いきどまりの自由/美しい言葉を有意味に語る
『いきどまりの自由』
トルストイによる『アンナ・カレーニナ』の有名な冒頭だ。文豪の見事な筆致に痺れてしまうが、真実めいた言葉が真実を語っているとは限らない。もしトルストイの言うように、本当に幸せな家庭がどれも似たり寄ったりであるならば、不幸に見舞われなければ自分たちらしく生きていけないということになってしまう。だが、人生とは凡庸か悲劇かの二択なのだろうか?
悲観的に人生をとらえ証明することは、おそらく容易い。だがそれゆえ、安直なペシミズムはあまりにも早急に諦めていると言うべきなのであり、神妙な面持ちとは裏腹に楽な道に逃げている甘えを糾弾する余地があるはずだ。いかな平凡に見えようとも、いかなありきたりな夢だろうとも、自分自身が実現した幸福のかたちがまさに自分らしさとして輝くような理想を模索する方が、むしろ人生に対して真面目に向き合っていると言えないだろうか。幸福であることを諦めるのではなく、幸福であることによって自分らしく自分を実現しようという困難な探究は、不幸とは別の仕方で人生を豊かにするのではないだろうか。
初っ端から大風呂敷を広げた。しかしこれは私がというよりもシャニマスがやっていることだ。本気でそう思っている。不幸と引き換えに自己実現しようという方針と、幸せの探求を通して自分らしく生きるのを至上命題とする方針との対立は、283プロに入ってすぐの頃のにちかとプロデューサーの対立に顕著だ。
にちかに限らず、幸福という観点からも自分らしさという観点からもアイドル自身を尊重しようとするのは、最初からプロデュース活動の土台となっていた283プロの哲学でもある。
イルミネ感謝祭では成長しないで未熟なままの初々しさを売りとみなすディレクターにNOを突きつけたし、『ストーリー・ストーリー』ではアイドルの私生活を切り売りしようという姿勢に抵抗してみせた。こうした例は枚挙にいとまがなく、最近の話の中でもまだまだ健在だ。
『いきどまりの自由』もそうだ。ずっと好きだったシャニマスを再発見し、コミュを振り返るなかで対立項として冒頭のトルストイによる名文を思い出していた。しかし我ながらなぜだろう?
念頭にあるのは冒頭に出てきたインフルエンサーだ。彼が学校の卒業生として招かれ講演していたのを透たちが話半分に聞いている場面から始まる。なるほど彼は努力こそ称揚しているものの、不幸を甘んじて受け入れろとまでは言っていない。叶えたいものがあるならば夢ではなく目標として見据え、実現するための実際的な行動をし始めるべきで、そうでなくては夢は所詮夢のままである、というのが大体彼の主張になる。その中には凡庸と悲劇(苦労)とのトレードオフといったニュアンスが無きにしも非ずなのだが、私がトルストイを持ってきたのは、もっと別の側面からだ。
端的に言えば、フレーズ自体が強く、実際以上の説得力を持ってしまっているということだ。借り物の言葉を振りかざす場合に多いが、思想に対して言葉が強いと浮いて見える。
インフルエンサー氏にはどうにもその感がある。十分に考慮されていない主張を言葉の美しさによって補強しており、本人はそのことに気づいていない(むしろ自分自身を誤魔化してもいる可能性もある)。
抽象度が高くなってしまった。具体性を増すためにも、彼の主張の不備をつくという底意地の悪いことをしていこう。
夢とか目標とか
夢を追うということはいかにも立派な人生のストーリーだ。インフルエンサー氏の発言はそれほど多くないので、かなり手を加えることにはなるが、大体以下の通りだろう。夢という言葉を使っているうちは空想となってしまい夢を実現することにはつながらないから、目標として現実的な地平におくことで空想ではなく自分のものとするべきである。そうでなくては夢を追うというストーリーはフィクション止まりである、といったところだ。
テクスト内的には正しい主張だと思う。夢見がちなだけで実現するための努力をしないのは、空想とそう変わりないし、自分が望むのならば実際に行動する必要がある。個人的には同意するところだ。ただし、このメッセージを講演という場において学生に伝えるというコンテクストに置かれるときにはまた別の意味が生じる。このことに無自覚であるとすれば、いただけない。
そもそもテクスト内的に正しいのは様々な前提があらかじめ導入されているからだ。例えば、夢によって将来設計をするというこの方針そのものも自分の意志で選んだものであるとすれば、導く努力の方向にはある程度の妥当性がある。しかし、別の場合、たとえばちゃんと生きたいというのが出発点であって、思い描けるビジョンが、周囲の環境や教育などの要因から夢なり目標なりに向かって一生懸命になるというイメージしかなかった、などという場合、夢ではなく目標を〜というアドバイスは根本の願望(ちゃんと生きたい)から1段階進んだところを前提としている。これではいつの間にか本来望んでいなかった場所まで導いてしまうかもしれない。
そんなとこまで配慮してられないと言われそうだが、自分の望まぬ前提を強めている可能性に気を配っていない場合、本人の不本意な方針を助長する恐れがあり、自分自身のために生きることを見失わせてしまうかもしれない(それに配慮と言ったところで、単に「夢を追うだけが人生じゃないけど」とでも付け足せばいいだけではないか?)
