『不寛容論』、そして愛すべきロジハラおじさんたちについて

 版元さんからご恵贈いただいた、森本あんり『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学』をようやく読了。仕事の本ばかり読んでいてうんざり気味の日々の中で、久しぶりに読書の楽しみを十全に味わうことのできた得難い体験となった。

『不寛容論』というタイトルではあるが、本書の実質は「寛容」について論ずるものであり、膨大な文献や研究の積み重ねがあるこの分野について、とくにロジャー・ウィリアムズという17世紀の人物に焦点を当てることにより、選書のサイズでコンパクトに素人にも理解しやすい読み物に仕上げている。

「わたしはあなたの意見に反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」――こんなユートピア的な寛容社会は本当に実現可能なのか。不寛容だった植民地時代のアメリカで、異なる価値観を持つ人びとが暮らす多様性社会を築いた偏屈なピューリタンの苦闘から、そのしたたかな共存の哲学を読み解く。現代でこそ役に立つ「キレイごとぬきの政治倫理」。

 上記は本書の裏表紙に記された内容紹介文だが、この簡潔な要約に心惹かれるものを感じた方には、ぜひご一読をおすすめしたい。このポリコレにうるさい世の中で、名のある著者と出版社によって公刊される書物が「キレイごとぬき」を謳っていても、つい眉に唾をつけたくなるところではあるのだけど、本書はなにしろ扱われているロジャー・ウィリアムズという人物がツイッターでもたまにしか見かけないレベルのロジハラ偏屈おじさんを肉化したような存在なので、伝記的事実を丁寧に追えばそれだけで、「キレイごと」は抜きにならざるを得ない仕組みなのである。

 たとえば、このウィリアムズがコトンという論敵と交わした批判の応酬があるのだが、そのタイトルが以下のようなものだ。

一六四四年:ウィリアムズ『迫害を説く血まみれの教え』
一六四七年:コトン『子羊の血により洗い清められた血まみれの教え』
一六五二年:ウィリアムズ『コトン氏が洗い清めようとしてさらに血まみれになった教え』

 タイトルだけ見ると、「バーカバーカ!」「バカって言ったほうがバカなんですー!」みたいなレベルの罵り合いのようだが、両者はともに高い教育を受け、当時のアメリカの神学界をリードするエリートである。著者の森本氏は上掲について「それぞれの題を見るだけで、二人の応酬ぶりがよくわかる」と述べているが、私はつい「レスバかよ!」と思って笑ってしまった。当時の世界にツイッターなどがあったとしたら、ウィリアムズなどはさぞかし一日中張り付いて、レスバに励んでいたに違いない。

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