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「正義」の看板をかけた自己破壊

 さて、比丘たちよ、苦の集起の聖諦とはこれである。即ち、再生をもたらし、喜びと貪りを伴って、随所に歓喜する渇愛であって、つまりは欲愛、有愛、無有愛である。

 ゴータマ・ブッダは最初の説法(初転法輪)でこのように述べて、衆生の苦の原因(集起)は渇愛であると特定し、その渇愛とは細かく見れば欲愛・有愛・無有愛のことであると分類している。

 これは仏教の基本教理である、有名な四諦説の一部を取り上げたものだが、その全体や用語に関する詳しい解説は、たとえば『だから仏教は面白い!』などを参照していただきたい。今日のエントリの話題にしたいのは、ゴータマ・ブッダが衆生の苦の原因であるとした渇愛の中に、「無有愛」という一般には聞き慣れないものが含まれているということである。

 有(bhava)というのは存在のことで、ゆえに有愛(bhavataṇhā)とは存在することへの渇望である。ほとんどの人にとって、「死にたい」と口にはしても実際に死ぬことはかなりハードルが高いという程度には、自身の存在を保つことに対する希求は強いから、こちらはそれなりにわかりやすい話だ。

 他方で、無有愛(vibhavataṇhā)というのは読んで字のごとく非存在(無有)を求めるものであって、このような欲動が衆生の根底にあって苦の根本原因を形成しているということを、教の最初期から説示していたというあたりは、やはり仏教の凄いところである。

 とはいえこの無有愛も、少なくとも現代人の感覚からしてみれば、さほどにわかりにくいものではないかもしれない。それこそ死を冀う人からすれば無有愛という概念は親しいものに感じられるかもしれないし、既に存在している者が非存在を欲望することが苦に繋がるということも、見やすい道理であるようにも思える。ただ、この無有愛の表現は多く否定性の形をとるから、その否定の対象が本人や周囲にとって「悪いもの」であると捉えられていた場合、対象への攻撃はむしろ「正義」や「善性」の発露であるとみなされて、それが渇愛という衆生のプリミティブで根源的な欲動の作用の結果でもあり得るということは、しばしば見逃されがちであるように思う。

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