数え来るとはや21人、雀が音信に28人そのうち残り惜しきは柏木貨一郎氏で今は脱籍の身となられたれば合わせていろは48人義士の数より一人多き。あっぱれ根岸の新党連追々夜寒にもなったれば、雁鴨が不忍へ帰る時節、途中に根岸を通ったら油断なく数えて投書投書。

明治32(1899)年12月13日

(よみうり抄)●根岸倶楽部
文学博士大槻文彦氏を始め根岸居住の文士芸術家等はかつて同所此花園に根岸倶楽部と云うを設けて娯楽の間に知識を交換し来たりが、追々盛大に赴くにつき、倶楽部員たる知名の芸術家は銀盃その他各専門の記念品を製作して同部に寄付する由

明治32(1899)年12月16日

(よみうり抄)●根岸倶楽部 根岸倶楽部が此花園に根拠を据えたる由は既記の如くなるが今回、平坂(注:地図の発行人の平坂閎コウか)、篠(注:篠万年青屋)、宮木、浅井、小林、丸山、山田、加納(注:加納鉄哉か)、河合、大槻(注:大槻文彦)、太田(注:太田謹)、西田、飯田、今泉、福原の15氏発起して何にても一技能ある士50名を限り新たに入会せしむる事になれるよし。

明治33(1900)年5月23日

(よみうり抄)●根岸の将軍塚 根岸の将軍塚というは旧名主某の邸内にありし由。伝えて人類学者はしきりに探索中なるがその位置は今の中根岸付近なるべしという者あり。
●根岸倶楽部 根岸の紳士が率先して組織したる同倶楽部は範模大なるに過ぎて費用の嵩むのみならず、有力者中既に渡仏せる向きも少なからざれば、この処しばらく運動を中止する由。

明治33(1900)年12月12日

(よみうり抄)●大槻博士と根岸地図
文学博士大槻文彦氏は根岸倶楽部の嘱託を受け根岸地図を編製するにつき、釈抱一、亀田鵬齋、福田半湖(注:江戸時代の南画家 福田半香のこと。松蔭村舎と称す。渡辺崋山門人)、尾形乾山、村田了阿(注:国文学者。「花鳥日記」を著す)等、古来同所に知られし名家の旧宅墓所等をも付記するはずにて台北地誌の著者石川文荘氏も之を輔くと。

明治33(1900)年12月17日

(よみうり抄)●古墳探検 大槻文学博士はこのほど根岸 原猪作氏の邸内なる古墳を検せしに、古墳は高さ五尺余りの土塊にして一大老樹に添い、上に五輪の石塔あり。その由緒は未だ詳らかならずと。

明治34(1901)年5月8日

●根岸倶楽部 同倶楽部の開会日は毎1、6の6回なれば、一昨日は例会日なりしも、会員中に差し支ありたるため、昨日午後開会したりと。

明治34(1901)年6月13日

●根岸倶楽部 大槻博士等の組織せる根岸倶楽部にては、来る16日同所此花園に例会を開き、絵画、骨董其の他、季節に関する出品を展列して一日の歓をつくすとぞ。

明治34(1901)年8月28日

●碁仙と老美人
大槻博士、今泉雄作氏(訳注:1850-1931 明治期の美術史家。明治10年パリに留学,ギメ美術館で東洋美術を研究。帰国後,岡倉天心らと東京美術学校の創立にくわわる)なんぞ、根岸の有志者が組織している根岸倶楽部では、毎月同所の古能波奈園で例会を催し御馳走といってはほんの茶菓だけで談話をしたり、あるいは囲碁など思い思いの慰みをして懇親を結ぶことになっているが、さて囲碁はずいぶんと好きな人もあって熱心にパチパチとやらかしはするものの、今泉氏に白坂という人が少し強い位なもので、その他はいずれも笊碁の方だそうだ。
なかにも久河というお医者なんぞは無暗と石を並べて人を驚かすとかいう話だ。ところで一昨夜の例会には、この暑さの折柄、面白くもない例の笊碁をやられては、ハタ迷惑というところからこのみ庵の主人(訳注:藤沢硯一郎)とやらの周旋で、千歳米坡(訳注:ちとせべいは 安政2年(1855)10月東京下谷桜木町生まれ。芳町で米八と名乗り芸者に出ていた。明治24年(1891)伊井蓉峰の「済美館」旗揚げに参加。近代日本女優第一号となった。浅草吾妻座で粂八と共演したこともある。大正7年(1918)没)を引っ張り出し、踊りをやるということにしたので、細君やお嬢さん連中が大勢押し掛け、笊碁連の中にはお留守番を命ぜられたのもあって、同夜は計画通りいい都合に、ハタ迷惑の囲碁が始まらず、米坡の山姥、喜撰など面白い踊りが数番あって、おのおの歓を尽くしたということだ。

