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声に出して読みたい辛辣な日本語



『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』


そういう中で自分の価値観や振る舞いもかなり変化したように思います。ここ数年、女性たちの声がどんどん拾い上げられるようになってきたと感じますが、それでも同じように怒りや嘆きの声はあったわけですよね。それに気づかず今まで通り偉そうに振る舞ったり、無神経に下ネタをしゃべったりするのはすごくダサいことなんだって今は捉えています。
僕にも自分を大きく見せようとするところが少なからずありましたが、そういうのも無駄なんだなって気づきました。ジェンダー規範の影響もあり、女の人って面と向かっては男を否定しないと思うんですよ。特に後輩とかは「すごいですね」「へぇ〜」とか言ってその場を収めようみたいなことが非常に多いはずなのに、男はそれを自分が肯定された、受け入れられたと捉えてしまうことが多い。でも、実態としては単に面倒くさいから褒めているだけですよね。そういうことが女性たちばかりの職場で過ごす中で段々わかってきたというか。
自分の中の性的な欲求や関心が消えたわけではありません。ただ、女性にとっていちいち性的な扱いをされるのは本当に鬱陶しいことなんだということが段々とわかってきた部分はあります。かわいいとか、おっぱい大きいとか、エロいことが好きそうとか、そういうふうに見ること自体が失礼だし、女性を同じ人間として扱っていないことにつながるんだなって。それに、僕は元から性病などが怖くてオナクラみたいな接触のない風俗にしか行きませんが、以前はそこで働く女性たちをどこかで下に見ていた部分も正直ありました。でもジェンダー格差や貧困問題の存在を知ると、彼女たちがこういう仕事をしている背景には何か事情があるんじゃないだろうかという気持ちが出てくるようになりました。
それまで男が社会的なマジョリティで女がマイノリティだなんて考えたことなかったんですが、これは例えば人種の問題よりわかりづらいというか、あらゆるところに男女差別が染みついている社会なんだなってことが段々と身に染みてきた。自分にとって大きな変化だったように思います。
そういうことに気づかせてくれた職場の女性たちには感謝の気持ちが大きいですし、今は男性社員と関わるほうが圧倒的に疲れますね。男性のヒエラルキー主義やマウンティング志向は元から苦手で、以前であればそこに少しは適応しなきゃっていう気持ちがあったんですが、今はそれも皆無になりました。
男性って会社と自分の結びつきが強いというか、組織の中で承認されることにすごくこだわるじゃないですか。だから誰が何をしたとか、誰が誰に評価されたとか、常に人事とか出世とか実績の話ばかりしている。編集者って一応モノ作りに携わる仕事だと思うんですが、そういうタイプの男性が作る企画って想像を超えてこないというか、求められているものに寄せいていく傾向があるように思います。まとまってるけど驚きはない、全て想定の範囲内、みたいな。もちろんそうじゃない男性もたくさんいて、本当にいい仕事をしている人もいるし、逆に出世とか組織の論理とか度外視で自由に働いている人もいる。でもやっぱ、リスペクトできる人は圧倒的に女性が多いですね。
よく「男はサバサバしてて女はネチネチしてる」みたいな一般論があるじゃないですか。実はあれって全く逆なんじゃないかと最近よく思うんですよね。僕の実感としては、女性のほうが他人のことをネチネチ言わない。子育てもあるし社内政治みたいなものに関わってられないとかそういう事情もあるのかもしれないですけれど、女の人のほうが仕事も人間関係もシンプルで、一緒に働くのがすごく楽なんですよね。

『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』

何度も何度もこの文章を読み返している。
『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』清田隆之(扶桑社)は一般男性と十把一絡にされてしまいがちな男性たちのインタビューを元に構成された本。20代から40代の男性たちの性や生活、仕事に関する考えなどが記されている。
学歴、スペック、コンプレックス、家族観やジェンダー観など、ジェネレーションの違いというのは感じない。いつの時代の男性も抱えていたモヤモヤが語られているように感じるし、また一般男性と括られているが、本の中に不倫で失墜した人気芸人のインタビューが紛れ込んでいても、フラットな視点で受け入れられるだろう。

「ジェンダー規範の影響もあり、女の人って面と向かっては男を否定しないと思うんですよ。特に後輩とかは「すごいですね」「へぇ〜」とか言ってその場を収めようみたいなことが非常に多いはずなのに、男はそれを自分が肯定された、受け入れられたと捉えてしまうことが多い。でも、実態としては単に面倒くさいから褒めているだけですよね。」
こういうシーンは会社でよく見かける。男性女性問わずだと思うが、上司が振ってきた微妙な話題に対してどう対処すればよいのか困るのだ。私は「あっはい。そうですかー」で聞き流すことが多いのだが。女性は男性の先輩や上司を立てていることも多い。男性はそれを勘違いし、またいつもの調子で女性に話しかけてしまう。
私は誰かに聞かれない限りは、基本的に会社ではプライベートのことを話したりしない、結婚してからは特に。仕事に関しても、自分の成果をひけらかしたりはしないように、心がけている。とにかく後輩に気を遣われている感が恐ろしく怖いのだ。なので先回りしてこちらが気を遣う。
家では、自分を見誤ることはない。妻からも、二人の娘からも辛辣な言葉を投げつけられる。だから、こちらも素でいられるのかもしれない。