インフルエンサーの言い分に同意できるのは、本人に強い憧れなどがあって、追い求めたいものがある場合だ。憧れが特にない人に、夢や目標を持つことを強いるのは望ましくない。にもかかわらず、自分の夢を実現するというストーリーに乗っかって言葉を振りかざすのは、その言葉が魅力的であればあるほど、人生の模範となりうる他のものに目を向けさせにくくする恐れがある。言葉の上では他の生き方を否定していないとしても、権威的に一つの道を誇張するという振る舞いは無垢ではいられない。
第一、夢を叶える、というのはどこまで幸福につながるものなのだろうか(それについてどれほど考えをめぐらせているのだろうか。この点について不信感があり、軽薄さを感じざるを得ない)
気になることの一つは、夢の成就が往々にして瞬間的な出来事であるというところだ。「宇宙飛行士になる」でも「難関大学に合格する」でも、そこで描かれる華々しい未来とは往々にして静止画的である。宇宙飛行士になった場面や宇宙に飛んだ日であったり、合格発表で喜びを噛み締める瞬間であったり。イメージの問題なので個人差はあるだろうが、夢を叶える道を選んだとき、将来的に待ち受けているのが宇宙飛行士「として生きる日々」であることはどこまで計算に入っているのだろうか。
大学ならば○○大学の学生「として生きる」日々はある程度想像しやすいのかもしれない。レポート作成をしたり実験をしたり同級生とディスカッションしたり。しかし個人的な経験では、受験生のモチベーションとなるのは合格の瞬間の華々しさであった。なんとなく、憧れの強さ(人を動かす力の強さ)と理想の将来像とのあいだには隔たりがあり、このギャップには繊細でいた方がいいような気がする。後者はどちらかと言えば地味かつ現実的で、強い憧れだけを持つことには地に足がついていない危うさを感じてしまうという気持ちもある。
誤解してはならないのだが、地味と言っても将来の「〜として生きる日々」にも幸せはある。間違いなくあるし、むしろ自分がきっと幸せになれると思うから憧れになる節もあるはずだ。言いたいのは、夢を叶えたあとの人は、別に何か困難を成し遂げたことがあるという実績からではなく、学生(ないし宇宙飛行士)として生きる日々の中の充足感によって幸福を実現しているのだということだ。
夢の成就とはむしろ幸福な日々に至る入り口に過ぎず、幸福の全体を代表させるにしてはあまりに限定的な場面であると思う。事実、第一志望に合格したものの燃え尽きて不毛な学生時代を過ごす人は多い。夢を叶えた先にも現実が続いている。夢を目標と言い換えても何も変わらない。人生設計の手法が夢ないし目標達成に限られるならば、成し遂げた後は新たな夢を設定して次の夢のために努力することにもなろう(しかし老いた先まで続けられるのだろうか)。そのような生き方を否定したいわけではないのだが、それだけが全てではないというのは声を大にして言いたい。
先ほどさらっとにちかに触れたところで、ちょうどよい場面があったので引用しておこう。
夢を叶えたところで現実が待っているということに注目してケチをつけてきた。しかし、当然ながら夢を叶えられないというリスクもある。未来や結果に自分を託し過ぎてしまうというのは考えものだ。特に、リカバーの手立てを用意しないまま、そのような生き方を他人に促すのはいかがなものだろうか。
個人的には、これに加えて夢を叶えるのがどこまで言っても自分だけための努力であるということについても、限界を感じている。
また話が長くなってしまうので簡略化するが、一生懸命生きていれば自然と誰かのためになっているのだと言い張るのでは無理がある思うし、自分の希望さえ通せれば十分満足できてしまうほど人間は自己完結的な生き物ではないとも思う。究極的には他人との関係に身をおかざるを得ない。その中で自己というのが形成されていく意味で、自己とは極めて関係的な存在であるという人間観を持っている。それどころか自己とは責任として存在していると考えているのだが、これを上手く人に語れる自信はない。夢の実現と幸福を結びつけるのは、近代的な自立した自己という描像を引きずっていると思う、というのが一応言いたかったことだ。
ややこしいことを不十分に述べたが、夢の実現というのが自分自身に対する関心に偏っているように思われ、そこに限界がある気がしているというところだけ伝われば十分だ。
もうそろそろコミュの感想
こうも夢を追いかけることに目くじらを立てているのは、その生き方を称揚することが人畜無害とは言えないからだ。追い詰められているにちかはまさに夢に縛られて、WINGで敗退した場合にはやっと終わったと安堵する始末だ。同様に夢をめぐるサクセスストーリーに振り回されている人物が『いきどまりの自由』でも描かれている。それがノクチルに出演を依頼した専門学生だ。