明治35(1902)年2月6日

●名家の初午
根岸に住みて古癖家の噂高き大槻文彦、今泉雄作の両氏は今年の初午に各自稲荷を勧請して祭典を行わんと企て祠の形より装飾万端につき例の詮索に及びたるが、まず大和春日神社宮殿の形を採るが面白からんと他に2名の同志を求めて、さっそくさる工匠に建造を注文しこのほど四社の祠いずれも見事に出来上がりたれば、おのおの一つずつを庭前に据え付け、今泉氏はかねて秘蔵せる稲荷の木像をばこれに安置し、それぞれ祭典の支度をなしたるに幼き氏が令息は自宅に稲荷様が出来たから初午には太鼓を敲いて遊べるとて大喜び、お父様太鼓と提灯とを買って下さいとしきりにねだるのを、氏は苦い顔をしてうちの稲荷様には提灯や太鼓はまっぴらご免だとはねつけ、一昨日の初午には夜の明けぬうちより祠前に庭燎(訳注:にわび かがり火のこと)を設け、万事古風なる式を用いて厳かなる祭典を行いたるが、大槻氏のほうはさしあたり神体となすべきものなきより、近日伏見の稲荷神社より分霊を請い受け、二の午か三の午の日をもって祭典を挙げることとなしたりと。

明治36(1903)年6月2日

根岸党の随一人、小堀鞆音(ともと 訳注:1864-1931 明治-昭和時代前期の日本画家。川崎千虎(ちとら)にまなび,歴史画を得意とした。明治31年日本美術院の創立に参加。41年東京美術学校教授。大正8年帝国美術院会員。門下に安田靫彦(ゆきひこ),川崎小虎(しょうこ)ら。昭和6年死去)といえば、日頃無頓着をもって聞こえたる画家なれば、時に突飛なる奇行をして失笑せしめること少なからず。・・(以下略:原本を見よ)

饗庭篁村 今年竹(第1節)明治22(1889)年 現代語訳および注釈

作・饗庭篁村
(*1855-1922 号は竹の舎主人 名は与三郎。兄の与三吉は大音寺前で三木屋長屋を経営し、1,000軒はあったとか)

むら竹 第6巻 
明治22(1889)年9月16日印刷 9月25日出版 
刊行 春陽堂

*この年2月、陸羯南主筆の「日本」創刊。5月、大槻文彦の「言海」第一巻の初版が刊行。10月、岡倉天心の美術雑誌「国華」が創刊。

発行者 日本橋区通4丁目5番地 和田篤太郎
印刷者 同所          岡本桑次郎

第1節

「我もまた ふしある人とならばやと うえてともなう 庭の呉竹」とは、福羽美静(ふくはびせい)翁の
(*1831-1907 山口津和野出身 号は木園、硯堂。長州藩の養老館に学び、平田鉄胤に師事した国学者。神道政策に尽力し後に貴族院議員。明治23年(1890)60歳で公職を退き、父美質の暮らす角筈の別荘(現 西新宿3丁目)に転居。6世尾形乾山を招いて別荘内の窯で和歌入りの茶碗を焼かせたという。明治29年に肴屋が刊行した「萬年青銘鑑18号」に「千代八千代 ふかきみどりの根岸松 さかえめでたき 万年青なりけり」という歌を贈っている。養子が福羽逸人(1856~ 農業博士、子爵 日本に初めてイチゴを伝え、福羽イチゴとしてもてはやされた)根岸での居住歴などは不明)

読み歌なるが、その呉竹の根岸の里も今は、昔の静かなるに似ず、汽車の響きに
(*6年前の明治16(1883)年に上野~熊谷間が開通)

焼場の煙り、
(*2年前の明治20(1887)年に蛇塚に日暮里火葬場が設立)

御行の松は西洋風の3階作りより見下ろされ、
鶯谷は砂利を軋る車の音となり、
(*10年前の明治12(1879)年に大猷院廟跡を貫いて新坂(鶯坂)が通る)

水鶏橋は布田薬師(ふだやくし)の題目太鼓に叩き立てられ、
(*5年前の明治17(1884)7月に上総布田より薬師仏が薬師堂(上根岸117)に遷座した。当時、眼病の治癒のために篭って祈ることが盛んだったという)

藤寺に藤枯れて、
(*円光寺の藤の花は、時期は不明だか火災に罹って枯死したという)

梅屋敷の跡は酒屋に残る。
(*酒屋の「みのや」は平成の世にもなお当地にある)

金魚屋の池は埋められてもボウフラの蚊となるは減らず。
音無川は石灰(いしばい)に濁りて飛ぶ蛍の影を止めず。
(音無川の川上に製造場ができ石灰灰汁などを流していたとか)
建続く貸し長屋は余りて、三河島に後(しり)を出だし、繁昌おさおさ(「全く」の意)下町のゴチャ通りに譲らず。
されば、伊香保楼上三味線の音絶えず、
磯部の座敷笑う声に響く。
岡野屋、華族仕立ての汁粉店を出せば、
笹の雪、古格を破って紳士入りの間を張り出す。
登能(のと)屋に西洋料理を引き受け、
神田川に団扇の音高し。
鶯春亭名の如く鶯会の本営となれば、
芋坂下の団子屋は却って酒の善きを売るというに名あり。
万年青師、葉茂りて領主の如く、
(*上根岸64の肴舎のこと。4年前の明治18(1885)年に肴舎から「万年青図譜」が刊行された)

表具師、業盛んにして新道を開く。
(*金杉160に住んでいた宮内庁御用経師の山下七兵衛)

狂人の病院あれば、
(*現代では使われない表現であるが、原文のまま記す。10年前の明治12(1879)年に下根岸46に日本初の私立精神病院として根岸病院ができた)

酒乱の美術家もあり。
(*具体的に誰かを指すのかは不明だが、刊行年の明治22年の夏、岡倉天心は中根岸7番地に引っ越してきているし、彼は根岸派(根岸倶楽部)の中心メンバーとなり、かつ酒乱の美術家であった)