『エイリアンは黙らない』


「かわいいとか、おっぱい大きいとか、エロいことが好きそうとか、そういうふうに見ること自体が失礼だし、女性を同じ人間として扱っていないことにつながるんだなって。」
女性を性的な感じでやたら見る。例えば、かわいすぎるナントカ(最近あまり聞かなくなったが…)だとか、オリンピック開催前に綺麗な女性アスリートの特集が雑誌で組まれたり。スポーツ選手に関するメディアでの扱いなどは、選手自身が発信することで、これから更に改善されていくのだろうけど、男性の視線は時に犯罪的ですらある。チョーヒカル的に言うと見る側の心が「はしたない」のだ。

自分の体をありのまま許すことや見せることを「はしたない」なんて思っていた。そんなわけないだろ! すっぴんの顔も、ストレッチマークのある肌も、おっぱいも、お尻も、私以外の誰のものでもないのだから、誰の許可を取る必要も機嫌も窺う必要もない。風紀を乱しているのはありのままの私ではなく、人の体を性に結びすけることしかできない「はしたない」人々だ。と言うか、そんなに性別を抑制したいなら、そもそもズボンを穿かせてもらえませんか?
生まれたときから女であることを強制されているのに、生きていると女であることを貶められることがある。そのことに気付いて、ブラの締め付けが急にきつくなった気がした。私は対象ではない。私の体はエッチではない。女であることはエッチではない。別に明日から急にノーブラになる気もないけど、私のおっぱいがただのおっぱいであり、ブラはただの衣服であることを、しっかり脳裏に刻み込まなきゃ。

『エイリアンは黙らない』

『エイリアンは黙らない』チョーヒカル(晶文社)。作者のチョーヒカルは日本生まれの中国人アーティスト。そして1983年生まれ。本の冒頭に「サブカルクソ野郎」と言うワンフレーズが出てきて、それを見ただけで、この本は最後まで読み切ろうと心に決めた。
本の出版が2022年なので20代に書かれたエッセイがまとめられたものだろう。それぞれのエピソードが書かれた順に収められているのかどうかはわからないが、はじめは自分の容姿へのネガティブな考えや酷い扱いをした彼氏、周囲への呪詛の言葉の連続だったが、アメリカへの留学を経て、本の後半になると、

それは多分、私の形が昔より固まっているからだ。自分とはどういう人間か、何が似合って何が好きか、何を大切に思っているか。私は昔より私を知っているし、私以外の意見をあまり気にしなくなったのだろう。誰かにかわいいと言われなくても、私は私のかわいさを知っているし、その気持ちを肯定できるのだ。私の感覚のほうが、知らない人の一言よりも大切だとようやく思えるようになったのだ。承認欲求が満たさせる快感はもうあまり味わえないけれど、自分の頭と体がシンクロしている感覚はとても気持ちがいい。

『エイリアンは黙らない』

と記されるなど、チョーヒカルの成長というか成熟が垣間見えて嬉しくなる。

「男性のヒエラルキー主義やマウンティング志向は元から苦手で、以前であればそこに少しは適応しなきゃっていう気持ちがあったんですが、今はそれも皆無になりました。それまで男が社会的なマジョリティで女がマイノリティだなんんて考えたことなかったんですが、これは例えば人種の問題よりわかりづらいというか、あらゆるところに男女差別が染みついている社会なんだなってことが段々と身に染みてきた。」
例えば国会議員の女性議員の比率が低い、ということに関して、今後女性議員の比率を上げるための数値目標を設けるかどうか、と言うことすら遅々として決められない。
反対派の国会議員が唱える「男性女性問わず能力のある人が国会議員になるべきだ」という言葉にすら暗に女性の能力は国会議員になるのに不足している、というニュアンスを含んでいる可能性もある。
地元の運動会やお祭りにちょこちょこ顔を出す市会議員や国会議員を見ても、そもそも議員の仕事のやり方自体が古臭くて、若い人がやるのに適していないのではないかと感じる。休みの日に選挙区のイベントに出掛けて、見ず知らずの人に挨拶して回るなんて、あまりそそられない業務だ。

『妻のパンチライン』


「男性って会社と自分の結びつきが強いというか、組織の中で承認されることにすごくこだわるじゃないですか。だから誰が何をしたとか、誰が誰に評価されたとか、常に人事とか出世とか実績の話ばかりしている。」

