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ガチな部分で質が高い

 外は風がびゅうびゅうと吹いていて、それが止むたびに暖かくなる。ついこの前まで真冬だったような気がするのだが、陽射しのほうはもうすっかり春のそれだ。このぶんでは、きっと夏になるのもあっという間なのだろう。

 仏教のアレのお二人が、『自由への旅』の読書&講評会をYoutubeLiveではじめてくださったようで、とても嬉しい。なにしろ本書は、ミャンマーでの瞑想実践の期間中、私がずっと座右において参照していた著作であり、管見の範囲ではほとんど類書がなかったものだから、「これだけは日本の人々に紹介しなくてはならない」と考えて、2012年中には最初の全訳を終えてしまったものである。もちろん、当時は出版の可能性なんて欠片も実在していなかったわけだが、おかげさまで2016年には最高の形で本にすることもでき、版元の新潮社さんには本当に感謝の言葉もないといったところだ。

 そんなわけで、『自由への旅』は実践者として仏教に関わる人たち全てに対して激推しできる著作なのだが、本書に一つだけ難点があるとすれば、それは「内容がガチすぎる」ということである。

 この「ガチすぎる」ということの内実について、私の視点から言えることは、上掲の過去エントリにまとめてあるとおりである。

 実際、本書は長く瞑想を続けている人たちには概してものすごく評判がよいが、そうではない初心者の方や、まだ瞑想をしたことのない人たちは、大部の本書を三分の一くらい読み進めたところで、たいてい挫折してしまうようである。

 これは上の記事を出した一年前の時点で、『自由への旅』への様々な感想を聴いたところから書いた文章だが、今回、冒頭に引いた動画や下の動画の該当部分で、仏アレのお二人も同様のことを言われており、「やはりそうだよなあ」と、改めて本書の「ガチさ」を実感してしまったことであった。

 当たり前のことだが、『自由への旅』を読む方々の全員が瞑想の実践者であるというわけではないので、それなりの(ひょっとしたら年単位の)実修の経験がないと「そもそも何について語っているのか」ということすら理解しにくい、本書の第四章(人によっては第三章)以降の記述は、相当数の読者にとって、ついてゆくことが困難だろうし、場合によっては、ひどく退屈なものだろう。

 仏教のアレのお二人も「安泰寺での修行生活を経て、はじめて『自由への旅』の内容を共感的に理解しつつ読めるようになった」ということを言われていたが、まさに本書の性質とはそういうもので、その読書体験の内容自体が、読み手の変化につれて「成長」してゆくようなところがある。たとえばお二人も指摘されているように、巻頭すぐに書いてある「取引をしてはいけない」ということが、修行の「スタート」であると同時に「ゴール」でもあると骨身にしみて理解できるようになるということは、そうした事態の一つの象徴的な例だ。

 とはいえもちろん、そのような己の変化に伴う読書体験の「成長」を味わっていただくためにも、まずは本書を手にとって、できれば座右に置いていただく必要があるわけで、「ガチな部分で質が高い」この本は、そういう意味ではやはり「ハードルが高い」ところはあるなあと、翻訳者としては思っていた(※同時に、それでも版を重ねているということが、当然ながらウ・ジョーティカ師の著述の凄みではあるのだけど)。

 その点、今回の仏アレのお二人の企画は、YoutubeLiveという媒体の特徴をフルに活かして、親しみやすい話し言葉で、随時コメントによる質問も受けながら、本書の魅力を逐一説き明かしてくれるというもので、これは全く有り難い法施であると、訳者として感じている。

 現在の様子だと、おそらく基本的には一回に一章を扱いつつ、本書の最後までコメントをしてくださる予定のように見受けるので、曹洞宗の禅者としての独自の視点なども楽しみにしつつ、私もこの動画シリーズを、久しぶりに『自由への旅』をゆっくり読み返す機会にさせていただければと思っているところである。

(※以下は、購読者向けの深煎りコメント。「本来無一物」のことなど)

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