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ありがとうございました

この景色を眺めていると思い出す人がいる

先月1月16日の夕方

珍しい人から電話があった

通知にこの名前が出た瞬間察してしまって、一瞬戸惑ったが、電話に出た

声の主は、その人ではなく女性だった

その瞬間、確信に変わってしまい、ただ連絡をくださったことに「ありがとうございます」とだけしか返せなかった



私が、親の引っ越しで玉出から友渕(都島区)に来たのは、小学校を卒業して、中学に入るタイミング。

両親は、私にいい環境を与えたくて、ここの場所を選んでくれた

急な引っ越しだったが、あまり感情は動かなかった

入学して、そこで出会ったのが、
体育教師であり陸上競技部の樋口先生

ちょうど、先生も友渕中学(公立)に転任一年目

体育の授業で測定をしたら、まあまあ速かったらしく、陸上競技部に誘われた

特に、どこに入るとも考えてなかったから、入部してみた

今考えれば、ここが人生の一つ目の分かれ道だったかもしれない

今に繋がる大切な土台

最初は、短距離だった

短距離では結果はでなかったが、冬の駅伝で芽が出始めた

いきなり大阪城駅伝1年の部で2位になった

そこから中・長距離に転向した

練習は、厳しかったが、毎日先生とひたすら走っていた

樋口先生は、生徒と一緒に練習するスタイル
当時、40歳超えていて、煙草吸いまくりなのに、誰よりも強かった(笑)

メモ→陸上競技界では、速い人を強いと言う

(当時のベストタイムを知りたい!
あの時本気で勝負していたら勝てたんだろうか?)

そんな練習を日々していたら、走る楽しさとタイムが伸びる喜びが自信になった

体育祭の1000mでは、2年間トップだった

でも、陸上界隈ではちょっと速いくらい

何とか上の大会に進みたくて、練習した

途中、オスグッドになったり、練習辛くて少しさぼった時期もあったが、3年には府の大会で走れた

苦手な3000mでベストも出た

引退した3年の冬の駅伝も先生に頼まれて、走らせてもらった(ほぼ練習してなかったけど、何とか走れた)

3年の大会で1500mに出たいのに、800mのエントリーされて、気にくわず、走らなかった時に殴られた時もあった(笑)

樋口先生と陸上競技のお陰で、小学校高学年からあまり居心地よくできてなかった自分から、学級委員長や生徒会副会長や答辞をやらせてもらったりと、自分で居心地のいい場所を選べるようになった

だから、先生には本当に感謝している

今を生きる原動力になっている

あの練習に比べたら、殆どことは大したことない



そんな大恩師が亡くなった日から、1ヶ月と少し

思い出の場所を毎日病院の13階から眺めながら、
ベルパーク見えるなーとか飛行機の音懐かしいなーとか銀橋までのコースの時、きつかったなー😁とか、たまに距離伸ばした川崎橋は地獄(笑)とか思い出しながら振り返っていた

あー先生にこの時どう感じてたんとか聞いとけばよかった!

そんなことを思い出した1週間の入院生活でした
(親不知の手術で入院してました)



明日から3月!

3/1は開業日!
10年目突入!!
新たな日に退院の日が被るなんて、何か嬉しい!

今年は、新たな目標があるので、それに向かって、進みます!

そこらはまた書きます!

キーワードは、玉出をおもしく✨

後、先生の遺品をいただいてます。
(陸上競技に貢献した人に送られる盾)

お店に飾ってます。

集まれるようなになったら、皆でそれを拝みながら、思い出話しましょう!