経営者にとっては、エクセルやワードなどはあくまでツールで、会社や商品の価値を生む思考とスキルが蓄積されていくナレッジに価値があります。つまり、独自のナレッジに付加価値がつくから、ニーズが高まり利益・収入に繋がります。家庭内にマーケットはないので需要を収入に変えることはできませんが、子育てと家庭を同時進行的に運営するスキルは作業の費用換算だけではなく、膨大なナレッジも貯まっていることは明確です。
結婚した相手が、家庭を運営する意識もなく薄給に文句をたれていたら、「家庭を舐めているから、お前は出世できないんだよ」と言いたいですし、会社経営がうまくいっているのに家庭にコミットしないお山の大将社長には、「だからお前は、金儲けでしか承認欲求を満たせず次の生きる目標がなくて心の中が暇なんだよ。パンツぐらい自分で洗えよ」と突っ込みたいです。これは稼ぎには関係ありません。「家庭にコミットしないやつ全員ダサい説」を堂々と唱えていきたいと思います。

『妻のパンチライン』

『妻のパンチライン』@wifeisking(幻冬舎)は、夫がTwitterにアップした夫婦生活に関する妻の金言をまとめた本だ。ことあるごとに妻が子育てをビジネスに例えてくれていて、男性にも響きやすのではないかと思う。
私自身も仕事が忙しかった週の土曜日は、疲れている上に、(しがない田舎の中小企業のサラリーマンであっても)仕事の余韻が残ったりしていて、何かをしていても、ぼんやりと仕事のことを考えていたりもする。夜『さんまのお笑い向上委員会』を見て、やっとリセットできる感じなのだが。
ただ家事や子育てに休業日はないわけで、疲れていることを言い訳に、土曜日の家事の手を緩めるわけにはいかない。そもそも国会議員にしても、会社員にしても、「家庭にコミットしないやつ全員ダサい説」。ヘビーな説だ。

ことわざで、「親しき中にも礼儀あり」という言葉があります。礼儀というのは場をわきまえて挨拶や感謝をするということですが、その行動にともなう潜在意識に想像力が働いていると思うんです。例えば生まれて間もない赤ちゃんを育てる妻に「お前は掃除ができていない」と言う夫の指摘は、想像力もなければ論点の的も射ていないただの感情の吐き出しで、礼儀が微塵も感じられません。チームの問題で両方に責任がある状況に対して、一方的に相手ができていないことを指摘するなんて、あり得ないとさえ思います。幸い、夫はそういう「想像力0夫」ではありませんでしたが、Twitterの投稿への反応を見ると、まだまだ想像力を使えない方が多いのでは? という印象を受けました。

『妻のパンチライン』

女性に対する視線に関してもそうだが、結局は相手に対する思いやりであったり想像力が必要なのだ。

ビジネスに話を戻すと、ある一定の時期までは自分本位で突っ走る突破力が必要ですが、ビジネスの歯車が回りだしたら、仲間がなぜあなたのために動いてくれたか、知る必要があります。それは巻き込む人間力も問われる問いです。メリット・デメリットだけではないところへの想像力が必要になります。子育ては、この想像力を養う機会になると考えています。

『妻のパンチライン』

妻の分析が秀逸なので、ついつい引用を連投してしまったが、よくできた妻にいつまでも甘えていては駄目だろうし、会社の女性たちの気遣いに甘えていても駄目なのだ。
会社の仕事も家事や子育てもチームで動くものだと言うことを忘れてはいけない。自分のことだけ済ませればいいわけではなく、自分以外にも人がいる、と言うことに関して想像力を働かせる。
その想像力の補完するのに『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』も『エイリアンは黙らない』も手助けになるだろう。

性別や国籍でその人のあり方を判断するのは、本当に気持ちの悪いレッテル貼りだ。私たちはレッテルで人を見ることに、見られることに慣れすぎている。そんな数文字で表せるほどわかりやすくできていないだろうに。

『エイリアンは黙らない』

男性にだってコンプレックスはあるだろうし、それが元で心を塞いでしまうこともある。国籍が中国人と言うだけで、心無い言葉をかけられることだってある。
一時ゆとり世代をやたら悪様にいう風潮があった時期があったが、それも少し落ち着いた。ゆとり世代が新社会人になる時期が過ぎ去ったからであろうか。
私が社会人になったばかりの職場は、女性社員が上司に自らプロレス技をかけてもらったり、職場の先輩から唐突に下ネタぶくみの挨拶をされたりした。そういう時代だったのか、それとも自分の働いていた職場が特殊だったのか、判然としない。いや変わった会社だな、と同僚と話し合っていたのだが、そう言うことが許された時代でもあったのだろう。
ついつい世代やジェネレーションという言葉で、年齢層による線引きをおこないがちだが、若い世代の個性の数は、若い世代の人口分あると考えておくべきなのだろう。
ジェネレーションの違いと言うよりも環境の変化に、年老いた男闘呼たちがついていけない、ということだけなのだ。
いつも読んでるあの漫画のタイトルがパッと思い出せない、といった加齢による思考や身体的な衰えといったものもあるだろうし、単純に新しいものに興味が湧かないということもあるのだろう。そこには長年培った仕事観やライフスタイルを大幅に揺るがしたくない、という億劫さもあるのだろうし、如何せん体力が続かないのだ。若さが欲しい。


今月の本
『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』清田隆之(扶桑社)
『エイリアンは黙らない』チョーヒカル(晶文社)
『妻のパンチライン』@wifeisking(幻冬舎)

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