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アイムベリーベリーソーリー 「いい仕事」

久しくnoteを更新しておりませんでした。
基本的に書ける感じにならないと書けないタチというのもあり、趣味なんだから書きたいことを書けばいいのだという考えで、のんびりやらせてもらっています。
無理してでもハイクオリティーな記事を用意するのはもはや仕事と言ってよいと思うので放ったらかしてたのですが、今回、書ける感じになったのはまさしくこの「仕事」がキーワードです。

仕事の話をするにあたって僕の労働状況を示しておかねばならない気がします。お察しの方は多いと思いますが、普段は学生をしていて週2以下でパートとして働いているほかに家庭教師が週1程度です。パートの方は忙しかったら2週間くらい行かなくてもOKな気軽さでやっているのですが、業種が極めて専門的かつ特殊なため、業務にけっこう重めな責任が伴っています。家庭教師も人の将来に関わるのでめちゃめちゃ怖いです。
余計に輪郭が掴みにくくなったかもしれませんが、ある種の責任をもって仕事をしている一方で、しかし、毎日働いている人と比べるわけにはいかない気楽な立場であるということが伝われば十分かなと思います。本筋には関係ないのですが、「じゃあお前はどうなんだ!」となるかもと思い、あらかじめお伝えしておきました。



いい仕事をするということ

この記事は表題の通り、シャニマスのイベコミュ『アイムベリーベリーソーリー』の感想にあたるわけですが、これを読んでいて一番最初に「おぉ……」と思わされたのは以下の箇所です。

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職場体験でレジの操作を教わった後の場面で、アイドルを理由にバックヤードの仕事を任せる店長の言葉です。

アイドルならば衆目を集めることは間違いなしで、話題性に事欠きませんから、店側の利益を考えれば飛びつきたくなりそうなものです。だけど店長はアイドルだから店頭での仕事を控えるように伝えます。
先々まで見ていくといっそうはっきりするのですが、これは人目を引くアイドルという存在がいると花屋として為すべき仕事に支障が出るという店長の判断と考えられます。彼女たちがやっているのは、あくまで花屋の職業体験ですから花屋の仕事が最も優先されるべき、というわけです。

同様の態度はこちらの場面からもうかがえます。少し長めに引用します。

店長 :こうやって、少しでも長く生きてもらうの
    ……とっても大事なお仕事よ
智代子:はい……!
店長 :命を摘み取らせてもらってるから
    咲いてる間、しっかりお世話しないとね
摩美々:……
店長 :はい、それじゃ摩美々ちゃん
摩美々:──えっ……
店長 :やってみようか!
摩美々:え、あぁ……
智代子:緊張しちゃうよね……!
    今のお話の後だと……!
店長 :緊張してちょうだい〜
    ふたりに切ってもらったのも、お店に出すからね
二人 :……!
店長 :少し、安くしてだけどね

驚いたのは最後のところでした。アイドルが手入れした花なんていくらでも付加価値をつけられそうなものなのに、かえって安くして売ることに決めています。店の利益を出すことよりも仕事の良し悪しによって価格設定をしようという姿勢が表れていて、ここに密かに感動してしまいました。

仕事の良し悪しによって価格を決めることについてもう少し踏み込んで考えます。
まず、花屋にとって何がいい仕事なのか、何を大切にすべきかについて、店長が自分の考えを持っているらしいと伺い知れます。具体的には引用前半部にあるように花の「命を摘み取らせてもらってる」ことに自覚的になり「少しでも長く生きてもらう」ようにするのを「とっても大事なお仕事」と考えていそうです。
大袈裟に言えば花にとって最も幸福な生を模索していこうという心構えが見て取れます。あえて意地悪な見方をすれば、花が長持ちしさえすれば客の心象が良くなるから信用を勝ち取れるのだという打算的な態度を見て取ることも一応は可能ですし、店長もそういった視点をまったく持ってないことはないと思います。ですが、だからこそ、客にとってではなく花にとっての良し悪しが一番に言われていることは大事に受け取りたいところで、「いい仕事をしたい」という店長のメンタリティーが読み取れる箇所であるように思います。
(余談ですが、花をアイドルに置き換えればプロデューサーの仕事だなと思いました)