映画が大好きで映画監督になりたくて上京してきたものの、周りとの才能の差に打ちひしがれて、卒業制作を最後にこの道から去ると決めたという。にちかが最終的にアイドルになれたのとは対照的に、この学生は夢を諦めざるを得なかった(少なくとも最初はそう自認している)。夢や目標をあまりに立てることは、夢を諦めざるを得ない人間に敗者の烙印を押すことへと容易に裏返る。ここをケアせずに熱意をもって若者の背中を押すのは無責任だ。これは強気に述べておきたい。
さて、夢の実現が叶いそうもなくて落ちこんでいるのが専門学生で、インフルエンサー氏のような人間がその価値観を広める事自体が専門学生のような人の視野を狭める恐れがあるというのが、これまで述べてきた問題点の一側面だ。夢が叶わなかった場合についても、それ以外の道についても十分に考慮していない。
インフルエンサー氏の発言は控えめに言っても軽薄だと思うし、思考の甘さは、守備よく目標を実現できた後についての発言にもよく表れている。彼の言い分はこうだ。「そうすりゃきっとサイッコーな毎日を送れるようになりますから!」
目標さえ実現できれば幸せな人生が待っている。憧れに手が届いたのだから、あとはなんとかなるだろう。そんな考えだとしたら、はっきり言って舐めている。
これまで執拗に書いてきたように、夢を追うということには良し悪しがあり、勧めること自体にも功罪があり、達成できたとしても様々な事情が待ち受けているにもかかわらず、そうした複雑な事柄を全部すっぽかして人生の成功や幸福の模範とするのは、あまりに見通しが甘い。
にもかかわらず、というよりもだからこそと言うべきか、インフルエンサー氏は熱意に溢れている。その熱意がノクチル相手には上滑る。個人的な所感としては、それは対立ですらない。ノクチルは相手にしていない。講演のあと一言目が「終わりだっけ、今日 これで」だった。感想も述べられない。とてもノクチルらしい反応であると思う。
現実においても熱意のある人間は「意識高い系」のような揶揄があるように、しばしば見下されるのだが、ノクチルの反応はそれとも違ってもっと根本的に通り過ぎている。うまく言えないのだが、わざわざ否定しにいく人間には図星なところがあるのではないかという気持ちがなくもない。というのは、いわゆる意識高い系と呼ばれる人の中には熱意をもって利他的であろうとする人もいて、様々な言動が結局は綺麗事である場合もとても多いのだけれど、揶揄する側の人間が利他的であろうとしているのか、何かに向けた努力をしているのかと聞かれればちょっと怪しい。すべて偏見で語っているのだが、要するに、他人を意識高い系と揶揄する心理には相手を貶めることで誇らしくもない自分から目を背けるような仕方での自己保身が入っている場合が、ないこともない、気がする。
何を言いたいかというと、ノクチルがインフルエンサーを相手にしないのは、自己保身の必要がないからなのではないかということだ。私の見立てでは、ノクチルは夢を叶えるというのとは全く異なるモードで、まともに人生に向き合っている。
個人的な理解になってしまうが、透は未来の「まだない」という存在レベルを忠実に受け取っている。現在は常に瞬間的ですぐさま失われてしまう時間ではあるが、誰もが現在以外の時間を生きることができない。言い換えれば、現在から逃れて実在することができない。「のぼってもてっぺんにたどりつかないジャングルジム」に象徴されるように、透は常に同じ時間に留まっているというイメージを強く持っており、未来のことを「手が届きそうですぐそこにあるように見えるのに決して届かない場所」として認識している(別のところで議論しているのもあって性急に話を進めたが、乱雑になってしまったのは申し訳ない)。
以上のような解釈を許容してもらえるならば、「そういうのじゃない。でも、それでもない」という透の自由律俳句が見事に浅倉透を体現しているとも言えるようになる。
この言い回しは超越的なものを探求する透という人物像にとてもよく適合する。未来に関しても「てっぺん」に関してもそうだが、いわば向こう側にある超越的存在だ。具体的にこれと指示できないため否定によってしか言い表せないが、真に超越的であるものは超越という語によって言語空間内にとどめ置かれるものでもない。だから「そういうのじゃない」し、こう述べたところでとらえられるものでもない。だから「それでもない」。
さて、引き続き自分の解釈を土台とさせてもらい、夢とは別のモードという論点に移りたい。