よしやこの世界細かに切れて、この根岸だけ大洋の中に漂うとするも恐らく事を欠く患いはなからんというまでに、便利となり、雑駁となり、押し合いとなり、込み合いとなる。
かかる中にも世に侘びて、昔のままの藪垣に、まとうも寂し昼顔の花も傾ぶく6時過ぎ、片手で押しては開けかねる、ひずみし木戸を引き開けて
「お節さん、お静かですね。もうそろそろ手元が暗くなりましょうに、よくご精がでますこと」というは、50に近いあたりの肝煎のカカア。
「おお、おさがさん。お出でなさいまし。ちょうどお頼みのお浴衣を今仕上げて、持ってまいりましょうと存じたところ」
「いいえ、それは今日でなくってもいいのさ。巡査のおかみさんのくせに針が持てないからと、人仕事に出すとは贅沢じゃありませんか。あのお軽さんがさ」
「でも、お子供衆はあり、お勤めもお骨が折れれば、それだけおうちもご用があり、こうしてよこして下さいますのも、私どものためを思し召してでありましょう」
「大違いさ。それはどうでもいいが、お照さんにもさっき中道でチョッと逢いましたが、おっかさん、どうですあの話は?」
「あの話とおっしゃるのは?」
「まあじれったい。おお痛い蚊だ。立って話もできない。ごめんなさいよ。おやおや大層美しい縮緬に、こんな絣りができますかね。どこの。おお、あそこのですか。お嫁入りの支度。左様ですか。もし、お節さん。こんな衣服を子供に着せたら、親はさぞ嬉しゅうございましょうねえ。あそこの娘ごはいつでも綺麗につくってお出でだから見られるのだが、飾りをとったら……。ねえ、お節さん。これをお照さんに着せたらさぞ立派に似合いましょう……。ねえ、お節さん。親というものは子で苦労しますねえ」と、口占(くちうら)を引く巫女(いちこ)上がり。
お節は、眼の持つ涙をば蚊遣りの煙にまぎらして、煽げど去らぬ胸の雲、重きは梅雨の空のくせ、晴れぬ返事におさがは付け入り
「もし、お節さん。いつぞや話したお照さんの事をどう考えてご覧なすった? かの旦那は髪の毛が長いので恐ろしく見えるけれど、眼は鯨のようで優しい方さ。年は若いし、ご親切だし、末々のためにもきっとよいし、弟御(おとこご)のためにもなる方だから。お望みなさるを幸いに権妻(ごんさい)にお上げなさい。あのお屋敷へ上げておいたとて、そう申しては悪いけれども大してためになる事はありませんよ。お照さんにも話したら、おっかさんさえよければと。ああいう大人しい子だから素直な返事。お前さんの了見次第で楽もできれば、可哀想にやつれているお照さんが縮緬物も普段着になるようになりますよ。まだ鉄道を音ばかり聞いて、お前さん、王子へも行かないというじゃありませんか。ちっとは楽をする身におなんなさい。石稲荷の傍に住むとて、堅いばかりは流行りませんよ」と、弁にまかせて説きつけたり。

第2節
いるものは作らず、作る者はおらず、千歳を契る軒の松も、住み変わる主に世を憂く嘯くらん。虎の威を借る狐罠、鳥三(とりぞう)という者あり。左せる才学あるものにあらねど不思議な人に、不思議に気に入られて、何事も鳥三より持ち込まねば、埒開かず。かえって本尊様よりこのお前立の方、参詣多く従って賽銭蔵に満ちて没落跡の根岸の寮を熨斗付きにて買い入れ風雅めかした人となれり。強欲の者でも風流気がないとは極まらず、悪人にても忠臣孝子の話を聞き、また芝居浄瑠璃にて見るときは涙を流すと同じ事で、鳥三なかなか美術品を愛玩す。ただし取り次いでいくらかその間にて泳ぐなりという評も満更形なしにてもあらざるか。今を這い出し、紳士にて道具屋を兼ねざるはなしと決め込んだ人に逢いては、言い訳の詞(ことば)なかるべし。ここに立ち入る者どもは幇間まがいの書画骨董担ぎまわって御前あしらい、土にて庭をはく情比べ。一人を突き倒して、一人進めば、また跡より小股をすくい、立ち合いで負ければ竈方、きやつめは御前が新橋のを連れて江の島行きのお供を致しまして、先日(以下略)