ただ、「花にとって」ということを何よりも優先するならば、摘み取らないことがベストとも言えるわけです。重箱の隅をつつくようですが、あえて嫌らしくつっこんで、「花屋とは花の命を犠牲にして成り立つ残酷な仕事なのでは?」という倫理的な問いを投げかけることは可能です。これをなかったことにするわけにはいきませんが、言うまでもなく正解があるものでもありません。それどころか基本的に分が悪い問いなのですが、本当は──という含みを残した言い方をしておくとして──その問いに向き合い続けることもひっくるめて花屋の仕事であり責任ですらあるだろうというのが自分の考えです。
花の命を刈り取ってまでやる意義のある仕事にしなくてはならないという意識があるとき、よりよい仕事となるのではないかという話です。
それではよりよいものとすべき花屋の仕事とは何なのかというと、お客様に花を届けることでしかないのですが、この当たり前の事実がけっこう大事だと感じています。



誰かのために仕事をするということ

花屋の仕事は花を届けることである、とは当たり前すぎて人を小馬鹿にしたような表現ではあります。が、仕事とは本来誰かのためにするものであるという事実は意外にも忘れられがちであるように思います。

たとえば、twitter上でしばしば労働への呪詛の言葉を見かけます。
いかにしたたかに仕事をサボって会社から給料をふんだくるかといったツイートがバズる光景は見慣れたもので、自分の生活のために渋々はたらいている方々の共感を集めているように見えます。
僕はこうした言説に異議申し立てをしたいのではなく、むしろそうしたものを見るたびに皆様いつもお疲れ様ですという気持ちでいっぱいになるということは、誤解なくお伝えしておきたいところです。

僕がしたいのは労働意欲のない人の摘発などではなく、仕事が恨みつらみの源になってしまっていることのもったいなさを見つめ直したいという感じです。いずれにせよ仕事には辛いことが伴うのは避けがたいとは思いますが、仕事には自分ためにも誰かのためにもなる可能性があるとしたら、ただただ不快の元になってしまっている現状こそが嘆かわしいんじゃないか、仕事そのものにはもっと期待していい広がりがあるんじゃないかということを言いたくて言葉を尽くしています。

いま、自分のためとか誰かのためとかいった言葉を使いましたが、これはちょっとした先走りです。
誰かのための仕事になっていることの大切さが『アイムベリーベリーソーリー』でよく表れているなあと感じてしまい、これからそういう話をしていくつもりです。そして誰かのためであることが回り回って自分のためになるということも実はとても守りたいポイントです。

こういった話はどうしても綺麗事めいてしまうのですが、綺麗事となってしまうほどに現実が力強いということは言えると思います。しかし「現実ってこうだから」と諦めて自分もまた現実の一部となってしまうのではなく、現実の非情さを認めたうえで、それでも抗おうとする姿勢を僕はしばしばシャニマスから感じてしまいます。このイベコミュでは特にそれが表れていたように思いました。

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家業を継ぐすもりはないと言って夢を追いかけていたはずの画家が、いまや妻の望む趣味の時間にすら難癖を付けています。若い頃に現実をはねつけていた人が現実に飲み込まれて今度は自分自身が現実的な圧力になっている描写は強烈です。同型の諦めがあまりにもありふれているからこそ強烈なわけですが、現実の抗いがたさをよく承知したうえでシナリオが書かれていることがわかります。