浅倉透は未来と現在とを同格の存在レベルでは見ていない。憧れとして描かれる未来の自分は、現在の自分から決定的に断絶している。だから透は未来の自分の姿から逆算して努力の方向性を決めるようなことはしない。まさしくそれが別のモードと呼ぶもので、夢や目標という未来を出発点とする思考ではなく、今にしか存在できない自分が、今なにをしたいかを重視している。わかりやすくそれが表れているのは『天塵』の「楽しいんだ、最近 こうしてるの」「それしかないや、私 理由とか」だろう。
プロデューサーから花火大会での賑わせ要因としての仕事を提示された際、質問が投げかけられていた。仕事をすれば嫌なめにだって遭うが、それでもやるというのならば「お金とかやりがいとか、夢……はわからないけど──歌いたいとか目立ちたいとか、貢献したいとか、なんでもいいから、きっと理由が必要になってくる」そういうことを含めて出演するかどうか考えてほしい、と言われていたのだ。
これに対する透の回答が上のものだ。プロデューサーが列挙した理由はいずれも目標と言わずとも「将来的にどういうことをしたいか」というイメージだった。透が出した答えはそのいずれでもなく、最近こうしてるのが楽しいという現在に即したものとなっている。
これを今さえ楽しければいいという刹那主義的と捉えるのは、たぶん決定的に間違えている。ともすれば透(ノクチル)は様々なことを先延ばしにして、将来の計算をサボっているとも受け取られそうだが、それにしては彼女たちは彼女たちなりに真剣に生きているし、「なんて言ったらいいのか」わからないノクチルらしい輝きが単に無計画に今を享受しているだけで生まれるとは考えにくい。自分としてはノクチルの良さは紛れもなく感じるし、自分たちとは何かが違うと思わされることもしばしばであるから、非常識ともとらえられかねないほど特異なモードがそこにあるというのは肌感覚としても思うところだ。
目標や夢といったものを人生の支えとしない在り方は、透の時間観からやむなく導かれるものであるが、透はじめノクチルの非常識とも際立った魅力ともなる。様々な相手に刺さるだろうが、今回で言えば専門学生だ。目標に向かった努力が不発どころか逆に自分を苦しめることになったとき、未来に重きをおくのとは別のモードで生きるノクチルは希望となるはずだ。
専門学生がノクチルとの撮影を通して出した暫定的な答えは「好きなことに素直でいられれば、それだけでいいんだな、って…… だから、諦める以外の道も考えてみようって、今は思えてるんです」ということだった。映画監督になるという夢は、現実に接近し始めると憧れていればいいだけの夢とは異なった様相を見せる。専門学生の気づきは好きなことに素直でいればいいという単純でささやかなものではあるが、将来像からではなく現在の自分の気持ちから出発して自分のことを考えるという切り替えを達成した。ノクチルという非常識な存在が常識のせいで身動きのとれなくなった人間を解き放ったのだと、大袈裟に考えてみたくもなる。
(解釈面で厳密な話をすれば、先んじて述べたのは透のモードであるのに対し、専門学生を初めに動かしたのは雛菜なので、多少ゆがめているところがあるのかもしれない。私個人が透に強い思い入れがあるというので透にフォーカスしたのだが、雛菜も一見すれば刹那主義的と見られるほど現在の自分を尊重していることには違いなく、透と相違はあれどノクチルらしいモードで生きているとは言えるだろう)
その他、作りが上手いとこ
以降は自分の感想の中で核心的な部分からは外れるのだが、単純に話の作りが上手いのに感心してしまった箇所を少し挙げてみたい。
インフルエンサーが講演者という権威的立場から発言するということそれ自体が、悩ましい常識を形作るのに荷担しているのだが、透は講演を「終わりだっけ、今日 これで」と軽やかに受け流す。
並行する場面で、専門学生が雛菜と共同のインタビューで出した自由律俳句は「お先真っ暗」だったが、夢や目標という文脈では「終わり」とは絶望感に満ちている。それら一切を透たちがいとも簡単にキャンセルしてしまうことをストーリー上で予言している。かつ、透の言った「終わり」とは今日これから何をするか、くらいの意味で、次を含んだなんてことのない終わりとなっており、専門学生に終わりの次へと目を向けさせることをも暗示している。伏線といっていいのだろうか、見事な筆致だ。
さらにはサポートカードの方に引き継がれて書かれる撮影打ち上げの場面。専門学生が「これが、最後…… 私の最後の作品────」と神妙に受け止める流れで、ノクチルと5人でラストショットを撮り直す。そしてコミュを締めるのは「笑って 監督」という透の言葉。話の最後をも「お先真っ暗」としての最後にしないノクチルが徹底されている。ストーリーの組み立てが上手い。
