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「ために」をやめる

 私たちは人生の多くの時間を何かの「ために」生きていて、そうしなければ「この一回きりの人生が無駄になってしまう」と考えている。たとえば、来年の年収を増加させるために、半年後の試験に合格するために、いつかサンスクリットが読めるようになるために、いまのこの時間をどう使うかということを、常に真摯に計算しているわけだ。このように、「できれば現実化してほしい未来のために、現在の時間を投資する」ということは、私たちがこの世界で「上手くやってゆく」ことを考えれば、是非とも必要なことではあろう。

 ただ、この「ために」のモードだけで人生の時間が埋め尽くされてしまうと、多くの人はしばしば疲弊し、いわば摩耗してゆくことになる。時間を効率的に「投資」したことによって、目的としていたことが望みのとおりに達成されていたとしても、その代償に己の存在そのものが、何かかんなのようなものにかけられて、徐々に削り取られているような感覚に陥るわけだ。このような事態が生じたときに、それでも敢えて己を策励して、「ために」のモードに自身を留め続けることができることこそ「強さ」であると、考える人もいるだろう(ひょっとしたら、現代日本ではそちらのほうが多数派かもしれない)。しかし、他方で自分が摩耗していると感じたときには、たとえ一時的にであれ無理にでも「ために」のモードから脱出して、削り尽くされた鰹節のようになった己自身の回復を試みる人もいる。私としては、この後者のような人のほうを、「強い」と考えておきたいところだ。


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