さて、ここでは「誰かのため」の仕事を問うてみたいわけですが、ひとまず逆に上で述べた綺麗事とは正反対の事態について扱ってみたく思います。
つまり、仕事をする理由が「自分の生活のためでしかない」とき、「この仕事が誰の役に立つのかわからない」ときのことです。
こうなってしまうと、仕事が重く負担となるのではないかと思うわけです。そこに職場の厄介な人間関係が絡んできて「労働はクソ」と言わざるを得ない状況になる、というのはいま想像した例ですが無い話ではない印象を持っています。
この事例のもっともらしさを強く主張するつもりはあんまりなくて、稼ぐためにのみ仕事をするのは仕事をさせられてるのと変わらないだろうといった考えのささやかな補強です。

と言いつつ、にちかがこうした考え方をしていることは指摘しておいていいでしょう。生活に必要な金を稼ぐために働くのであって労働にそれ以外の意味はないとすれば、会社は給料を渡してくる他人でしかありませんから、給料以上のことをする筋合いもないという考えになるのも自然かと思います。こういうありがちな雇用主への薄情さ(会社の方がよっぽど自分に薄情なことはすごくよくあるので薄情といって非難する意図はないのですが)が、真乃へのリアクションにあらわれています。

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あんまり同じ言葉を多用するのもあれなんですが、こんなに若いのに現実に飲まれてるんだよなぁっていうのを感じてしまいます。世の中こういう風になってるんだから変えようと頑張るのは無駄だし、そのなかでどうやって強かに生きていくかしかないんだよね、みたいな諦めを感じてしまいます。

子供とかに夢を抱いて欲しいなんていう大人がよくいますが、自分たちの作ってる社会が彼らの前に待ち受けていて、早くにそれに触れた人がある種の諦念を抱えて生きていくことになるってことがどれだけ分かってるのかなと感じたりします。これはにちかのリアクションを元に言っているというよりは、子供の貧困という現代日本の問題があって、それがにちかに表れていると痛切に感じていることによります。脱線したぼやきです。(参考:『高校生ワーキングプア ――「見えない貧困」の真実』新潮文庫、NHKスペシャル取材班


さて、話を戻しつつ基本的なことを確認しておけば、仕事によってお金を得られるのは、仕事が誰かのための営為となっており、その人によって報酬としてお金が支払われるといった仕組みがあるからです。
誰のためになっているかもわからないといった状況では、代償という構造だけが残り、自分の苦労と引き換えに報酬を得ているような感覚になりやすいのではないでしょうか? まさに我が身を犠牲にという感じです。
言っておきたいのは、その仕事の恩恵を受けてお金を払ってくれさえする人がいるにもかかわらず、単に報酬としてお金を受け取るのみで、客のためになっているという手応えを感じられないとしたら、ちょっと寂しすぎないかということです。

くどく繰り返せば、労働が自分のためでしかなくなってしまうときに失われるものがあるということです。いまは個人レベルでの話ですが、企業レベルで自社の利益のみを考える場合にはけっこう大きな問題をもたらします。そこまで話を深めるつもりもないので言いっ放しになりますが、誰かのためというモチベーションでなされる仕事であることによって生み出される良さや保証される安全性などがあると信じています。
(具体的には、利ざやを増やすために生産者から買い叩いて、安く仕入れることを厭わない仲介業者であったり、そこで生きる生き物のことを考えず将来的な影響を評価もせずに生態系を破壊しながらソーラーパネルを設置する行政のことを思い浮かべています。)


仕事を誰かのための仕事にしようという話に戻ります。
誰かのためといったところで、そういう視点で考えることと、実際に相手のためになることとは別であり、誠実であろうとすれば特有の困難が付きまとうことはすぐさま思い浮かぶことと思います。言葉のうえで求めているものを差し出して終わりにするのではなく、本当に求めているものに応えようとすると、途端に難しくなってしまうわけです。

花屋の店長にそのような誠実さを見てみます。
たとえば法事用の花を頼まれた場面。一般的に考えられる種類の花を用意するのではなく、生前その人が好きだったダリアを渡しています。

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まさに、お客さんが一番求めていることに応えようとする人だけが可能な対応です。