饗庭篁村「松の雨」 明治22(1889)年

松の雨(全6回)
小説むら竹 第2巻 明治22(1889)年7月20日印刷 7月25日出版 刊行春陽堂

発行者 日本橋区通4丁目5番地 和田篤太郎
印刷者 同所          岡本桑次郎

所蔵:国立国会図書館「近代ライブラリー」
●は解読できなかった文字を表す

第1回
なまぬるい野郎畳(*注:縁のない畳)といわばいえ あの女なら尻に敷かれん
と畳という題にて狂歌をつくった詠み人の(住む)呉竹の根岸の里に
近頃移り住んだ小林何某という人は、年40に近いが女嫌いの賢人。
顔油、白粉の匂いを嗅ぐと胸がむかついて堪らぬとて、通りすがりに袖が触っても打ち払い
真向かいに向かい合えば睨みつけるというほどなので
友達も感心し「彼ほどに女嫌いもないものだ。おおかた律宗(*注:戒律に厳しい宗派)の坊主が布施を捧げて受戒に来るであろう。
今の世の弁慶柳下恵(*注:中国魯の賢人の名)がもしいたら散髪にして供につれるであろう。あの人にこそ細君を託して、湯治に連れて行って貰える」との評判うすうす当人の耳に入ればなお更の高慢
「いにしえより名将勇士と称される人が、女色に溺れて身を誤つなどとは、もってのほかの不覚悟。我等の眼から見れば、みんな盛りのついた猫さ
一般嗚呼なんぞ世界に真の英雄の乏しきや。かの色欲の劣情などに制されて本心を乱すは精神が高尚ならぬ故なりは、今少しく世間にて哲理を講究するようにしたきものなり。
酒と女が人生第一の楽しみだなどというは、まだ眼のつけどころが低い低い」と白痴が雪だるまをつくる指図をするような言い草、だれももっともとは聞かねど、
なにしろこの年まで独身で行いすますとは余程な変人だと噂しあっていたが、この人もこれ有情の動物なんぞ中心よりその心なしといわんや。
頃はそれ年七月下旬弁慶先生かねて根岸は住むに良いところといい暮らしたる念願届きて同地へ引き移りたれば、無暗と土地が面白くある夜、入湯の戻りに涼みながらぶらぶらと闇の根岸はまた一入妙だ。
二町歩いても三町歩いても気障な女などに逢わぬ所が妙だ。
オッと石橋か躓いても落ちぬところが妙だと一人妙●のて御行の松の下へ来たり。
どうもいはれぬ涼しい。なることならば、この松の下風を袋につめて馬車の小便の臭いと砂けむりに咽いでいる俗人どもに分けてやりたい。
オヤオヤ吾輩と同感の人がいると見えて闇の松を探りにきたよ。どんな人だか詞敵(*注:話相手)になるだろうと松の根に腰うちかけて透かして見れば、ここへ来るは婦人にて年も若き様子なるが松の下に人が居るも居ぬも構わず一散に来て神前に額づき
「南無不動明王母の病気を癒させたまえ」と細やかなる声にうるみを含みて暫く念じ、そのままもと来し方へ足早に立ち去りたる跡は見えねど眺めやり、
ハテ感心な孝行な顔は見えねど心の器量の美しさが思いやらるる
エエ洋犬か吃驚したはエ

第2回
見し人がらの懐かしきも孝行の徳の光り、闇にて顔は分らねど、さぞ美しき女ならん。
年のころは十八、九か、それとも二十を越しているか、何でもその辺であろう。
察するところ母の大病を平癒の願いに夜参りするならんが、石に彫った不動明王が医師の代脈もなさるまいし無益な迷いだが、ただし旧弊育ちの女の身ではそれも少しは心やり病人の神経に感じて思いの外の功があるかも知れないと、
常には女の事などに頓着せぬ男なれどこれは頻りに心に掛かりしと見え、翌日の夜も用を終りて「また今夜も来るかも知れない。様子を見よう」と立ち出でる。
時しも一天に蔽いし雲の袋の口破れて、夕立ちは篠を束ねて降るが如く。
「これでは出られぬ。止めにしよう」と座敷へ座って読みさしの本を取り出せしも、蚊がうるさきゆえ「松下に雨の音を聞くのも一興ならん。この雨にも参詣すればそれこそ真の孝行だ。試みに行ってみよう」と、
わざわざ浴衣を着替えて傘を傾け、「この雨にどこへいらっしゃる」と不審がる清蔵という下男には「ちょっと友達の所へ碁を打ちに行ってくる」といいおいて立ち出でしは
九時頃にてわずか二丁ばかりの御行の松、中音の河東節でたちまち来たり。
どうもいえぬ涼しさだ。平生の熱腸をこの雨で洗って音無川へ流してしまうようだ。
従来物象の妙多く静中に向って知ると淡窓先生の詩もあるが、人は俗務を離れずして己が引き受けた事に出精するは第一の本分ながら、また時あってはそれを脱してこの淋しみの境も経なければ、広大なる造化の妙の一班を知ることは難いものだ。
「来たぞ、来たぞ。あれは違いない」と透かし見れども、闇の夜の殊に降る雨は●しければ、鼻をつままれるも知れぬという程なれば、かの女は外に人ありとも思わず一心に祈念して、やがて傍らに置きし傘を探り立ち戻らんとする様子に、
「もしもし御女中。私もここへ参詣の者だが、この降りの中に女の身で御参詣は、よくよくの願い事でござろう。一樹の陰の雨宿り他生の縁、とかいう事もあれば、仔細によってはお力になりましょう」と呼び止められて、女はギョッとし声する方を振り返れど、
どんな人やら分らねば、なおなお恐ろしく思いてや「宅に病人がござりまして、心が急ぎます。ご免下さりまし」といったばかり、早や石橋を渡り越し行方知れずなりたれば、
小林は打ち笑い「なるほど。暗がりからだしぬけに声を掛けたので仰天して逃げたと見える。これは近ごろ大不出来をやった。松の雫と横しぶきで身体も湿った。どれ帰ろう。思えば我ながらとんだ物好き。しかし男の身でさえ不気味といえば随分不気味なこの堂へ裸足参りか下駄の音もなく、毎夜来るとは感服至極」と
独り心に感じつつ、そのまま我が家へ立ち帰りぬ。

