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「我」が消えることで失われるもの

 昨日、一昨日のエントリでは「コミュニケーションに適した身体」の話をしてきたが、ここで敢えてちゃぶ台をひっくり返しておくと、私自身は、「コミュニケーションに適した身体」を獲得することにメリットを感じなかったり、あるいはそのための訓練をすることに非常な苦痛を覚えるタイプの人たちは、それを得るために強いて無理な努力をする必要はないだろうと思っている。「コミュニケーションに適した身体」は現代日本社会において普通に生活しようとする際に、多くの場合においてたいへん役立つが、そのような身体性が取りこぼしてしまう世界の豊饒さというものは存在するし、むしろ「コミュニケーションには適さない身体」を保持しているほうが有利になるような領域も、相対的には少数ながら、存在はしているからである。

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