ここまで触れてこなかった小糸に関しても面白い役回りをしていて、小糸はバラエティ番組でSOSの救難信号に触れていた。母語が異なっていてもSOS信号を発信することができる。受け取って発信して応える。これがバックグラウンドで効いている。たとえば自由律俳句はまさに助けてと直接には言えなくても気持ちを発信することにつながるものだし、それを受けた誰かが受け取って応える契機にはなりうる。当の専門学生も小糸が自由律俳句を作れていない、言い換えれば言葉にできない言葉を汲み取って、小糸の気持ちを引き出すことに成功している。また、インフルエンサーが事務所に押しかけてきたときに小糸が「あのっ」とだけ発したのを、円香が引き継いで追い返していたのも、言ってみれば小さなSOS信号だ。そういえば専門学生が撮りたい画は、ありのままの姿であった。カメラで映し出そうとするのはSOS信号やそれ以外の様々な信号であるのかもしれない。
美しい言葉を有意味に語る
シャニマスのnote企画があるということで、『いきどまりの自由』の感想の域を出て、シャニマスのコミュ全般に関して魅力に思うことを付け加えて述べてみようと思う。といっても関連するものではあって、散々つっかかってきたインフルエンサー氏の軽薄な発言にかかわる。
テーマは見出しにもある通りに「美しい言葉を有意味に語る」だ。
インフルエンサー氏に関わるものについては、もはや言葉を尽くすまい。「美しい言葉」にあたるのは、夢を夢のままにしないで目標として行動を起こすべしという金言になる。これがはらむ問題であったり、無自覚に前提にしている価値観であったりに配慮が浅い無責任さについては述べてきた通りだ。
また、本note冒頭に引用したトルストイの名文も「美しい言葉」の一例だ。痺れるキラーワードは極めて強い説得力を持つにもかかわらず、真実を示しているとは限らない。これについて、カッコイイならいいじゃないと言うわけにはいかない、という論点を中心に感想を述べてきた。
シャニマスにもキラーワードはたくさんあるけれども、どれも入念に下準備をしたうえで、個別の文脈のもとで真価を発揮する言葉たちだ。これはとても誠実なことだと思う。
気持ちのいい言葉たちでその場限りのウケを狙って(どう受け取られるかは人それぞれですから)と言って逃げる卑怯さがない。いや、卑怯じゃないという二重否定はいくぶん消極的すぎる評価で、本当はもっともっと積極的に称えたい。
「美しい言葉」として他に想定しているのは、「友達は大切にしなければならない」であるとか、「今を生きるのが大事」であるとか、その手のメッセージだ。当たり前だけれどどんな金言であったとしても普遍的に正しいということはありえない。だからむやみやたらに言っても無害ということはないのだけれど、他方でなにがしか真実らしいものが秘められているのも事実だ。言葉の効用を十分に発揮するという意味でも、中身のある言葉になっていることが望ましい。シャニマスはこれが非常に上手い。
そう思わされる例をいくつか挙げていきたい。本当によりどりみどりなのだけど、自分がすぐさま思い出せるところから思いついた順に。まずは甜花LP。
甜花「頑張れ」
「美しい言葉」とは完全に自分用語で使っているため、人によっては「頑張れ」にはしっくりこないところもあるかもしれない。けれど、ひとまずは「言う分には損もないし、少なくとも言われる分には嬉しい言葉」と基本的には思われている点について承諾いただければ十分だ。
甜花のLanding Point をおさらいしておこう。甜花は応援のメッセージとして「頑張れ」と言う/言われることに違和感を覚えている。もちろん好意であるのだけれども、まるでまだ自分が十分に頑張っていないことを責めるような、これ以上の努力を強いられているような、相手を追い詰めるニュアンスを帯びることを気にしている。自分が言われたときのことを踏まえ、他人に対してもその伝わってしまう可能性に繊細に向き合っているからこそ、他人に「頑張れ」と伝えるのに抵抗がある。それでもファンとしては甜花に応援してもらいたい気持ちもあって、受け取り方の違いをなんとかしようとしている。
最終的に「頑張れ」は、既に頑張ってる"のに"伝える言葉であるとは限らないと腑に落ちる。より頑張らせようとするのではなく、応援してもらっているからこそ頑張れる瞬間が、特に挫けそうなときほどあることに気付く。
