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シャニマスは文学だ、って

シャニマスは文学だ、と言われることがよくあります。
僕もそう感じていますし何度かそう発言したこともあります。しかしどういった意味で文学なのかと聞かれれば、答えるのはなかなかどうして難しいものです。

僕がこれまで用意していた回答は、「なにがしかの思想を背景に作られており単にエンタメとして消費される以上の含みがあるから」というものでした。ふわっとしています。
他のやり方で文学性を認めることも十分可能です。たとえば文学的美しさなんて言い回しもありますから、直接わかりやすく示さないことで空気感や質感などとともに情緒を伴う豊かな表現に成功していることによって文学的と評価する人もいるかもしれません。僕のが善をめぐる探求として文学を捉えているとすれば、こちらは美しさをめぐる探求となるでしょうか。
いずれにせよ、これが文学という唯一の正解があるものではないですし、各々が文学的と呼びたくなる理由を持っていること自体が文学性のひとつの証明であるような気すらします。

さて、最近もあいかわらずシャニマスをやりながら色々考えているのですが、ちょうど「これはやっぱり文学だなぁ」と思うことがあったので、まとめて書いてみることにしました。
考えていたのは例によって浅倉透の時間意識の話なのですが、これについては別の機会に公開予定です。ただ、脱線して考えたことまでひとつの考察に収めようがありませんから、そういうのはこちらに出してしまおうといった経緯で書いています。要するに副産物的な思考の断片になります。


時間に気づくと

時間について注目してシャニマスをやっていると、ものすごい頻度で時間に関連するセリフや歌詞などが目につきます。ノクチルの新曲はどちらも「未来」や「今」が曲名に使われています。
歌詞の考察はあまり得意ではないので、普段よく見ているコミュの方から手当たり次第に3つ出してみます。


アジェンダ283

いろんなかたちでつながって……
大事なことをつなげて……
そういうのが、未来になるって

アジェンダ283「今日を終える前に」

大事なことをつなげて出来上がる未来とは、単なる現在以降の時間(なんら修飾されていない未来)を指すのではなく「自分たちのはたらきによってできあがっていくもの」くらいの意味合いがあります。
個人的に好きなのは未来に「なる」という風に、目標として設定せずに自ずから生成していくものとして未来を捉えているところです。目標の実現とは、いわば「あらかじめ未来を確定させること」ですが、まだないものについて確定させるのはどこか人工的な考え方のように思います。もちろん目標を設定することによってできることの幅はかなり広がるでしょうが、ときには別の考え方もできなくてはならないはずです。
とりわけ「生きる」ことに根ざして考える場合、生きているのはつねに今ですから、未来のために今を犠牲にする目標の実現では本末転倒となりましょう。それでも好ましい未来を実現したいとすれば、別の考え方が必要となるということです。そして、大事なことをつなげて未来になるというのは、よく練られた回答と言ってよいでしょう。


#283をひろげよう

何がきっかけになるか、それを考えて
計画したり企画したりしてはいるけど
実際、そのチャンスは簡単に作り出せないし
巡って来ない
だからみんなには、いつその時が来てもいいように
しっかり準備していて欲しいんだ

#283をひろげよう [283PRO]MEETING bhb

さきほどの大事なものをつなげるという能動的なイメージに比べて、こちらは受動的と言えそうです。たしかに自分たちの大切なものが自分たちの内部で完結してくれるとは限りません。アイドルならばステージを演出するにもファンが必要で(僕ならばこのような記事を読んでくれる人がいなくてはなりません)自分の大切が周囲を巻き込んで大切であるケースは少なくありません。そして他人を力づくで参加させることには意味がありません。歪められない意志の持ち主が自ら関わってくれてはじめて大切なものにできるのだろうと思います。
しかし対外的に何もせず勝手に内輪で盛り上がっていては、周囲を巻き込むことはそうそうできません。強制はできず何もしないのも違くて、いわば求めながら待つ必要があります。そうして目指される未来は、大事なものをつなげると考えた場合の「現在の延長」というよりは「到来してくる」ものとしての性質が強くなります。
「(チャンスは簡単に)巡って来ない」や「いつその時が来ても」といった言い回しには、未来の捉え方の変化が色濃く反映されていると見ています。