第3回
「旦那。よい鰹が参りました。今日は日曜だから御留守かしらんと実は心配しました。何にいたしましょう」と買うとも買わぬともいわぬうちに盤台を下して俎板を出すとは気の早い魚屋の倅。
面白い男なれば小林も贔屓にして、おりおり俳諧の添削などして友なき折りの話し相手とすれば、この男も外の得意場を廻ると違って心安くし話しながら、鰹を刺身に作り
「おい清蔵さん。大きいお皿と摺鉢を出して下さい。旦那、このアラは私にください」と盤台へ残すに、小林は打ち笑い
「アラを持っていくのはいいが、お前の家で総菜にするなら、それだけ値を引かなくてはいかないよ」といえば魚屋も打ち笑い
「旦那、ご冗談をおっしゃる。まさか。これをお貰いして家へ持って行きはしません。帰りに孝行娘の所へ遣ってゆくのであります。旦那、お聞きなさい。感心な者もあるじゃあございませんか。じきここからこう出て、金杉下町のある裏長屋にいる者ですが、母親と娘の二人暮らしで紙漉き道具の簾を編むのを内職にしていましたが、
先月上旬母親のほうが眼を患い出し、それに付いて余病も起こり、この頃は床についたぎりなれば、常から孝行の娘はしきりに心配し、昼間は看病の片手間に内職をし、夜は御行の松の不動様へ裸足参りをします」というに
さては、と小林はうなずきながら、さあらぬ顔。「ふーん、それは感心だね」と受け答えをするに、魚屋は調子に乗り「お聞きなさい。その孝心が通じてか」といいかけしが、心付きし様子にて
「旦那の前でこういうも可笑しいが、不動様のご利益という訳か少しずつ病気はよくなるが、眼の方はやっぱり悪く、それに医者といったところが生薬屋兼帯の先生だから、なんだかさっぱり分らずに薬の代は随分かかり、それやこれやでお粥がようようという難渋でございます。
もちろん元はよい人でその娘は針仕事をよくするそうですが、近所で仕事を頼むという家もまあ、余りありませんのさ。それに年頃ですから婿を取ったらと勧める人もあるそうですが、いづれ人の家へ入り婿になろうというに良い人も少ないもの。なまじ他人が交じって気兼ねをするよりはと断って、
一人で孝行を尽くしているのが余りに感心ですから、このアラを持って行ってやるのでござります」と聞いてますます感心し、「そういう訳なら俺もなにか恵んでやろう。米や衣類より手つかず金がよかろう。一円持って行ってやれ」と
紙入れから紙幣を出して魚屋へ渡せば「これを恵んでお遣んなさるのですか。それにありがとうございます。さぞ喜びましょう。こうしてご親切の方もあるのに、旦那お聞きなさい。
一昨日の晩だそうですが、あの降りの中を厭わず孝行娘が例の通り不動様へ裸足で参詣して帰ろうとすると、御行の松の下あたりに気味の悪い奴がいてネ、しきりに呼び止めたそうですが、娘は一生懸命に逃げてきて、もう夜はお参りに出られないと昨日から朝にしたそうです。追剥だか何だか、ずいぶん暗い晩にはここらでも油断はなりませんね」というに
小林は「それは俺だ」とも言えず、苦笑いして聞いたり。

第4回
十年、二十年または五十年、百年過ぎて、のちに今のこの世の有り様を追想すれば、当時の人は谷中がいやなら、青山深川墓地地地。「ぽちぽちとみな死にうせて、宮も藁屋も」と詠みたる如く、富貴貧賤の跡は流れる水の行方を尋ねると同じならん。
実に夢の間の境界と悪く澄ましていれれぬ浮世。息あるうちに吊るした亀の子、手足をもがくそののちに幸と不幸は免れず。
落ちぶれ果てし親子あり、元は上野へ立ち入りて世に時めきし者なりしが浮かべる雲の吹き散りし後は、なす事みな外れて追々零落するに屈し、主の病死にいよいよ蓑へ頼む木陰の雨漏りもつくろい兼ねし世帯のしが金杉下町の裏家へ入り母子が僅かの手内職にて笑うことなき日を送りしが、
母がこのごろの眼病に、ある物はみな売り尽くし粥を焚くさえ漸くなれば、顔見合せて溜息の外に言葉はなかりけり。
かかる輩をせ●●廻して世渡りをする烏のお金というが、表口よりしわがれ声にて「おっかさん、ちっとはいいかね。お島さん、例のものは出来ているだろうね」と言われて母よりお島はぎっくり慌てて門口へ出て
「今日は簾が編み上がりますから、これを問屋へ持って行って15銭だけは内金にきっといれますから、もう2,3日」と顔赤らめての言い訳をお金は聞かず嘲笑い、
「いけないよ。毎日同じことばかりでは、待てません。お前が孝行だから一銭三厘づつは取る蚊帳を一銭づつで貸したのに、ひと月と今日で17日になるに、たった先月12銭入れたばかり。35銭を日なしにしてごらん。5厘づつは稼いでいるよ。35銭は貸金にして、蚊帳は今持って行く。さあ出しておくれ。困るのはお前の方より私が困るよ」と容赦なくかけあう所へ
「どうですね、おっかさんは。お島さん、これを総菜にしなさい」とかの魚屋が盤台を出せば、お金は頬を膨らませて
「おやおや、これを買ったの。何だね。鰹の中落ちかなにかで洒落ながら、私の方へよこしてくれないとは酷いじゃないか。これを見てはなお待てない。さあ、蚊帳をよこしておくれ」というを
「さては」と魚屋は悟り「お島さん、ちょっと」と脇へ呼び「これは私の得意先の小林という旦那から、お前の孝行を感心してのお遣いものだ。一円あるよ」「いいわ」「義理の固いことをいわずと、せっかくの志だ●取ておいてくれなくては、私が困る」と無理に渡せば、押し戴き
「おっかさん、これをいただいてもようございますか。はいそれならすぐ、そのうちから」とお金に蚊帳の損料を渡せば、世辞たらたらの現金婆、笑顔つくりて帰りし後には、母子そろって魚屋へ礼を述べるに魚屋は頭をかき
「なに、この魚もその旦那のところから貰ってきたのさ。お礼ながらお出でなさい。いい旦那だからまた心付けを下さるだろう。それに男ばかりで洗濯物や仕立物もあるからお出入りになると都合がいい。何さ、女嫌いの旦那だ。なりなんぞを飾っていくとかえって悪い。私がいっしょに行きましょう」と親切に勧めけり。