そういう時に伝える「頑張れ」は、頑張りたいと思う「あなたの本心が負けて消えてしまわないように」という応援になり得る。頑張りたいと思う気持ちが本物であるにもかかわらず、自分一人ではその熱意を維持できないことは本当によくあることだ。ご褒美を用意しても結局頑張れなかったり、休憩をしたらそれっきり戻って来れなくなったりすることでも、誰かに応援してるよと言ってもらえるだけで、もうちょっと頑張ってみようかなという気持ちがむくむく上がってきたりもする。自力ではどうしようもなく萎み続けることも、周りの応援があっさりと解決することもある。他人に助けを求めることの多い甜花らしい視点だ。
ここまで遠回りをしてようやく、「頑張れ」は「今の努力が足りない」のメッセージであるとは限らないという単純な結論に至る。言われるまでもなく分かっていた結論ではあるが、ここに辿り着くまでの悩みには意味がある。
何よりまず「頑張れ」が相手を追い詰める言葉になり得る事実は変わらないというのが大事なポイントだ。どんなに気持ちをこめていても不本意なニュアンスが届いてしまうかもしれないから気をつけなくてはいけないけれど、そのためには自分が何を思っていたのか分からなければならない。しかし、一体どういう意味で「頑張れ」と言っていたのか、改めて問い直すとわからないことも多い。
ひょっとしたら応援する気持ちの中に一握り、努力を十分にしないまどろっこしさへのイラつきがあったかもしれない。そこをクリアにしないまま「頑張れ」がいい言葉だからとりあえず言う、とするのではちょっと誠実さが足りない。ラジオパーソナリティからリスナーへくらいのその場限りのメッセージならやり過ごせるかもしれないが、親から子への言葉なら、別の場面で親自身も気付いていない本心が強く匂い始めるかもしれない。
言葉に繊細になることは自分の気持ちを知ることにつながり、それがさらに気持ちを伝える言葉を選ぶことにつながる。だから言葉が届く。
だから言葉を有意味に語ろうという努力は尊いのだ。
「頑張れ」と言われて傷つくかもしれないなど、ちょっと繊細すぎるだろうと言われそうだが、気持ちを伝えやすくなるという恩恵は大きい。そして何より、そうした懊悩は人間性を培う。
それだけではない。細やかなことに悩み続ける人がいるという事実そのものに人を励ます可能性がある。
人にはそれぞれ重要だと思う問題があるもので、しかもそれが他人にとっては取るに足らないものであったりもする。難しく考えすぎだよと一蹴されかねない事柄について、決して手放さずに真剣に向き合っている人がいるというのは、それ自体とても励みになる。もし悩みの種類が近かったとすれば、我々プレイヤーの個人的な問題に深く寄り添えるのだと思う。そしていわゆる担当アイドルと呼ぶような思い入れを抱くようにもなるのだろう。
イルミネ「ずっと一緒」
内容を十分に吟味したうえで言葉を発する誠実さについて話題にしていると、無責任ではない、というような二重否定による評価になりがちだ。それも紛れもない善さの一側面なのだが、言葉の意味をよくよく考えて語ることの力をもっと積極的に示してみたくもなる。
『ヒカリと夜の音楽、またはクロノスタシス』で注目される「ずっと」が好例だ。
番組ディレクターがイルミネの仲の良さを目の当たりにして、プロデューサーに「ほんと大事にしてあげてね?」と言う。ディレクターは類を見ないほどイルミネの仲が良いのを前にして怖さも感じ、さまざまな変化がこの先必ずあるのだから「本当に『ずっと一緒』なんてあるわけないんだから」と言う。
この発言は決して責めるべきものではない。ディレクターなりの思いやりと人生経験とに裏打ちされた言葉であると思う。ある程度以上年齢を重ねた人ならば、とても仲が良かったはずの人と疎遠になるなんて経験は誰もがしているものだ。仲の良さという尊さは儚いものなのだから、今ほど気持ちが通じなくなる未来でもイルミネのつながりが損なわれないことを願っての発言と思えば、無下にはできない。
だが、同じ単語であっても別のバックグラウンドのもとで発せられれば、全く別の重みをもつ。ディレクターが想定する若さの例となるのが流れ星の手紙をくれるファンの子だ。自分たちは(他の人や大人が言うのとは違って)本当にずっと一緒にいようと、本心から思っているし確信もしているが、それこそが番組ディレクターのような大人から言わせれば本当は何も分かっていないということになる。
お互いに相手こそが自分の言い分をわかっていないと思っていて、悲しい行き違いがある。なお悲しいことに、大抵の場合は大人の言い分の方があたってしまう。大人が考える以上のことを子供が考えているつもりでも、それが実は大人としては想定範囲内であるというのがよくある話だ。