SHHis 感謝祭

けど、今は一回しかない
……本当にまたこういう機会が巡ってくるとは限らないよ
(中略)
何を一番大事にしたいのか、よく考えてほしい
(中略)
……『感謝祭』なんだ
感謝できるといいなと思うよ……
今っていう時間にも

SHHis感謝祭 #####

『#283をひろげよう』よりは前になりますが、その頃からプロデューサーの方針は、巡ってきた機会を生かすために大事にしたいものを大事にするということであったと伺えます。だから、ふたりの大事をきちんと大事にできるチャンスに恵まれた今という時間に感謝できたらと願っているのでしょう。
個人的に、ここでの今の一回性についての理解がえらいなと思ってしまいます。というのは、今がもう二度と取り返せないものだから希少で尊いのだという見方ではなく、色々な積み重ねのもとにあるこの状況全体はこれっきりなのだという見方です。前者は「希少だから感謝すべき」という論法にすぐ落ちていきますが、後者では「だからそれに感謝できたらいいよな」という方へ向かいます。
今が蔑ろにされるべきではないということを夢や目標の話に関連して何度か言ってきましたが、今が希少だから感謝すべきというのも今に焦点を当てていながら形式的に過ぎ、救いたい今のことから逸れてしまっています。引用の最後は、生身の人間に向き合って今を大切にしたいということが現れた発言だと思いました。


さてここまで、適当に引っ張ってきた例を見てきましたが、それぞれの場面で時間の意味するところはけっこうな違いがありました。一言で時間と言っても様々に理解される余地があって、それぞれの意味が人間的な営みに深く結びついていることをお示しできたと思います。


時間意識を疑うべきこと

少しだけシャニマスを離れて、時間そのものに向き合って考えてることを整理してみます。
通俗的な時間の理解は、過去から未来へと現在という瞬間が流れていくといった感じになると思います。現在がすぐさま過去になっていくと述べた方が丁寧かもしれません。いずれにせよ過去─現在─未来の一方向性は広く前提されているもので、カレンダーや時計などの時間をあらわすための道具は順番に配置された各時点を指示するようにして時間を提示します。

直線上に配置される時間というのは(長くなるのでここでは述べませんが)正直かなり疑わしいものです。
しかしこれは哲学者が面白がって時間について喧々諤々の議論をして気持ち悪い笑顔になっておしまいという話ではなく、もっと切実な問題として考えるべきであると考えています。すでに示したように、時間をどのように理解するかが生き方に深く関わってくるからです。

現在が不可逆的に過去になり他方で現在は未来に開かれている、というありがちな時間理解を考えてみます。
この理解のもとでは、すでにこうなってしまっている現在の自分ができることは未来を変えることだけということになります。未来にしかアプローチできないからと言って前向きに頑張ったとしても、善かれ悪しかれ取り返しのつかない過去ばかり増えていくのであれば、年齢を重ねて未来が少なくなっていくこと自体は端的に不幸となってしまいます。未来に向けてできることが少なくなれば、過去を肯定するようになるのはやむを得ないのかもしれません。極端な話、一生懸命生きていこうとすれば、いつまでも新しいものに挑戦しつづけるか過去を力強く肯定するようになるかの二択になりかねません。
あるいは現在が不可逆に過去へと失われていくことを突き詰めれば、どうせ死んだら全て無くなるのだから人生なんてなんの意味もないというところまで行くのもおかしい話でもありません。人間が時間から疎外されている状況です。
ここまで具体的な話ではなく思いついた例を出しただけではありますが、そんなことをせずとも、人生に向き合うほどに時間の残酷さが身に沁みて感じられることは多く賛同してもらえるものと思います。

