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「制限」は手放せない

 このところ何日か、仏教や瞑想に関する「ガチめ」の話をエントリにしていて、そういう種類の文章は、たいてい記述が途中からマガジン有料部分に入ることになるのが通例である。

 こういう文章を書く時に、最初から有料部分で「かんじんなところ」を述べようと決めていることは実は少ない。だいたいのテーマを考えてから書き出して、任意に叙述を進めてゆくと、あるところで「このまま全体公開の記事として書くのであれば、相当に表現を抑えなくてはいけないな」と感じることになり、そうするのはつまらないと思ったら、その先はマガジン限定公開部分とすることを、事後的に定めていることのほうが多いのである。そのような対応を柔軟にとりやすくなったことについては、本当に現在の形式を導入してよかったと思うところだ。

 ただ、そのように制限が少なくなることも単純によい面ばかりではないというか、個人的に警戒を保つべきところも大いにあるだろうと考えている。かつて(私自身にとっても、世評からしても)素晴らしい作品を描いた漫画家さんがいて、その方が「これまでは立場上いろいろと遠慮せざるを得ないところもあって、自由に描けないことも多かった。しかし、この作品こそが本当に私の描きたかったものなのだ」と言って次に連載した漫画があるのだけど、これが実につまらなかった。こういう時には「理解できない私たちのレベルが追いついていないのだ」と言っておくのが奥ゆかしい態度であるのはわかっているが、誰のこととは書かないのではっきり私の評価だけを述べておくと、まあ本当に駄目になっていたと思う。実際、一般からの評価もおそらくは決して高くはなかったようで、その作品は、早々に連載終了してしまった。

 もちろん、ここで言いたいのはその漫画家さんの悪口ではなくて、制限を取り去るということが、表現にとってはむしろしばしば「毒」になり得るということである。

 当たり前のことだけれど、公開を前提とした表現をするということには、様々な制約が伴う。それがいわゆる「商業」作品であれば、なおさらのことである。自分がどれほど面白い・質が高いと思っていても、受け手のほうがそう思ってくれなければ買ってもらうことはできないのだから、「私にとってどうか」ということよりも「見る人にとってどうか」ということを(少なくとも部分的には)優先させた表現をしなければ、そのうち公開することもできなくなってしまうからである。

 インターネット時代である現代においては、公開することだけであればコストは非常に安くなったから、自身の熱意が続くかぎり、あまり人気のない表現であっても、持続的に出し続けることはしやすくなっただろう。実際、「商業」の制約を離れて、己が本当に好きなもの・よいと感じるものを、見る人の数などは気にすることなく、淡々と公開し続けている人たちはネットの世界にはたくさんいる。

 それはそれで、言うまでもなく素晴らしいことだと私は思うけれども、それと同時に、「できるだけ多くの人に見てもらおう」と考えることで頭をよぎる様々な文脈が表現にかける「圧力」のようなものは、時にアウトプットの質をむしろ底上げしてくれるような働きをすることもあるのではないかと考えたりする。もちろん、やっている本人は「この制限さえなければ、もっと思いどおりにやれるのに!」と感じてしまうことがしばしばなのだけど。

 既述のように、私はnoteの運用方式を現在のように変えたことで、扱える(書いてもよいと思う)トピックがずいぶん増えたから、今後もこのやり方は続けてゆくつもりだけれど、とはいえ「バリア」があることに甘えすぎて「制限」の意識を失ってしまうことになったとしたら、それはそれでよくないだろうなあと思っている。種多の文脈を考慮に入れた上で、それら全てに目配りしたものを書くというのは実に面倒なことだが、そうした針の穴を通すような繊細な作業をやりおおせた時の表現というのは、しばしば私にとって、生涯の記憶に残るような仕事になるからである。

(※このあとに文章はありません。)

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