第5回
一時の苦情を永世の保存に換え難く断然実行せし浅草公園の改正は、規模を大きいにし体面を新たにし、風致というには乏しけれど士女来遊の設けには適当な位置に、それぞれの飲食店、休息所あるが中にも古物茶屋を●この頃開きし捻り者、変わった人のたちやすら●は、はくらんの薬をはくらん病が買うというにも似たり。
四人噛んだ楊枝を捨てながら、中の一人が声高に「なんと諸君子、古物というもその上神代とか元禄とか頭字を置いて自ずから党を分かつが高尚なれば、俗を離れて、止まり枝が高すぎるし、流行に従って低いところをもてあそべば、俗受けはよいが、気位が低し、春と秋との争いではないが、こいつは裁判がむずかしい。それをまた上下打ち通し、遠いも近いもなんでもかでも、博く愛をと白痴な儒者が仁の字の講義をするように来ては、目も心も忙しすぎて、物をもてあそべば志を失うという小言を免れまい。
何にしても偏らずに往来の真中を歩くというはむずかしい。おっとドブへ落ちるところ、しかしこの公園のドブは煉瓦で畳んで清潔だから、踏み込んでも仔細はない。
踏み込むといえば、この頃根岸の小林が女に踏み込んで大夢中という話をきいた」と一人で喋れば、次の一人が
「これ渡辺氏、君も聴神経がレーマチスに掛ったと見えるね。弁慶先生の深田へ馬を乗り入れて首ったけになっているのを、新しそうに今聞かれたのか。彼は先月上旬からのことだ。何にしろあのくらいの女嫌いがにわかにわが党の主義に変じたのだから、その溺れ方の反動力は激しいそうさ。しかしこれまで弁慶で押し通した者だからいまから、兜巾篠懸を脱いで吾輩へ降参するともいかぬと見え、あくまでもそのことを秘密にして皆にちょいちょいとせぐられても、一向知らぬ顔のところが罪深い。
このあいだもある人が訪れると何か急に障子を立て切ってゴタゴタとの騒ぎ、やがてようこそのご入来と澄まして出たが、例の落ち着きにも似合わず、少し慌てていた様子は変だと思って、座敷へ上がり四方へキッと眼を配れば、つづらへ入れた桜姫ではないが押入戸棚から女の着物の裾が見えたというが、大方その女を戸棚へ隠したものであろう」といったが、
「どうだ、これからこの人数で押しかけ否応なしに尻尾をつかまえ、頭巾を脱がせてやろうではないか」といえば
残らず賛成し、「そいつは近頃面白かろう。それほど秘密にするところを見れば、代物も定めて運慶の作という別嬪だろう。幸い表からも裏からも入られるあの家の追手搦め手をみんな断ち切り、貴落として降参させん」と
遊び仲間の悪洒落に日もやや西に入谷の里を横に通りて根岸へと赴きぬ。