こうした時間の残酷さが人生にもたらす諸問題に対して、時間に対する理解そのものを疑う道筋もあるのではないか、というのが最近考えていることです。
たとえば上にあげた懊悩はいずれも、人生や人生がとりおこなわれている現在の意味を過去や未来のもとで求めていることに起因しています。これこれの功績を残しただとか、然々になれる可能性があるだとか、そういうことです。目標や夢を推奨することは未来のために現在を捧げるよう促すことでもあります。くどいようですが、「もうない」ことや「まだない」ことのために唯一「たしかにある」現在を蔑ろにするこの構図自体に問題があると考えています。ではなぜ過去や未来が優位に立つ見方がまかり通っているかといえば、現在も残された未来もすべて過去になっていってしまうという不可逆性が時間意識に根強く残っているからであると思います。
過去がもはや無いものになってしまうことであるとか、未来のために現在が捧げられることとか、そういうところからして疑えるのであれば話はだいぶ変わってくるだろうと考えていて、特殊な時間意識を用意する必要が出てくるのですが、まだ煮詰まっていないのと本筋ではないのでこの話は今はここまでです。


それでも終わりに向かうなら

時間意識を疑うというのはあまりにも大きな話ですし、少なくとも無数の人間が協働する社会を営む以上は客観的な時間(1年365日で1日24hある時間)のもとで暮らすことは避けがたいことです。

ひょっとしたら新しい時間意識を獲得することは人間離れすることかもしれません。すでに確固としてある日々のなかでどう生きるかを向き合うほうが現実的とも言えます。
過去や未来のもとで評価することに難癖を付けましたが、仕事をするうえでは何らかの成果を出すことが要求されます。現実的にはそうしたことは避けがたいはずで、将来への努力を何とか肯定的に転換しようとしたのが目標や夢である、と言ってもいいかもしれません。(これまで目標や夢に対して否定的なまなざしを向けてきたのは、むしろそれらが無批判に肯定されていることでした)

目標に頼ったときに問題となるのは、依然、すべてが過去になってしまった場合です。目標を達成してしまった後のことです。たとえ努力がみのり幸福な結末を迎えても人生は続くものです。以降の人生を意味あるものにするためには、新たにハッピーエンドを目指すしかないのでしょうか。
また、ハッピーエンドが人生のピークだとしたら、それ以上の幸福を目指さないと残りの人生は「あのとき以下」になってしまいます。あの頃が最高だったと言わないためには、常に成長しつづけるしかないのでしょうか。

ハッピーエンドへの疑問はアルストロメリアが感謝祭に際して抱き、向き合ったものでした。

ふたりと一緒にいたい
今が幸せで、これ以上のことは望んでない……
だけど……それじゃダメ、
甘奈も変わらなくちゃって気持ちと
変わりたくない、変わるのが怖いって気持ちで……
ぐちゃぐちゃになって……

アルストロメリア感謝祭「いつまでも、いつまでも」

変化そのものへの恐怖や未来への不安が話題にされており、ハッピーエンドを目指し続けるしかないとしたら人生は虚しいのではないかという先程までの話とは必ずしも重なりません。しかし、ハッピーエンドや変化や成長などを無邪気に信じていると問題が生じうるものであり、問うべきこととして明るみに出しているという根っこの部分は同じです。

千雪さんが甘奈に共感を示したうえで示す答えはこうです。

でも、それって、手元に失いたくないものが
あるからなのかなあって……
──ひたすら前向きに未来を目指せるほど、
やけにはなれないのよね
……今を大事にする気持ちって、
とっても大切だと思う
未来を思い描くのと同じくらい……

アルストロメリア感謝祭「いつまでも、いつまでも」

ある意味では成長が必要であって、ある意味では成長にとらわれてはいけなくて、そのあいだで葛藤せざるを得ないこともよくわかって、そうして出てきた言葉なのだと思います。
今の幸せを失うかもしれないならば変化を恐れることはあたりまえだし、今のままではいられないから別の幸せな未来を思い描くことも大事だけれども、そのことと今を大事にすることはどちらも残さなくてはならない。そういうメッセージとして受け取りました。
成長を要求される世の中で生きていくことに対するひとつの立派な回答であろうと思います。最終的な成果によってすべてが決まるのならば、これまでに何を成してきたかとこれから何を成しうるかによって価値評価するほかありませんが、今を決して見捨ててはならないことを忘れてはなりません。


