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なぜ「質問」のふりをして主張するのか

 これまで私のnote等を通じたウェブ上での発言をそれなりに長くチェックしてくださっている方々はご存知のことと思うが、私は「文書による質問に文書でお答えすることは原則として無償ではいたしません。『議論』についても同様です。ご質問に関しては、ツイキャスのライブ放送中にコメントにて書き込んでいただければ対応します」と繰り返し述べてきた。

 その理由についても同様に何度も書いているのだが、ここで端的に再説しておくならば、それは「質問というのは問うよりも答えるほうに何倍も手間がかかるものであり、とくに互いに文書でのやり取りをメディアとする場合には、その事情はより顕著なものとなる」からである。そのような負担を誰ともわからないインターネットの向こう側の人たちから無償で課される義理は、当然ながら私にはない。

 キャス中のコメントであれば対応するとしているのは、多く話すことは多く書くよりも負担が少ないということに加えて、ライブのコメントであればリアルタイムで双方向のやり取りができるので、質問者の意図や本人の事情について必要な確認をしやすいということが大きい。質問が「問うよりも答えるほうに何倍も手間がかかる」のは、質問者が「何がわかっていないか」ということは(しばしば本人にさえ)不明確であることが多いので、周到に答えようとするならば、周辺の文脈からはじめて丁寧に問題全体の構造を解き明かす必要があり、その負担が実に大きいからである。リアルタイムで質問者の反応を確認しつつ口頭で必要なぶんだけを回答するという形式であれば、この負担は相対的にではあるが減少する。

 上記は「質問者が実際にわかっていないことに対して、必要な回答を適切に行うことは(それなりに)難しい」という話だが、もう一つ別の面倒な問題として、「そもそも質問者は質問をしたいわけではなく、そのような形式でこちらに『主張』をぶつけようとしている」ということもしばしばある。このような場合にはそもそも「回答」しても無意味というか、こちらの発言は全て相手がさらに演説をするための「燃料」にしかならないので、基本的には黙殺が最適解ということになる。インターネットで、その種の「質問」者に絡まれた経験というのをもつ人は、おそらく多いのではないか。

 経験則から言えば、この種の人たちに共通する特徴の一つは、「シャドーボクシング」で襲いかかってくるということである。たとえば、Aという話をしている私に対して、「なるほど、Bに見えるのもわからなくはありませんよ。しかし世の中にはAということもあるんです。それについては、どうお考えなんでしょうか?」と「質問」してくるような人たちだ。こういう人たちは脳内でBと主張をする敵を仮想して、それとシャドーボクシングをしたわけだが、迷惑なのはその脳内の影に私の名前をつけてしまったらしいということである。だが、本人たちにそのことを指摘するのは無駄というもので、その先にあるのは終わりのないヌルヌルうなぎ論法のインフェルノだ。

 彼/女たちが主張をするために「質問」の形式をとりがちなのは、何かしらの積極的な立場を明らかにすることに伴う責任を回避したいということもあるだろうが、同時に「主張する私」を本人自身が直視したがっていないという面も大きいように思われる。つまり、「これはあくまで質問であって、主張ではない」というのは、対外的な言い訳であるにとどまらず、本人が自身の認識に対してかけているヴェールでもあるということだ。

 実際、「シャドーボクシング」をしかけてくる人たちが「質問」を通じて主張するのは、しばしば「私のほうがより現実を直視している」ということなのだけど、わざわざ他人の文章を誤読してまでそのようなことを訴えずにはいられないのは、管見の範囲の観測から言えば、

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