第6回
男女の中にて憐れと感じ、可哀そうと思うことは、時ありていと深き愛情と変わることあり。
色こそ見えぬ香は、隠れぬ闇の梅よりなつかしきものと思えば、小林は何となくその女が慕わしく、また孝行な話を聞き、不憫いとおしと思う心の加わりて、いかなる女かみまほしと平生に似ぬ心起きし所へ
魚屋に連れられて礼に来たりしお島を見れば、優しき姿と思いのほか髪の毛は赤く縮れた顔には疱瘡のあと多く、猪首にして手足も太く、背は低くして横に開きたるは、見所●らになけれども、昔の育ち優しくも挨拶ぶり大人しく、先方の情けに深く感じたる様子にて、言葉すくなけれども何となく小林の肝に沁み、
姿の上には取る所なけれど、心の中の美しさは楊家の娘、孝氏の妹というとも及ぶべからず。
我の婦女を憎むは、かれら皆色を飾り、姿に誇り高慢の鼻●しました口、流し目に気障を売り、人に見られんを第一の喜びとなすが癪に障るゆえなれど、この女の如きはそれに反し姿色に誇る煩いなく内徳自ずから修まりて、かの斉の宣王を諌めたる無塩君、城の資長を助けたる板額女にも似たり。
かつは母に孝を尽くせど貧にして届かざるは憐れむべしなどと一人無暗に心の内に褒めこみ、これより折々物など送りその孝志をば助しにぞ、お島もこの厚き情けに報いんと、折々来りて洗濯物なにやかやと真実に働くうちに、いつしか睦まじき仲となり、小林はこの女をなおよく教育して天晴の者に仕立て、妻を選ぶにただ容貌をのみ取る世間億万の俗物輩の眼をさまさんと思いしが、今まで女嫌いと評判されし身がかような者に手をつけたとは、物好きも極まると悪口の友達に噂さるるも残念なれば、いま一二年は極秘にして、
母の方に預けおき「学問はもちろん、西洋の編み物でも、風琴の稽古でもさあ、来い」としてから表立ち晴々しく呼び迎え、彼が孝行の徳も明らかにしてやらんと我娘か妹を育つるほどに楽しみがり、親族はじめ世間へは伏せおきしを、早くも悟りし友達4人二手に分かれし。
「裏表先生ご在宅かね」と表門の潜りを開ける。折しもお島が来て、袷の裁ち物をしている最中なれば「そら邪魔が来た。これは家へ持っていって截つがよい。早く庭口から帰れ」とトバクサするうち、はや表門の二人は玄関へ上がり、合図に聞かせる笑い声。「時分はよし」と庭口より「小林君お家かね。ちょっとこの辺まで用事があったついでというは失礼ながら、これはだいぶ柘榴がつきました」とわざと大声に入り来る。
前後の敵に小林は狼狽したが、もとより心を隔てぬ友達、さてはこの女のことを聞きしりて、わざと進撃せしならんと思えば、いまさら隠しもならず「当山第一の什物だが、しかたがないお目に掛ける。さあこっちへ」とさっと障子を引き開ければ、四人はどっと打ち笑い「味方の勝利。勝鬨がわりのご祝言。めでたいめでたい」とはやし立て、果ては大騒ぎの酒盛りとなりこの連中が仲人または親許となり
めでたく婚礼の式を行いたりとぞ。お島が思わぬ幸いにも母に孝ある報いというべし。

饗庭篁村 根岸の五難  明治21(1888)年 読売新聞

11月14日付け
○根岸の五難
呉竹のなどと奥ゆかしげなりし上野の麓、根岸の里は、いかに鶯渓隠士が筆を揮って弁護さるるもまぬがれがたき殺風景の五大厄難に覆われて、今や裏屋続きのただの場末の汚い町とならんとす。
五大厄難とは何ぞや。
第一は名に流れたる音無川川上の製造場とやらにて、石灰灰汁等を流すため赤渋の濁り水となり、垣の山茶花一輪落ちても趣きをなさず。
第二は日暮里に火葬場あるため、煙は被らねど棺桶の往来となりしこと。
第三は空き地は無駄だの勘畧(訳注:考えて事をはかること)より焚付のような長屋を建て並べ、却って町並みを悪くして地価を落とすこと。
第四は肥取、夜分となりしより日暮里三河島荒木田尾久辺りより続々出かけし連中、七八時ごろよりまた続々とお帰りになりて是の間に挟まれては駆け抜けても駆け抜けても先にお出でになること。
第五は一番怖い事にて例の市区へ抱込み一條(訳注:一件)なり。村では幅が利かないから区の方へ入れてやろうという思召しはありがたけれど鶏口となるとも牛後となるなかれとやらで、これが市区のうちとなりては戸長役場の便を失い、納税や戸籍諸届け等に一日がかりの大不便を蒙るのみか、市区並みの入費が掛っては悠々と庭地を取っては置けぬと裏に裏の小屋を建てついによき人は逃げて、安物残り、いぶせき(訳注:きたなくて不快な)所となりて地価は一層下落すべしと歎ずる者ありという中に、いまだ市区となりては酒の税が高くなる、それが一番難儀なと頭をたたく者もありとぞ。

八石教会 東京登乃記 明治15(1882)年 大原幽学記念館所蔵文書より

当上根岸は、日光山輪王寺御宮坊官本間相模守永代所持の副屋敷にて建家、庭石、樹木等までも続也
明治元年戊辰年以来同氏より柳原謙吉へ建家だけ譲り、本屋敷の方へ一同住居。その後その方を加州候へ譲り、これを取返しまた住居。それより村田某(これは町人の由)へ譲渡せし由のところ、同氏よりまた旧土州藩伊賀某へ譲りしとなり。明治14辛巳年同氏から譲り受け、伊藤悦子、佐藤為信、富田正之ならびに与惣治等希望により同10月20日八石教会出張所に定めし。
庭木に松5本あり。これ珍木にて喜悦し故、松翠堂と号を撰
時に明治15壬午年8月30日 石毛源五郎書判
右(*訳注:原文縦書きのため上のこと)の通、檜板に認、神棚に納置
3日 雨 (*訳注 9月3日のこと)
一 檜之木 一本
一 紅葉 一本 下根岸より持来り植える
一 杏 一本 中道より持来り植える
一 杉 三本 日暮里より同断
一 檜 二本 同断
一 檜 一本 下根岸より持来り植える
 
4日 晴
宮田様 内務省へ御出
東京根岸金杉村百八十六番地へ八石教会出張所設置願御指令相済
中野様、小野様へ行く
内務省御指令済の旨渡辺様より八石青木ヶ峯施行平へ書状出す。

