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太宰春台邸跡(長野県飯田市)

徂徠の弟子である太宰春台の家があったとされる場所が、信州・飯田市の駅の近くにある。父方のルーツが飯田にあるため、墓参りのたびに近くを通る。

「太宰邸址」の碑(撮影は2014年ごろ)

年譜などによると、幼くして一家で江戸に出て、その後は出石藩に仕えたりしたが、どうも亡くなるまで飯田に戻らずに儒学の勉強を続けていたらしい。

なおこの松も、昭和の飯田大火で燃えたあとに植えられた二代目だそうである。

飯田と春台の関係をさぐって国立国会図書館デジタルコレクションなどを紐解くと、信濃史談会編『信濃之人』(1914、求光閣書店)などのなかに、春台は徂徠の門下のなかにあって自ら子路の役割をもって任じており、「寧ろ罪をその党に獲るも、悪言の耳に入るに忍びず」といって直言してしまうタイプだったことが書いてある。

同書には、「剛毅狷介の性質」だったとも書いてある(故に徂徠の意に適うことも少なく、春台も不満を持っていたとすら書かれている)。

しかしこの黙ってれば良いのにカッとなって言ってしまう性質は、飯田の人っぽい印象はある(かなり薄まっていると思うが、身に覚えもある)。私も中島敦の「弟子」の影響だが、孔子の弟子のなかでは、わたくしもズケズケ物を言って師匠に失笑される子路に惹かれるものを感じるので、推せる気がする。

飯田に関わるのも多少の縁といえば縁かもしれないので、そのうち著作を読んでみようかと思う。

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