花屋の仕事は人に花を提供するというのはそういうことで、適切な人に適切な花をなるべくいい状態で提供するのが花屋としての「いい仕事」になるわけです。いい仕事には花を長持ちさせてあげるための技術を行使するという側面もありますが、「誰かのため」という側面もあり、それを満たすためには相手への眼差しもなくてはならないわけです。



自分のために仕事をするということ

再三になりますが、いい仕事とはなんぞやということは現代ではしばしば忘れられてしまっていると思います。
お金を稼いで経済を回すこととか、成長していくこととかが取り沙汰されますが、結局、誰かのためになっていたり何かの不正義を是正したり何かの価値を生み出していなければ話になりません。

とはいっても、生活費を稼がなくてはいけないとか企業を存続させなくてはいけないとかいった切羽詰まった事情や、決定権が自分にはなくてすべて無能な上司の気分に任せるしかない状況など、現実的な問題は常に立ちはだかっていて、深刻であるほど「そんなこと言ってらんない」という話になりますし、そんなこと言ってらんない状況は実にありふれています。現実の力が強くて本来はどうこうという話が綺麗事となってしまうというのは先に述べたことの繰り返しです。

利益よりも仕事の質を向上させることすら、もはや偽善と考えられかねないところではありますが、利益のためだけに仕事をしてるんじゃないはずなのにな……と寂しみを感じている者としては、利益度外視で花のためお客様のための仕事によって価格を決定しようという店長の判断には感動させられたわけです。
本当はそうあるべきことを実際に行動に移すのは難しいですし、「理想はそうかもしれないけどね……」と言われても仕方ない苦労が社会人にはあるに違いないのですが、「それでも我々は理想を目指そうと思います」と同じ志をもつ仲間を見つけた気分だったわけです。


ところで、仕事と理想とを関連させる話のなかには自己実現というやつがあります。それはある意味で、仕事を自分のためととらえる態度であって、ポジティブな仕方で言及されることもわりとあります。
ですがこれにも疑問は抱いていて、例えば大学にあった起業サークルのことを思い出してしまいます。入学時にありとあらゆるサークルの話を聞いてまわったことがあるのですが、そのサークルからは起業をしたいがために起業を目指しているという印象を受け、強烈な違和感を覚えました。何かの実現や問題解消といった仕事に対して、仕組みづくりなどの手段として起業があるはずです。何か成し遂げたい気持ちはとても共感できるのですが、気持ちだけが空回りしていると言いますか、起業自体が目的となってしまった日には客が付き合わされる羽目になるのではないかという疑問を抱いたのでした。
重ねて、僕が共感できると述べた「何か成し遂げたい気持ち」のまわりに、もう少し深刻な事態を感じ取ります。というのは、仕事にやる気を出すことと自分の満足に人を巻き込むことが同じくくりに入れられてしまうと、仕事に熱心であることが総じて冷笑の的になりかねないからです。あまりに大雑把な枠組みですが、そういうものに限って市民権を得ることは珍しくありません。誰かの役に立っている実感があって仕事にやりがいを感じているという人に対して「仕事が楽しいだなど信じられない、何か意識高い系のカンチガイをしてるんじゃないか? 」「会議中にアグリーとかカタカナ語を多用して気持ちよくなってる連中の仲間か?」といった疑いを生む土壌が作られているのではないかと、そわそわしています。

僕が仕事と自己実現とを重ねる言説に対して感じるのは、「仕事にやりがいを見つける=善」みたいな構図を脳死で肯定しないでくれということです。
また、それに対するアンチテーゼとして、仕事は金を持ってくるためにやっていて稼いだ金で私生活を豊かにするのだといった考えがどうにも流通している気がする(印象論で申し訳ない)のですが、そういう生き方は選択肢としてアリだとしてもアンチテーゼにはなってないと思ったりもしています。というのは、それが倒そうとしているテーゼは「仕事にやりがいを見つけることだけが自己実現である」という誰も採用しないレベルで狭窄気味な考え方になっているからです。敵を過剰に弱くしてしまうと批判自体のもつ価値も減じてしまいます。