瘋狂病院広告(根岸病院 開院の言葉)明治12(1879)年 読売新聞

12月28日付
かしこき御代にあたりて、医薬の道、大いに開け、民の命を保ちたもうは誠に天下の幸福ならずや。病に色々あり、心の病を切なりとす。何をか心の病という。瘋狂(きちがい)これなり。概していわば父母妻子の道なく、人間の楽を知らず、甚だしきは兄弟に迷惑をかけ、隣人に嫌がられ空しく禽獣(とりけだもの)とともに終わるに至る。すなわち百病中の極症なり。ああ親となり子となる者、誰がこれを嘆かざらん。医たる者、よろしく心を用うべきなり。余やもとより浅学(せんがく)、あえてその術を得たりというにはあらず。ただ医業に衣食するをもって特にこの病に注意すること多年、ようやく効験(しるし)を見る。ここにおいて有志の人勧めて止まず。ついに官(かみ)に上申して、この病院を開けり。伏して望む、聞く人、互いに知らせたまわば、四海(しかい)兄弟(けいてい)の情けなり。その看護(かんびょう)の方(みち)のごときは極めて忠実(しんせつ)を尽くして少しも浮薄(ふじつ)に渉(わた)らず。院内の見かけに至ってもまたなお質素をもって主となす。問う人、幸に。恠(あや)(怪)しむなかれ
根岸石稲荷横町398番地 医員 渡邊道純 幹事 田口敬三

初音里鶯之記 碑文(意訳)   嘉永元(1848)年 根岸2丁目18の石碑

静かな時代には、おのずから物の音も穏やかに流れるとはその通りです。花には鶯の鳴き声、水に棲む蛙の声もこのご時世にならってのどかに聞こえてきます。そもそも鳥の声をもてはやすといっても、鶯ばかりがめでたいわけではありませんが、新年改まって春のはじめにほころび始めた梅の枝に鶯がきて、ひと啼きする様子はなににたとえられましょう。これを愛でるようになったのは、いつのご時世のことでしょう。万葉集のなかに鶯を詠んだ歌が、あれこれ見られますが、それらが始まりでしょう。菅原道真の「黄鶯出谷無媒介 唯可梅風為指車」という漢詩ができたのも、「はなの香を 風のたよりに たぐへてぞ 鶯さそう しるへにはやる」(意味:梅の花の香りを風の便りのお供としてウグイスを誘う案内役につかわそう)という紀友則の歌があったからです。このように鶯となると梅も登場するのはおのずと季節のたよりであるからです。梅は花の王者、鶯もまた鳥の王者と言っていいでしょう。この武蔵国豊島郡金杉村の根岸というあたりは東叡山のふもとであり、そこに初音の里と呼ばれる場所があります。元禄のころに理由はよくわかりませんが、京都より鶯をたくさんとりよせて、ここに放ったことから、やがてこの場所を初音というようになったのです。
天保14年のころ、ここの住人の富右衛門という者がこの初音の名にちなんで、ここに梅をたくさん移植して梅林をつくったのです。そして鶯の棲みかになればいいなあと。そんなことをなぜ考えたかというと、ある娘が詠んだ歌として「鶯の宿はと問わば、いかが答えん」(元歌:勅なればいともかしこしうぐいすの宿はと問はばいかが答へむ/意味:勅命ですから、まことに恐れ多いことで、謹んでこの木は差し上げましょう。しかし、いつもこの木に来なれている鶯がやってきて、「私の宿はどこへ行ってしまったの」と尋ねられたら、どう答えたものでしょうか)というものがあったからです。梅を植えれば、きっと鶯が飛んでくる。飛んでくれば初音の里という名前もむなしくはならないでしょう。これはほんとうに良い思いつきでした。自分自身、梅が好きだったので、梅の木を千本以上持っている中に「香る雪」と名付けた一本がありました。これは花の色も香りも素晴らしい庭木なので、それを梅園に移し植えて、鶯の棲みかになるようにしました。
そのようにして弘化2年2月のある日、当時江戸城の西の丸におられた家定公が狩りに出たとき、道中のついでにこの梅園を横切りました。その時、園には「雲の上」「魁」「便(たより)の友」と名付けられた鶯が、籠に入って梅の木の下に置かれいて、通り過ぎる時に「魁」が声高く啼いたのでとてもめでたい出来事となりました。こうしていよいよ梅のつぼみは多く開き、年を追うごとににぎわうようになってきています。
さて、弘化4年睦月28日、いまこの大江戸の名だたる鶯を持った人がこの園に鶯とともにやってきて、声の良しあしを審査することが始まりました。それをきっかけに、年毎に鶯が多く集まってくるようになりました。その鳥たちはとても賢くて、親鳥の声を真似て、ひな鳥はその親に劣らず、あげ・中・さげの調べを間違えずにならい行います。ひな鳥たちはおのずと品があって、文字口、かな口などと品々分かれています。親鳥に勝るようひな鳥を飼いならす技術は、これまでありませんでした。このことを後世の人にも知ってもらいたいと思いつつ、一方では今年の鶯の名前をここに記して、長く初音の里の名前が残るようにしようと、富右衛門の依頼のままに少しばかり、その由来を書いてみました。

嘉永元年3月15日
東叡山津梁院主大僧都慈廣 識
関根江山菅原為実 書
従五位下播磨守戸川安清(やすずみ) 題額

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