【書評】細川晋輔『人生に信念はいらない』
少し前のことになるが、ある僧侶の方が「仏教のにおい」という表現をされているのを聞いたことがある。現在、日本にはコンビニの数を優に上回る7万5千箇寺以上の寺院が存在し、それに応じて仏教僧侶の数もたいへん多い。日本には「無宗教」を自認する人の数も多いが、そうした人々であっても、多くは親族が亡くなれば僧侶を呼んで葬式を行い、寺院の中に墓を作る。人生において、仏教の僧侶と会ったことがなく、寺院に入ったこともないという日本人は、おそらくほとんどいないだろう。
だが、そのように日本の文化にとって欠かせない存在である仏教を維持する僧侶たちの全てが、自らの所属する宗派が説く教えを、己自身の人生を生きる上での指針として、本気で信仰し、実践し、その教説を体現する存在であろうと、せめて試みているのかどうかというと、必ずしもそうは言えない面もある。要するに、その是非は措くとしても、あくまで伝統的な様式に則った葬送儀礼を実行する「職業」としての僧侶ではあるが、自身の属する宗派の述べる教説が、本人の人生にとっては全くリアルなものとして感じられてはいないような、そういった僧侶も、存在はするということだ。
もちろん、日本の仏教はたいへん裾野が広く層の厚いものだから、そうした「仕事でやっているお坊さん」だけではなくて、所属している宗派の示す仏教の教説が、そのまま僧侶本人の人生にとっても生き方の指針となっており、その信仰や実践を長く続けることで、その人自身が他者から見れば「生きる仏教」そのものであると映るような、素晴らしい僧侶もたくさんいらっしゃる。冒頭の僧侶の方が、「仏教のにおい」がすると表現されたのは、まさにそうした「自ら仏教を生きている」と言うべき、意識と覚悟の伴った仏教者たちのことであった。
そういう意味では、臨済宗僧侶・龍雲寺住職である細川晋輔師の近著、『人生に信念はいらない 考える禅入門』(新潮新書)は、むせ返るような「仏教のにおい」に包まれた著作である。本書は基本的に、著者である細川師が禅僧となって修行し、押しも押されぬ名刹である龍雲寺の住職として世に立った現在に至るまでの人生行路をたどりながら、臨済禅の初歩的な知識や僧堂での修行の様子、そして著者の禅に対する(現代日本の読者にとってはひょっとしたら新しい)考え方を並行して語ってゆくという構成になっている。
そうした記述の一つ一つに、九年間にもおよぶ妙心寺での修行において、「千をゆうに超える」公案と取り組んできた経験が裏打ちされているのはもちろんのことだが、何よりも感銘を受けるのが、著者にとって仏教や禅というものが、僧堂での長い修行期間を終えた現在においても、なお「新鮮で楽しい」ものであり続けているということが、記述の端々から感じ取られることである。たとえば、「道楽」という周知の言葉が、元々は「仏道を明らかにしていくことを楽しむ」という意味の仏教用語であることを指摘し、そこに禅の教えの本質もあることを述べるくだりなどは、著者本人が自身の行道を「楽しんで」いなければ、なかなか書けるものではなかろうと思う。
細川師は、この「道楽」のくだりと同じ箇所で、
このお坊さんと話していると、何かわからないけど、心が軽くなる。何の理由もないけれど、一日頑張ってみようと思うことができる。そんなお坊さんが増えてきたら、これからの仏教は前途洋々と思うのです。
と記されているが、まさに本書自身がそのような効果をもつ文章の集積であって、読んでいると自然に背筋が伸びるが、かといってそれは責めるようなプレッシャーではなく、連なる文字列を最後まで追ってゆくことで、仏教に限らずとも、己にとっての本務であることを、ちょっと頑張ってみようかなと思えるような、そんな爽やかな読後感があった。
ただ、本書の内容について一つ、私の不満というよりは、一般読者にとって、おそらく隔靴掻痒の感があるだろうと思われたことは、本書の記述には「肝心かなめのところが書かれていない」ように見えることである。いや、より正確に言えば、肝心かなめのところはこれ以上ないほどはっきり書いてあるのだが、そこに至るまでのプロセスとしてあるべきピースの記述がばっさりと欠けているので、ひょっとしたら(とくに仏教の実践にあまり親しみのない)一部の読者にとっては、その「肝心かなめ」の部分が、そうは感じられないままに終わってしまう可能性がある、ということだ。
本書で紹介されているように、いわゆる「公案」の問いを一問一問、はしごを登るようにクリアしていって悟りへと到達しようとする臨済禅の禅風のことを「はしご禅」と言うが、その「はしご」を自身が登っていった先に開け風光に関しては、細川師は何らのごまかしもてらいもなく、はっきりと書かれている。たとえば、こんなふうに。
本当に当たり前のことなのです。(中略)
夏にはトマト、秋にはナスが美味しくなって、冬になると大根が太くなる。夏の井戸水は気持ちいいくらい冷たくて、冬の米とぎの時には、温かく感じる――。
これが、私の九年にわたる禅修行の成果であったのです。
当たり前と思われるこの世に起こる全ての事象ですが、実はそれらは宝くじが何回も当たるくらいの奇蹟の連続で成り立っていること――そのことを体感し、それに心から「有り難い」と感謝できる自分に気づくことができる。これこそ、仏教の真理であり、禅の悟りが目指すところであると気づかせてもらったのです。