ところが、イルミネこそはずっと一緒でいることについて、大人が思うより遥かに考えている。何が違うのかと言えば、おそらく「本当に『ずっと一緒』なんてあるわけない」ことを本当の意味で分かっている、というところだろう(ちょっとした言葉遊びだ)。その上で「ずっと一緒」にいようとしているのが、イルミネなのだ。
すれ違いというか「ずっと一緒」にまつわるギャップは「10代だからまだわからないだろうけど」という想定にある。とはいえ番組ディレクターがイルミネを舐めていたというのは厳しすぎる裁定だろう。これはもうイルミネが信じられないほど強かった、ということに尽きる。
その凄さがじんわりと明らかになり、イルミネにひれ伏してしまうような話が『ヒカリと夜の音楽、またはクロノスタシス』であったと自分は思っている。
イルミネが「本当はわかっている」のと、よくある若い子の「大人たちは分かっていない(自分たちこそが本当はわかっている)」が違うと明らかになるのは、イルミネの言動からだ。
たとえば、流れ星の手紙をくれたファンの子が、本当は友達と疎遠になっていることをわかっていて黙っていること。ファンの子とその友達がもう、かつてのように一緒ではないことが「分かっている」し、ファンの子自身がずっと一緒でありたかったと強く思っているのも「分かっている」し、自分たちがそれについてどうすることもできないことも「分かっている」。
できることはせいぜい、届く可能性のある人に向けて歌や気持ちを届け続けることくらいで、それが受け取られるかどうかについては祈るしかない。他に何もしてあげられない非力も分かっているから直接そのファンの子に言及することもしない。けれど、何かが届くかもしれないことに賭けて、自分たちができる精一杯をし続けるというのがイルミネの強さだ。
これほどまでの深さで「ずっと」があり得ないことを分かっているからこそ、外野に言われるまでもなく今の尊さを感じているのであり、それが逆説的に不可能なはずの「ずっと」を実現するために働いている。
「ずっとにするんでしょ」と繰り返される言葉の裏には、深く広大な思いがある。決して「ずっと一緒にいようね」と言えば、ずっと一緒にいられる可能性が高まるなどとは考えていない。「ずっと」の重さを深く深く理解して「ずっと」と言っている。
本当にするのが難しい言葉をそれでも敢えて言い続けることが凄まじいのは、言葉を本当の意味で言おうという姿勢があるからだ。
「美しい言葉を有意味に語る」というフィロソフィーはここにも見出される。
残念な「実在感」
言葉を尽くしてきたように、自分がシャニマスを大好きな理由の一つが「美しい言葉を有意味に語る」という姿勢にある。これも繰り返しになるが、この姿勢の良さは大雑把にいって次の二点に集約される。
一つ目は言葉の射程の届く範囲全体を見据えているという誠実さ。これはキラーフレーズで痺れさせて、ウケさえすれば十分(これが無責任だと例を挙げて述べてきた)というのとは対極で、バズりや収益などの表面的な結果だけが偏重されやすい世の中への力強い抵抗ともなっているとさえ思う。
二つ目は、言葉を深層から引き出しているからこそ、別の言葉や行動によって新たなものが生み出されるという、いわば創造性だ。たとえばイルミネが沈黙を貫くこともそうだし、なんなら『クロノスタシス』というストーリーが書かれていること自体もそうだ。甜花のLPで言えば、頑張れと言う以外の仕方での応援を模索できるようになったのであり、そうした時間があったからこそ『YOUR/MY Love letter』が生まれた。
『いきどまりの自由』の感想をnoteの前半に持ってきたのは、最近のコミュにおいてもこの姿勢が健在であるらしいことが感じられたのが本noteを書く動機ともなったからだ。
ところが、どうやらシャニマスの広報(プロモーション・SNS)は残念ながらそうではないようだ。
どうにも信用ならないと思うことが多かった広報だが、浅はかさが露呈したのが「見守りカメラ」の企画を振り返る特集記事(こちら)だ。これも今やかなり前のものになってしまったが、以降も相変わらずの雰囲気を度々感じる。とりわけ、言葉に真摯に向き合うシャニマスのシナリオとは対極の不誠実さがしばしば見受けられるので、言葉をテーマとしてシャニマスを語るうえでは言及しないわけにいかない。
「見守りカメラ」はyoutubeでライブ配信された動画で283プロの事務所内に設置された見守りカメラでアイドルや事務所の付近の音声が聞こえてくるのを楽しむという企画だ。アイドルたちに周知されていなければ盗撮盗聴とそう変わらない危うさを持ちながら、面白いでしょうと提供できること自体に薄ら寒い思いがする。配信内容を見ても見守りカメラの存在に遅れて気づく様子があるなど、周知が十分でない可能性もあって、まったく安心できない体験だった。
