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ピエール・バイヤール著、大浦康介訳『読んでいない本について堂々と語る方法』②

の続き。

本との付き合い方に関していうと、自分が読書家だと思ったことはこれまでほとんどというか、一度もない。

業務(研究)の目的で1冊あたりの本を読み終えるスピードは速くなったし、分量も多くも読むのが苦ではなくなったし、手持無沙汰なときに本を開いているのも嫌いではなくなったが、自分はそれでも読書家とは呼べないだろうと思っている。

読書家という存在に対して、私はなんともいえない畏敬の念を持つと同時に、常に引け目を感じて来た。今でも感じている。

それは高校生までに読書の習慣が確立していた人をいうのであって、私のように、二十歳を過ぎてから慌てて岩波新書とかの濫読を始めたような輩ではありえないのではないか、という風に勝手に考えてしまう。本当はそんなの関係ないんだろうが、思考の癖は抜けないものである。

それとたぶん関連していると思うが、昔、お前は資料として小説を読むのかと家族や周囲の友人に呆れられたことがある。正確には、いまでも、資料としてしか読めないのだと思う。一つの作品をじっくり読むのが得意でない。

読書について、周回遅れどころか、先頭ランナーがもう最終コーナーを曲がるあたりからスタートしたような時間にようやく出発したような遅れの感覚は、今後も抜けないと思う。どうも研究するのに自分の読書量は全然足りないというところから出発して、必要だから読んでいるだけなので、趣味は読書とかおこがましくていえない。もちろんそんな私を本が救ってくれているという感謝はあるのだが。

だから、自分の能力および時間的に、本を全部読むことはできないし、自分の目的のために、その本のなかから自分にとって必要な情報が何かを見極めて読むことにしてよい、と思っていた自分にとって、バイヤールが言っている読書の規範からの解放の話は、ちょっと救われたというか、「ああ、やっぱりこれはこれでいいんだ」と言ってもらえたような気分になったのだった。

そしてこの「研究のための読書」ということは、哲学者の桑木厳翼も似たようなことを言っていて、我が意を得た、という嬉しい気持ちになった。

この本で紹介されていて知ったのだが、ムージルの小説『特性のない男』からの引用に出て来る司書の言葉に次のようなものがあるという。

有能な司書になる秘訣は、自分が管理する文献について、書名と目次以外は決して読まないことだというのです。『内容にまで立ち入っては、司書として失格です!』と、彼は私に教えてくれました。『そういう人間は、絶対に全体を見晴らすことはできないでしょう!』

ピエール・バイヤール著、大浦康介訳
『読んでいない本について堂々と語る方法』(ちくま学芸文庫)p.29

「全体の見晴らし」。この言葉に導かれて、議論はやがて、教養や図書館をめぐる議論へとつながっていく(つづく)。

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