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tomekantyou1
境界画定の暴力性と「新しき中世」
「公助が確立していなければ自助も成り立たない」というのはそのとおりだと私も思うけれど、現代日本では「公助」をやるためには当然に存在していなければならない「公」というものが、広く私たちに共有可能なものとしては、既に消えかかってしまっていることが最大の問題なんじゃないかと思うタピね。
— ニー仏 (@neetbuddhist) November 17, 2020
そして、たいへん悲しいことに、そのような「公」を再形成しようとする試みに、最も激しく抵抗するのは、しばしば「公助」の必要性を最も強く訴える人たちと同じであったりもするタピよ。
— ニー仏 (@neetbuddhist) November 17, 2020
昨夜はこんなツイートをしたけれども、ここで私が言いたかったことは、基本的には下掲の過去エントリで述べていたことと同様である。
公助が確立していない世界で個人に自助を求めるのは、「全体」の存在を信じられない(もしくは、自身がそこから排除されていると感じている)人に対して「一隅を照らす」ことを求めるようなものなのだから、それが成り立たないのは当然のことである。ただ、不思議なようで実際には全く不思議ではないことではあるが、公助の必要性を強く訴える人たちに、「それでは公助を人々の同意を得て実行するためには当然に必要である『公(全体)』というものを、ほとんど消滅しかかっている現状から掬い上げて、より明確なものとして再形成してゆくことも必要ですね」と指摘したならば、その人たちは多くの場合において尻込みし、時には居丈高に怒り出したりすることもままあるのだ。
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