見出し画像

ただ空白であるということ

 昨日は生活と熱に関するエントリを書いたわけだけど、一夜明けてみて改めて思うのは、創造性の涵養にとって実に大切な要素の一つが(少なくとも私にとっては)「空白」なのだなあということである。

 河合隼雄がユング研究所に留学した際に、「少なくとも一日の半分はぼーっとしていないと駄目だ」と言われたと、どこかに書いていた記憶がある。わざわざ留学しに来ているのだから、当然に「勉強」や「実習」などで一日の時間を埋め尽くすのが「効率的」だと考えるのが普通だと思われるところ、敢えて「何もしない(ぼーっとする)」時間を多くとれと言われたというのが面白くて、たぶんその話を読んだのは高校生とかの頃だと思うのだけど、こうしていまだに覚えている。

 とくに大人になり、仕事もするようになってからは(私のような者でも)毎日時間が足りなくて、ちょっと余裕ができるとそのあいだに勉強をしたり、そうでなくてもせめて映画を見たりなどして、「有益なこと」に時間を使いたいという気持ちが強くなってくる。もちろん、必要な材料の準備なしに家を建てることはできないのと同様に、自己の内にあるなんとはなしのイメージと熱を現象の世界において表現にもたらすためには、いわば「素材」としての知識や技術が不可欠だから、このようなインプットの過程も創造のためには当然欠かせない。

 ただ、そのような「素材」だけで脳というか、より私自身のイメージに近い言葉を使えばマインドを埋め尽くしてしまうと、そこに新しいものを迎え入れるだけの余白がなくなって、創造のためには「素材」と同様に必要である、不定形のイメージや熱が発生するための場所を空けてやることができなくなる。そうなってくると、自らアウトプットしたいという意欲もどんどん薄れてくることになるから、ますますインプットのために時間を費やすことになり、結果として、隙間なくギッチギチに「素材」をマインドに詰め込んではいるものの、だからこそどこにも動くことができないような、硬い知性ができあがってしまうことになるのである。

 たとえば最近の「プチ瞑想」や「マインドフルネス」の軽いブームなどは、そのように忙しない生活の中でギッチギチになってしまった人々のマインドをリフレッシュもしくはリセットして、そこに余白を回復したいという、一部の人たちの欲求に応えている面は少なからずあるだろうと思う。そして、言うまでもないことだが、そのような実践を行うことで本人の人生がより充実したものになるのであれば、それはたいへん素晴らしいことであるとも思っている。

ここから先は

1,108字
この記事のみ ¥ 300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?