真に倒すべき敵は、「仕事を自己実現の場にするのは何はともあれ良いことだ」といった言説でしょうか。会議でカタカナを多用している様子は揶揄されることがあり、実際に仕事してる感に酔っているのだとしたら、バカにされても仕方ないかなと思います。仕事はやはり取引先とか顧客といった仕事の恩恵を受ける人がいるから成り立っているわけで、自分の人生にまつわる問題としての重みをつけすぎると、相手のことを軽んじる結果になりかねません。が、そういったことを批判するとき、返す刀で「私生活を豊かにする金を稼ぐために働く」といった発想も批判対象となります。
とはいっても、生活のためにやむなくなされる類いの、ありふれた労働において、きちんと人のためになる仕事をしろと告げることほど酷い仕打ちはありません。(これに対して、仕事を熱心にやっていると思い込んでいる分、例の起業サークルのような人々は救い難く感じてしまいます。仕事に熱心であると言いたいならば、相手のことを考えないのは糾弾されるべきで、やむなく仕事をしている人を責めるのは違うといった差異があります。)
要するに何が言いたいのかというと、生計を立てる手段としてであれ自己実現の手段としてであれ、自分のための仕事という視点に偏ってくると、仕事とはそれによって恩恵を受ける誰かがいるのだということが抜け落ちてしまいやすいでしょう、という話です。

もしかしたら、自分のために仕事をするとしたら他人のためっていうのが本当は必要なんじゃないかとすら、実は思ってるんですがそれについてはなかなか上手く言えません。これからの記述でなんとなく感じ取ってもらえたらいいな、くらいです。



いい仕事の底にあるもの

これまで仕事とは誰かのためになされるものであることを確認し、仕事は生活を支えたり生きがいになったりと様々な側面から自分のためになることがある一方で、自分にフォーカスしすぎると自分の仕事の恩恵を受けている誰かのことを忘れてしまうのではないか、ということを述べてきました。

しかし、これまでも時々言及してきたように「誰かのためになる仕事」とはいささか美談めいています。一因として、現実的に他人を優先するということはしばしば自己犠牲を意味するからということをあげられそうです。
たとえば、それが必要な仕事だったとしても、受け取れる金額がどうせ一緒ならできるだけ労力をかけないでもらえるものをもらった方が自分の利益になるわけです。ここまで露骨に腹黒くなくとも、自分がわざわざ労力をかけたところでどうせ賃金は変わらないなら、相手に寄り添おうと頑張るのは大変だしやってられないという気持ちは大なり小なり納得していただけるかと思います。


ここで少し脱線して、相手の気持ちに寄り添うことは信頼という利益として返ってくるから一方的に損をしているわけではなく、自己犠牲と考えなくていいのだ(だから積極的に人の気持ちに応えよう!)という見方について考えてみます。僕は「相手のため」を偽善でもなければ自己犠牲でもないという立場をとっていますが、この論理には乗れません。信頼を損得勘定に入れてしまうと、要は信頼さえ勝ち取ればいいのだという発想を許容してしまうからです。
信頼を獲得するのは、ある意味では簡単で、堂々として声がでかい人の意見が通る場面を思い浮かべていただければ十分かと思います。youtubeで色々なことを教えてくれる人がいますが、その知識が十分な専門性に裏付けられていることはほとんどなく、信頼だけを勝ち取ったインフルエンサーによって誤った知識が広められることは、もはや社会問題とすら言ってもいいでしょう。
いま、専門性に裏付けられていることを重視してみましたが、信頼に気をとられていると失われてしまうものとは例えばそういうもので、要するにいい仕事が仕事としてのよさによって評価されない状況へ加担していて害悪ですらあると考えます。