人に寄り添うからこそ

ところで成長や変化を無邪気に信じてしまっている典型は、経済であろうと思います。企業は収益を上げることを目指しますし、日経平均が上がっていくことが良しとされます。成長しないと売れないぞ生きていけないぞという話を平然とするのもそうです。そうした考え方の根拠となるのは、給料と物価が緩やかに上昇していって全体的な資本が増えていくという永続的な成長を古典的な経済学です。そこでは貧困は全体が豊かになれば自然と解消されるし、環境破壊も豊かな社会のもとでは何とかできる対処法を編み出すのは容易で、経済的な豊かさが人々の幸福につながると想定して理論が組み立てられていました。が、それはどう考えても無責任で実際にいまは貧富の差は大きいし環境破壊は止まらないし、自殺率も高いままです。
別に経済に詳しいわけではなく経済学者の書いた数式の出てこない本を何冊か読んだだけなので的外れかもしれませんが、古典的な経済学にとっては希望的でしかなかったものがを確たる理論として扱って定着してしまった現状に、最近ようやく反省の目が向けられ始めているようです。
(cf. 『ドーナツ経済』ケイト・ワラース著 黒輪篤嗣訳, 2021, 河出書房新社 特に第一章)

成長が必ずしも人間の幸福につながらないならば、成長を目指す根拠は急に薄弱になります。(国家政策は豊かさの水準をGDPに依拠して作られることが多々あるようですが、これは人間のためではなく国体のために働いていることのひとつのあらわれでしょう)
成長と幸福のつながりに「そうであったらいいのにな」以上の根拠がなかったのだとすれば、成長が何をもたらしてくれるかの反省をしたうえで、何が人間の幸福につながるかを問うのが本来すべきことであるはずです。

いまや主題は人間であり、経済学にとっては主要な関心を外れます。それゆえになかなか問われてこなかったのかもしれません。
人間が良く美しく幸福に生きることにもっとも直接的に向き合ってきたのは文学でしょう。そもそも物語が人間なくしてはあり得ません。たとえ動物しか出てこなくとも人間的な考え方が投影されたいるため、やはり物語は人間の営みです。
文学が提示する答えがどれほど実りあるものであるかは別途検討しなくてはいけないことがらですが、直接的に人間の幸福のかたちを考えるのにうってつけな学問を役に立たないと切り捨てるわけにはいかないでしょう。そんなことをすればGDPやその他の数値によって幸福が定義される道しか残されなくなってしまいかねません。

生きることについての問いを提示し、正解ではなくとも回答を与え、それについて考える契機となりうるのであれば、物語は文学的と言うに足るのであろうと思います。
この記事で挙げたいくつかの例に限らずシャニマスのコミュは、真摯に向き合うほど読者の思考に豊かさをもたらす力を持っており、熟考の結実であるように見えます。その意味ではシャニマスは文学であると思います。ようやく堂々とそういうことを言えるようになりました。



(余談ではありますが、自分がおもしろがっているものの価値を表明したいために文学だと箔をつけることを、僕は好みません。
文学部不要論が出るたびに見かけるのですが、文学の必要性を訴える言葉に乗っかってライトノベルや大衆小説などのすべてをひっくるめて文学と呼び、その必要性を声高に叫ぶ自称読書家がいます。彼らは文学が価値あるものであるという言説を借りて、なぜ文学に価値があるかによらず自身の好むものを文学の仲間に入れてしまっています。
さまざまな趣味を許容せよと訴えるのならば同意するのですが、文学として価値があるのだから優れた趣味なのだと言うのであれば認められません。ライトノベルや大衆小説だから認めないのではなく、なぜ価値があるかを表明できておらず、誰かが提示した文学の価値にフリーライドしているからです。そのことによって文学の学問としての意義は何ら擁護されていないように見えます。
誰かが文学と言ったから特に深掘りはしないけど文学である、というスタイルでは文学と述べることによって守りたかったものをかえって損なうように思えます。シャニマスについてはきちんと表明しておきたいなと思って今回いろいろ書いてみました。が、冒頭にも書いたように何をもって文学性を見出すかは人それぞれですし、人それぞれの方が良かろうと思うので、結局は長い長い独り言のようなものでもあります)

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