恥を忍んで言えば、自分は当時、なんとかかんとか理由をつけて肯定的に視聴し続けたのだが、やはり全肯定してかまわないものではない。見守りカメラという名前も危なっかしく、ペットや赤ちゃんなどを親が見守ることが想定され、見る側と見られる側に権力差が差し挟まってしまう。なんと言っても見守る側は見られることがなく、その場にいる限り見られる側は抵抗できないのだ。ついでに言えば、一方向的に見る構図は『ストーリー・ストーリー』が批判する番組の構造と極めて似通っている。そのことに無神経でいられるとはどういうことだろうか。
ここまで危なっかしい要素が勢揃いで、最終的に解消されることもなく懸念が懸念のまま残った企画について、広報の人間はインタビューで明らかな達成感を表明している。
これについて、もういくらでも不満があるのだが、ここでは本noteの主旨に即して、一点に絞って指摘することとしたい。つまり、広報担当者らがシャニマスの魅力として「実在感」という言葉を前面に出すとき、その意味をどこまで考えているのか、というのが論点となる。
注意喚起しておきたいのだが、「実在感」という言葉自体に不満があるわけではない。それどころか以前の記事で、実在感を肯定的に捉える見方を提示したことがあり、いまもそう大きくは主張を変えていない。
一応、簡単に要約しておく。フィクションでありながら現実に影響力をもつということを考えるとき、自分の人生に直接的に関与されることほどリアルな経験はない。そのような体験を実現するためには、プレイヤーが享受するという一方向性を打破して、双方向の体験となることでフィクションと日常を地続きにするという手があり、そのときフィクションは実在感をもって現前するのではないか。
と、かなり乱暴なまとめだが、だいたいこのようなことを述べた。
自分の意見がこれであるとして、他にも実在感をシャニマスの良さとして取り上げる声はある。重要なのはそれぞれに述べる「実在感」の内実は大なり小なり異なっているということだ。
一見すると「実在感」とは「現実世界にアイドルがいるような感じ」を意味しそうだが、そのような字面の上での意味を離れて個別具体的な文脈のもとで「実在感」が述べられている。たとえば、一人一人の悩みが非常にリアルで自分も身に覚えのあることにアイドルたちが真剣に悩んで答えを出そうともがいている姿を見て、本当にそういう人がどこかに存在しているかのような実在感を覚えると言う人がいてもいいだろう。高山Pも好んで実在感という言葉を使うが、個人的に高山Pは彼なりに思うところがあって使っているという印象を抱いている。
ところが、様々な角度から光を当てられる「実在感」は、その単語だけピックアップしてしまうと、文脈を失い、空虚な言葉になってしまう。「多くの人がシャニマスの魅力としての『実在感』を挙げる」と平均値がとられてしまうと、実在感という言葉のもつ輝きは失われてしまう。文脈から離れれば辞書的な意味にしか頼らざるを得ず、結局、「現実世界にアイドルがいるような感じ」と捉えられてしまう。
広報担当者の中で何が起きているのかは知る由もないが、事務所を再現した場所にアイドルの靴を置いたりだとか、同じ時間帯にアイドルが何かをしているのを覗き見る見守りカメラだとかから推測するに、その程度の理解のように思えてならない。
実際に広報担当者らがインタビューで繰り返す「実在感」に何か特別な意味が込められているとは思えなかった。言い換えれば自分自身の言葉として語っていない。
この軽薄さは、シャニマスが尊重してきたと私が理解する「美しい言葉を有意味に語る」姿勢がまさに抵抗するところのものだ。彼らがシャニマスのシナリオをどこまで読み込み、愛を持って扱っているのか、疑問を抱かざるを得ない。
と述べたうえで、シナリオの方は一貫した姿勢を貫いていることを再度強調しておきたい。先に述べた通り、『いきどまりの自由』に自分の好きだったシャニマスが生き残っていることが本noteを書く動機ともなった。このことの重みがどれほどのものか伝わるだろうか。
最後に辛辣なことを述べてしまったが、「美しい言葉を有意味に語る」というテーマでシャニマスの良さを記事にしたいというのは、本当にずっと思ってきた。だから最後を言いたいがために長文を書き連ねたのだとは、どうか思わないでほしい。6年の歳月は愛憎入りまじる複雑な思いが育まれるには十分だろう。
これからも丁寧に、真摯に、アイドルたちの物語が紡がれていくことを切に願い、拙文を締める。
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