しかし、そうなると、いい仕事とはいよいよ自己犠牲的に思われ、残っているモチベーションはせいぜい「ありがとう」と言ってもらうくらいしか残ってないようにも思われます。ですが、親切のつもりでキレられる理不尽もありますから、モチベーションとしては心もとないところです。

それでも良い仕事をするのは、もう「それが大切なことだから」と言うしかないんじゃないでしょうか。
ある意味では理屈を超えていて、よくわからないけどそうするのが必要だと思った、というくらいなのが実際的なのではないでしょうか。
なんでもいいですが日常で行為する場面を思い浮かべても、たいしたことは考えないでやっているはずです。席を立って飲み物を用意するとき、なんとなく「飲もう」と思って入れていると思います。もしそこで、「どうして飲み物を用意したの?」と聞かれたら、喉が渇いてとか休憩とるついでに何かしようと思ってとかと、答えることはできると思います。しかし、自身の状況を勘案したうえで「休憩をとりたいが手持ち無沙汰に時間を過ごすのも面白くない。ちょうど水分が足りていないし飲み物を用意するのが良いだろう」と考えて行為しているとしたら気持ち悪いでしょう。これは後から説明を要求されたときに強いて出す説明であって、その場でなされるリアルな思考はもっとなんとなくなされているはずです。そしてもっと言えば性格とか、自分の傾向性みたいなもので動いているところがあると思います。

なんだかよくわからない話になってきましたが、モチベーションということを考えた時に、それはふとした拍子の行動にとっては行為の原因にはならないんじゃないかということが言えそうです。
ゲームを買ってもらえるからテストで良い点をとれるように勉強するのと、ハンカチを落とした人に落としましたよと声をかけるのとでは事情が異なっていて、前者は報酬がモチベーションになっていて長期的なスパンの話をしていますが、後者は瞬間的な場面になっていて、そこではもはや報酬などは念頭になく自分を動かしているのは信念ということなりそうです。
この信念こそが「いい仕事」を可能にしてくれるのではないかということを考えています。


いい加減イベコミュに戻る意味も兼ねて、いい仕事が描かれている場面を確認して、その動機的な部分に注目してみます。

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たとえばこちら。直後に智代子が言うように、これは一瞬で色々レジの操作をしたうえでなされる気遣いです。操作でいっぱいいっぱいになってたら余計なことは考えてられないわけですが、気遣いというのはいの一番に端折られる行為です。このことから引き出すにはちょっと大げさかもですが、報酬によるモチベーションが依拠している「自分にとって」という観点では、手を添えるのはやる必要がない所作とも言えそうです。
それからもう一つ。

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少し席を外したところから帰ってきた店長の対応。相手が妊婦という特殊な事情に合わせて椅子の用意をしています。マニュアル化不能な(その都度的な?)対応がポイントです。これは店長いわく「とっても難しいこと」なのですが、慌てないでいられるメンタルとその状況にしっかり向き合う集中とが求められるとも言えるわけで、意外と簡単じゃないことなのだと思います。そうした方が得だからという理由でなされるというよりは、そうした方が良いからというメンタリティが働いているように思われます。

ちなみに、仕事において相手をきちんと見ることができなくて苦労する職場体験の場面が、寡婦(恋鐘)の探しているものが分からず、かたちだけのお礼を言われる失敗を繰り返すゲームプレイと重ねられており、演出だなぁと唸ってました。

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いま見てきたような対応からなる「いい仕事」は自分とお客様のあいだでなされるような一対一的な仕事とも言えそうです。アイドルのような一対多の仕事とは要領が違うのだろうと思います。それでも根っこの部分は共通していて、霧子や真乃はそのことをステージの上に重ねて「隣に心がいてくれる」「誰かの隣にいさせてもらうこと」と自分なりの言葉で理解し始めています。