ここにはご本人の言うとおり、きわめて「当たり前」のことしか書いておらず、それゆえに、これは何ひとつのごまかしもてらいもない、「肝心かなめ」の記述そのものだ。だが、そのように書かれている言葉の意味の理解には全く困難を感じないような文章であるからこそ、ここで細川師が述べようとしていることに心身を挙げて頷くのは、とくに仏教の文脈に馴染みのない一般の読者にとっては、かなり難しいことなのではないかと思う。
『大パリニッバーナ経』でゴータマ・ブッダは、弟子のアーナンダに対して、自分の教えには「師の握り拳(ācariyamuṭṭhi)」はないと言っている。「師の握り拳」というのは、異教の教師が握り拳で隠しておいて、死の床についた時にはじめて気に入った弟子に明かすような、秘密の中で伝授される教えのこと。死期の迫ったゴータマ・ブッダは、「自分は弟子たちに教えられることは全て教えたし、既に語ったこと以外に、別に握り拳で隠してあるような教えはない」と言ったわけである。
他方、臨済禅においては、公案について老師と問答を交わすという修行の中核部分の内容に関しては門外不出とされているし、また細川師も、この点に関しては明確にそうあるべきだと考えられており、ゆえに本書のサブタイトルである「考える禅」の本質の一つとなる、公案問答の内容については、ほとんど具体的な記述がない。ゆえに、本書を読んだ一般読者の視点からすると、「はしご」を登る前のエピソードと登った先の景色については書かれているものの、そのあいだを埋める「はしごを登っていくこと」のイメージが具体的につかみにくいので、上に引用したような、「はしご」を登った先の風光をズバリと書いた「肝心かなめ」の記述にも、なかなかリアリティを感じにくいのではないかと思われるわけである。
本書の中では、夏目漱石が円覚寺の名僧・釈宗演の下で公案修行に参じた際の感想を述べたものとして、小説『門』から、
「(腹痛で苦しんでいる者に対して)むずかしい数学の問題を出して、まあこれでも考えたら可かろうと云われたと一般であった。考えろと云われれば、考えないでもないが、それは一応腹痛が治まってからの事でなくては無理であった」
という一節を引いているが、先ほどの細川師の記述に対しても、「夏にはトマト、秋にはナスが美味しくなって、冬になると大根が太くなる」というような話が、現在の自分の具体的な悩みや苦しみ(「腹痛」)と、何か関係があるものかどうかわからない、と感じる読者はいるであろう。
この点に関して私の考えを述べておくと、もちろんこの両者のあいだに関係はあるし、細川師も、わかる者にはわかるようにそのことを書いている。ただ、それこそ「はしごを登るように」、その間隙を言葉と論理で埋めるような記述を、本書ではしていない。そして、これは実際のところ、細川師の「老婆親切」そのものなのである。
上の細川師の言葉にあるように、「当たり前のこと」を「奇蹟」であると感ずることは、実際には、全く「当たり前」のことではない。「奇蹟」というのは、「当たり前」ではないことが起こっていることを言うからである。ならば、「当たり前」を「奇蹟」であると知るということは、「当たり前のことを当たり前だと思っていた、それまでの己のあり方が変化したこと」を意味するはずだ。
そして、このような認知の前提それ自体が転換してしまうような変化は、残念ながら他者から言葉と論理によって、どれだけ多くの「説明」を受けたところで、人間に生じるようなものではない。それは本書の例にもあるように、料理の味についてどれほど上手い表現で説明を受けようと、自分で一口食べてみるほうが、ずっと明らかにその味を知ることができるのと同じことである。
認知の前提が変わらない状態で他者から受ける「説明」は、本人の現在の認知の範囲内でしか理解されない。それは、グルメガイドを読むだけで、実際に料理を食べた気になってしまうようなものである。ゆえに、細川師は「はしごを登った先」に見える「答え」については、いっさい「師の握り拳」で隠すことなく、読者に対して端的にそれを提示するが、「はしごを登るプロセス」の核心部分については語らない。それは、「はしごの先を見ようとする本人が登ること」そのものに、意味があるプロセスだからである。
……ここからさらに加えて、本書の「人生に信念はいらない」というタイトルと、「心の柱を確立せよ」という本書の中核的なメッセージの関係について書こうかと思ったのだが、さすがに長くなりすぎたので、この点については瞑想について書く別の記事でふれることにする。
ここまで長々と述べてきたことは、もちろん坐禅などほとんどしたことのない私が、本書を一読して感じた私見を述べたものに過ぎない。したがって、細川師からすれば、「大間違いの大外れ、妄言もたいがいにしろ」という内容であるかもしれない。もちろん、ここで誤ったことが述べられていた場合には、その責任は全て私にある。細川師におかれては、何か本書評に問題がございましたら、次にお会いしました時にでも、ぜひ警策にてご叱正を賜りますように。
※以下の有料エリアには、過去のツイキャス放送録画(私が単独で話したもの)の視聴パスを、投銭いただいた方への「おまけ」として記載しています。今月の記事で視聴パスを出す過去放送は、以下の四本です。
2018年5月29日
2018年6月17日
2018年6月23日
2018年6月27日
九月分の記事の「おまけ」は、全て同じく上の四本の放送録画のパスなので、既にご購入いただいた方はご注意ください。
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