根底を共有しているからこそ、トルコキキョウを集めることを率先して提案したところはあると思います。仕事を賃労働に限られない意味で使えば、まさしく誰かのために自分の労力を提供するという意味で、あれも立派な仕事です。
そしてそれが「やりたいから」になっているのが注目したいポイントです。

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あの場でトルコキキョウを入手するための動けるのは彼女らだけなので、そうした義務感なり正義感なりで動くことも十分ある話だと思います。ところがそうではなくて、「行きたいな」と自分の望みとしての側面もあるのがとても良いなと思ったところです。

彼女らが花を届けるために必死になるのは、そこだけ切り取れば偽善にも自己犠牲的な善人にも、あるいは気まぐれな親切にも見えます。そうした観点からも、にちかが「そこまでする必要ありますー?」と疑問を投げたのは不自然な反応ではないと思います。
その、にちかの疑問に対する真乃の言葉がこうです。

──でも……
(ステージと同じなんだね……っ)
──
お仕事……だから……
お花を、誰かの心に届けるお仕事をしてて……
だから……
届けられたらいいな……って
────ステージみたいに……

これが真乃なりの、なぜそこまでするのか?への答えになると思います。
お金やそれに類する報酬によって動いているというよりも、誰かの心に届けることを大切にする気持ちで突き動かされていると考えるのが良いでしょう。

なんで直接自分のためにもならないことをするのかと聞かれても「だってそういうのって大事だと思うから……」としか言えないところはあって、この辺の損得感情に回収してはならない行動原理のことをバシッと言ってくれたのがプロデューサーだなと思いました。

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真乃にとってアイドルとは心を届ける仕事としての側面が強いですから、花屋という別の場所であっても(たとえ体験であっても)仕事であるならば、そこは譲れないポイントなはずです。もっと言えば、妥協するとかしないとか以前に身体が動いているのが、流儀として染みついているということだと思います。特に、件のフラスタは気持ちを伝えるために作られたものですから、そこはなんとしても守りたいところだったんじゃないかと感じました。


真乃はそのあとで「そういうふうにしたら……自分が嬉しいっていう、だけかも」と言います。
ここまで手を替え品を替え述べてきたことから伝わっていたらいいのですが、この「嬉しい」を「何かを報酬として獲得して嬉しい」と考えるのはあまりにも単純化した解釈でしょう。要するに、善行など所詮はエゴイズムだと指摘するつまらない言説とは別の仕方で、誰かのために何かをすることが自分の喜びにつながるというシンプルな事実を確かめたかったわけです。

僕はこのような営みに追従するかたちで金銭が発生したらいいのにということをぼんやり願っているのですが、直後にこのシーンが挟まれます。

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「あい」はゲーム内でほとんど通貨のような扱いを受けていますが、文字通りには愛です。物を売って金銭的な価値を帯びているものを与えるやりとりの裏には、気持ちに寄り添おうとして物を探す営みとそれへの感謝という応酬があります。貨幣の受け渡しと同一の出来事として「あい」が受け渡されるやりとりに、ちょっとした理想を垣間見た気分でした。

とは言っても、恋鐘の演じる寡婦は身を切り崩してあいを与えています。それが「愛」ではなく「あい」と表記される所以かなと思いつきました。切り崩して与えるものは有限な財で、定量化可能なものですから、どうしても損得による考え方に引っ張られており、既存の経済システムに依拠した感謝の形という印象です。(上手く言えてないかもしれませんが……)


さまざまな愛

いい仕事を主題としてきたわけですが、必ずしも賃労働に限定されないかたちで仕事という語を用いてきました。それはもはや広い範囲の行為に当てはまることになってしまいそうですが、誰か宛先のある行為に注目してはいました。そうしてみると、エンディングで示されるさまざまな愛を語り漏らすわけにはいかなくなります。
特に、他人のために何かをすることと愛とは間違いなく結び付きます。簡単にではありますが、見ていくことにします。

・美琴さんからにちかへの愛
基礎練習の場合は、本人に勝手に上手くなってもらうしかないため、指導は「付き添う」みたいになる。それはとても大変なことで、指導者が自分の力でなんとかできる範囲を越えているにもかかわらず、見離さずそばにいてあげるのは、もはや愛だ。

・店長と霧子から花(=心)への愛
もう売れなくなってしまった花を「商売だから」と言うことに割り切れない思いを抱く店長。冒頭で見たように命を刈り取っていることに自覚的であるから、花に対して処分しなくてはいけない心苦しさを感じているはず。
また、「花が心なんだったら、どこへ行ってどんなふうになっても綺麗でいられるように、自分で励ましてあげなきゃ」という霧子。花(=心)のために、ということを考えている。

・寡婦への愛
彼女が失ったのは「彼女が彼女自身を愛する心」であり、カモメに餌を与えてあなた自身への愛としてそれを受け取って欲しいと告げる。

・プロデューサーからみんなへの愛
みんなが幸せになってくれることを疑わないこと。

愛という捉えどころのないものに対して、端的に言い表すことはできないのですが、あえてまとめてみるとこうでしょうか。

『自分自身を愛せるようになる、などのような本人以外にはどうしようもないことのために、自らの権能を超えているにもかかわらず、自らを差し出すこと』

にちかの基礎能力はにちかにしか向上させられないけど、美琴さんは自分の時間をたっぷり使って寄り添っています。
花が心なんだったら自分で励ましてあげなきゃいけないという、霧子の考えも心自身が愛することを思っているように読めます。
寡婦に投げかけた言葉がまさしく「あなた自身への愛」を受け取ってほしいということでした。それを伝えるためにプレイヤーは「もはや客であるという建前も忘れ」駆けつけ、あるだけのあいをカモメの餌に注ぎ込んだわけです。
プロデューサーの言動はイベコミュにはそれほど出てきませんが、彼女たちの幸せを願って精力的に頑張っているのは明らかでしょう。彼女たちの幸せは彼女たち自身にしか達成できませんが、プロデューサーはそのために努力しているということです。


愛は自己犠牲的なニュアンスを帯びることがあり、上に見てきたような献身には見返りもないし成功するかもわからないという側面がありますから、たしかに自己犠牲的にも見えます。しかし、それは寡婦がしてきたように自分自身を削り取るかのように自分を差し出すことではありません。
相手が自分自身を愛せるようになるかもしれない。成就するかどうかまったく不明であるにもかかわらず、他人の幸せの可能性のために己を捧げる狂気が愛ということになりそうです。自己犠牲的と言おうとするならば、その狂気に身を委ねる点においてであるべきでしょう。



終わりに

主に仕事について話してきた文章なので、そちらに着地させることで締めとしたいと思います。
仕事はそもそも誰かの代わりに労力を差し出すことですが、まさしくこの誰かのためというところが愛に通じると思います。自分の労働が正しいことなのか、相手を楽させることにはなるが自分自身を愛することにはならないんじゃないか、という不確かさに身を差し出すことに給料が発生したら素敵ではないだろうかと感じています。
当然、そうもいかない事情がたくさんあります。生きていくためには四の五の言ってられないとか、これが良いって思っても会社の意向は上の人間が決めてしまうとか、それぞれの職種にそれぞれの困難が付きまとうはずです。また、本当に一切の労働をしたくない人もいるとは思うのですが、何かのために頑張りたい人間もたくさんいるわけで、そういう人間にとっては仕事が本当は素敵なものであり得ることは希望ですらあると感じています。
それは希望のままにしてはいけないものでもありますが、仕事は素晴らしいというのはしばしば胡散臭いメッセージとともに押し付けがましく伝えられてしまいます。ですから、変に自己犠牲的でなくとても共感的なかたちで良い仕事のありさまが示されていたことに、現実の圧力に抵抗してでも良い仕事をしようという意志が示されていたことに、個人的にとても励まされました。

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